はてなキーワード: 推測とは
在学中に、うちの中学校で起きた事件だ。
音楽教師と男子生徒が卑猥な行為に及んでいたという事件。男子生徒は同級生であり、たまに一緒に帰ったりする友達だった。事件は音楽準備室で行為中の二人を、生徒が目撃するという最悪の形で発覚した。
一気に話は広まり、他クラス他学年の人たちが、相手の男子生徒の顔を見ようと、教室の扉の前に集まるようになった。
そんな騒ぎへの学校側の対応は、教室前の塊を教師が声を出して散らすだけという温いもので、当事者の男子生徒は好奇の目とからかいに耐えられなくなり、すぐに不登校になった。
音楽教師は校内の騒ぎに巻き込まれる前に、学校から姿を消して、そのままずっと見ることはなかった。
私はと言うと、騒ぎを静観しながらも、事件の概要を聞いて、私と彼に関する二つの事柄を思い出していた。
一つは、放課後に彼と二人でいて、彼が離れたところにいた音楽教師に視線を移し「あそこ真っ黒なんだぜ」と私に耳打ちしたこと。その時の私は彼の視線の先に音楽教師がいたことは認識したが、「あそこ」が何を指しているか理解できなかった。
二つ目は、音楽教師が顧問している演劇部に彼が所属していたこと。といっても幽霊部員だったのだが、彼は音楽教師に演劇部に入らないかと誘われて入ったと言っていたのだ。その勧誘は生徒一人一人の歌唱力を試験するテストの最中に行われたという。テストは音楽準備室で教師と生徒の二人だけで行われる。私は音楽教師が個人的に彼と親しくなるきっかけを作るために、勧誘したのではないかと推測する。
そして、その音楽テストでの勧誘は私にも行われたのだ。音楽教師は私の歌唱を不自然に褒めちぎり、自身が顧問を務める演劇部に誘った。私は演技に興味はなかったので断ったが、今にして思えば、歌唱力を誉められたのは人生であの時だけだし、歌が上手いからと演劇部に誘うのは何だか辻褄が合わない。もしかしたら音楽教師は、私にもモーションをかけようとしていたのだろうか? 考えすぎなんだろうが、もしからしたらと仮定すると、他人事だったこの事件が途端に恐怖を帯びてくる。一歩間違えれば事件の当事者は私だったかもしれないのだ。
教師の誘惑と自身の煩悩がゆえに、彼の学校生活は破壊された。友人関係等を、リセットせざるをおえないところに追い込まれた。両親との関係も変質しただろう。人生の軌跡に大きく刻まれる分岐点だ。今、事件から長い月日が経つ。現在の彼にとってこの事件はどのように位置付けられてるんだろうか。「良い思い出」なのだろうか「苦い思い出」なのだろうか。
しかし、いくら考えても結局は「でも、セックスしたのは羨ましいよなぁ」と思うのが正直なところである。
http://anond.hatelabo.jp/20070617211221
自分が嫁に落とされた経緯。
付かず離れずなんとなくお友達で何年か。
ある時ふと「好きだ」と気が付いて(略)。
じわじわと相手の心を侵食して、最後のトドメだけ勢いで。
http://anond.hatelabo.jp/20070617230414
ガードが堅い人ほど身持ちも堅く浮気とかもせず、自分のことをひとたびみてくれたなら、ずっと好きでいてくれそうという推測があるのでしょうか?
他の人に靡く可能性が低いからこそ好きになれるとか。
リアルイナゴ。
asahi.com:関空2期島にバッタ大発生、駆除へ 数百万匹が生息か? - 関西
8月2日にオープンする関西空港の2期空港島で、バッタが大発生している。空港会社は「航空機のエンジンに吸い込まれでもしたら大変」と、駆除に乗り出した。
発生したのは最大で体長10センチほどのトノサマバッタ。第2滑走路の周りの芝生や植栽をえさに繁殖したとみられ、すでに数百万匹が生息していると推測されている。
99年から造成された2期空港島は滑走路以外に施設がほとんどなく、人もあまり入らない。「天敵もおらず、バッタにはまさに楽園の島に思えたのかも」と担当者。
イナゴではなくトノサマバッタだけどな。
なにもないひろっぱに草生やして放置すればイナゴみたいなものが湧くのも道理。
参考1
- 直翅目
参考2
再度個別にレスをします。
なぜ辛いのかわからないのかがわからない。
だって僕らは薄くて厚いプラスチックの板で、絶望的に隔てられてるじゃあないか。
回答に感謝。
うーんと、とても当たり前のことだから、かえって説明しづらいってことかな?
オレには「プラスチックの板」が何で、それで隔てられてるとなぜ辛いか、が分からない。推測はできても、それはあなたの言葉ではない。できればもう少しわかりやすく説明してもらえると助かる。ただ、オレを助ける義務はないよね。
「プラスチックの板で隔てられてる」=「2次元キャラには触れないし、喋りかけてくれないし、だから愛されてるってことを確認できない」かな?
だとしたら、なぜ触れないとダメなの?喋りかけないとダメなの?
断られない、なのに承諾もされない。
あんなに優しく私に向かって微笑んでるのに、私を見てくれてはいない。
だから無理だとわかってても諦められないし、そんな私を嫌うことも、受け入れることもなく微笑んでいて、だから私はどんどん魅了されていく。なのに、何も届かないんだ。
回答に感謝。
生身の人だったら、断るか承認してくれるか、のどちらかだけど、2次元の人はどちらもしてくれない。だから永遠に気持ちが宙吊り、っていうことでOK?
だとしたら、理解できる。それなら三次元に流れることができたら楽だろうに。
なぜ三次元にながれずに、否定も承認もしてくれない2次元を愛するのかなぁ?三次元にはありのままを受け入れてくれる人なんていう絶望?だったらなんとなく共感できる。
http://anond.hatelabo.jp/20070613020705
の人は、最初のまとめでOKでよかったの?とりあえず、OKだったとみなします。
先日のエントリ(http://anond.hatelabo.jp/20070607100456)は最近色々と考えていたことを書いたものです。書きたかったことは、「恋愛感情を認識したことがないことに対する愚痴」や「恋愛感情とは何か」や「恋愛感情を抱けない私はおかしいのか」ではなく、「そもそも恋愛感情は存在するのか」「それは明確に友情とは異なるものか」というようなことです。多分。書いた本人もよく分っていないところがあります。
とりとめのないしかも長い文章に色々と反応をありがとうございます。見た限り、頂いた反応は「恋愛感情の定義」だったり、「エントリへの同意」あるいは「感情を認識できなかったことの原因の推測」「恋愛できなくてもいいよ、という肯定」が大体のようです。大半の人は恋愛感情は存在する、という前提での反応で、やはりそういうものなのだな、と思いました。
恋愛感情を認識できないこと、つまり少女マンガのように特定の人にドキドキすることが(実際あるのかどうかは別にして)自分に起こり得なさそうなことに関して、今のところ別に苦にはしていないです。ずっとそういうものだったので、周りと恋愛話をする時に若干他人行儀になってしまったり親身になれないことが少し不便なくらいです。深く悩んだことはありませんし、これからも悩むことはあまりないと思います。
少女漫画が好き、というのは単に、恋愛感情を抱いたことがない私でも、恋愛漫画は読めるし楽しいよ、ってことです。ただ少女漫画(というより恋愛漫画、ですね)を読む時に、私の場合完全にフィクションとして捉えています。作り話を楽しむ姿勢なわけです。大半の人がそうだと思っていたのですが、もしかしたら自分に置き換えて楽しんでいる人の方が多いのかもしれない、と今更のように思いました。
この反応(http://anond.hatelabo.jp/20070608152840)がかなり感じていたことに近くて、短い文章できっちり表現できててよいなあと思いました。私の文章は無駄に長かったようです。
結局性欲と結びつくんでしょうか。でも男性だと性欲って明確なのかもしれませんけど(よく分りませんが)、女にとって性欲って曖昧なもののような。大体恋愛感情なしでも性欲は湧くだろうし。所有欲、が恋愛感情の一因でしょうか。でも友人でも所有欲、みたいなものありますよね(一番の友達でありたい!みたいな)。
元記事の増田です。はてダすら書いたことがないのに初増田でいきなりこんなにトラバもブクマもされて、あっけにとられてます。
傍から見ると僕は叩かれたり非難されたり同情されたりしているように見えるのか。
自分ではそこまで感じていないので、面白い。この辺の感覚に対する閾値も高いのかもしれない。
suVeneもmatakimikaもよく知らないので分からない。親についてはあまり関係ないと思うのだが、言及されたので一応書いておく。
「親が教育を間違った」というのは正解かもしれないが、(親が)「子供への愛情は注いでいたんだけど、子供からの期待には応えることができなかった」という推測は間違い。
なぜなら幼年期から少年期にかけて母親から虐待一歩手前のような扱いを受けており、愛情を注がれたとはとても思えないし、親には期待なんてしていなかったから。なお反抗期は普通にあった。
そして親の問題なら、同じ家庭で育った弟たちも僕のようになるはずだが、現実は違う。やはり元来の気質・性格と外部環境の複合要因によって形成された心理メカニズムだろう。
ちなみに母親は、僕が唯一ネガティブな感情を抱いた人間。もちろん原因はその体罰というか折檻というか虐待にある。
一時期は本気で殺意まで抱いたが、僕が家を出て離れている現在ではどうでもよくなっている。だが顔は見たくないので、今後も会うつもりはない。虐待が大きな要因となって離婚した父親とはたまに会っているが。
他者への踏み込みが浅くなる、というのは同意。そして僕も友人は少ない。
松田社長の逮捕発覚から今までの狂騒を見てるとやっぱりみんな薄々感じてたんだな、ということと共にこの業界はヲタ側の幻想という名の努力で守られてきたんだなということを思わずにはおられない。
糞みたいなアニメやそれに出演するたいして可愛くもなければ演技も歌も上手くない声優のCDが売れるのは買う側が幻想を抱いているからに他ならない。
幻想というデリケートな商品を扱っているのだからキャスティングや売り込み方には業界はもっと注意を払うべきだった、と今にしてみれば思う。
黒だといわれてる声優は枕はともかくとしてもあまりおおっぴらにできないような手段で売り込みをかけられたのだろうなと業界に詳しくない僕でも思うのだから。
勇次郎が闘いに求めているものは、食事や性交と同じく「欲求の充足」なのだそうで、彼にとって闘争は一種の本能です。そして数々の戦闘から彼の好みを推測すれば、多分彼は「必死の思いで鍛え上げた人間が自分を超えようとしてくるのを、嘲るように叩き潰す『手応え』」が好きなのだと思います。彼は闘いを料理によく喩えますが、その場合《相手の強さ》はしっかりとした食感・歯ごたえのようなもの、そして《自分に向けられる敵意や戦闘意欲》はソース・味わいのようなもの、と定義できるのではないでしょうか。彼は相手が鍛えていればいる程それを蹂躙するのが楽しそうですし、相手に必死に向かってこさせるためにいやらしく煽ったりすることもしばしばです。闘いのあとに相手と友情を結んだりする刃牙の行為に「上等の料理にハチミツをぶちまけるが如き思想」だと非難したこともあります。勇次郎にとって闘争とは上等な「格闘士」を餌として食うという行為なのでしょう。『格闘グルメ』ですね。
ですからグルメ・勇次郎が「鍛えていない人間」を相手にすることは稀で、唯一に近い例外は刃牙の母:江珠が刃物を持ち出しかみつきまで敢行して必死に向かってきたときくらいではないでしょうか。これも「そこまでの執念」を上等のソースとして買ったのではないかと思われます。戦闘でボロボロになった柳龍光を容赦なく潰したときも、自分に向かってくるという彼の「意思」を一応確認していましたし。
以上を考慮した際に、勇次郎にとってオリバが「食う」相手として不適なのはひとえにオリバの性格の問題ではないかと思われます。オリバの妙にのんびりした性格は、勇次郎に「餌」という認識を抱かせないのではないでしょうか。これはオリバが「相手に勝つため」に強くなっているのではないことに起因すると思います。勇次郎にとってオリバは「格闘士」ではなく、従って全く食指が動かない、というのが理由なのではないでしょうか。ただ、もし将来的に勇次郎がオリバにとって(たとえば脱獄囚のような)仕事の"ターゲット"として現れたら、そのとき両者が対峙する可能性はゼロではないと思います。オリバがそれを望むかどうかは、まあ微妙ではありますが。
ゲームでは「あの子を落とす条件」等があらかじめ決められているが
リアルではそういう訳ではない。何か特定の事をすれば彼女の気持ちがガラリと変わって「好きよ」となるわけではない
彼女自身もいつ好きになったかすら分からない、恋愛感情というのはそういうもの
あくまでも後から自分を省みた時に、「あれが原因だった……のかな?」と原因を推測することができるだけで。
そしてその答えは結局、誰にも分からない。ただ推測するのみ。
「フラグなんていうとデジタルくさいぞ」という人はきっと、その辺りがひっかかるのだろう。
リアルには「この子を落とす条件」などというはっきりしたものは存在しないのに、と。
一方「リアルにもフラグはあるよ」という人は、おそらく単なる「原因」を「リアルフラグ」と定義づけている。
だからかみ合わない。多分。
あと、「陰陽師」みたいに、宣伝わほーい!って思って
取り締ま“ら”ないというパターンもまれにあるみたい。
特にゲームとか。
ゲームってのが何を指してるのかによるけど、ビデオゲームのプレイを見せるのが目的の場合は問題ないと見なされてるかもしれない。
いわゆるスーパープレイなんかだと、見せようとしてるのは明らかに「プレイ」であって、それ自体に違法性はない可能性がある。もちろんゲームの画像、音楽なんかの著作物は含まれるけど、これはプレイを見せるために必要な引用と解釈できなくはない。たとえば絵の批評をするために絵そのものを引用したり、必要ならば絵を丸ごと「批評に必要な引用」として転載することすら可能なわけだから、そこから考えればゲームの一部分を「プレイの公開に必要な引用」としてそのまま見せてしまうことが正当化できるかもしれない。
もちろん法的にどうなるかは実際に訴訟が発生した場合の裁判など法の場で決まるのでこれはただの推測に過ぎないし、そもそも法的にどうこう以前に「宣伝になるから取り締ま“ら”ないだけ」という可能性もあるけど、どれが本当の理由なんだろう。いくつかの理由が混ざってる可能性もあるけど。
うん、だから俺はそれを言ったよね。ガスト以上にいい肉を食べてもいないのに、毎日牛丼レベルの味覚で「ガスト程度で十分よ」なんて言い切ってしまうって事だって。それと「金云々」は違うんじゃないの?って意味で言ったんだけど。
「ガストのステーキを食ったことないのに旨いと言ってる話」なんて俺全く言って無いし、今なんでそんなよくわからない話が出てきたのか分からん。誰かと勘違いしてるのかな?
で、今そこに書かれてるものから整理すると君は
「金なんてせいぜいガストのステーキレベルなんだよ」と思っている
↓
金は大切なんていう奴は、そこを分かっていない。なぜ分かっていないかというと、「金以上の素晴らしいものを知らない」か「金以上に素晴らしいものを理解する能力が無い」から。その二つが無い理由は、たいていの場合、「金を十分に持っていない」から。
↓
金を十分に持っていない奴が、金は大切だというのは、金を持っていないから「そんなに大切じゃない」という事が分からないのだ、だから持っていない時にそんな事言うのは滑稽だ
肉の例えは
毎日牛丼レベルのお粗末な味覚の持ち主が、素晴らしく高級で美味しいステーキを食べた事も無いのに、「ステーキはガストで十分」と言い切ってしまう滑稽さ
『どちらも経験した事が無いのに、その価値について語るのが滑稽だ』、その点で同じだといいたいんだろうけど
肉の場合は「現状より上級の体験をしてもいないのにマイナスに価値判断をしている」のに対し金の場合は「現状より上級の体験をしていないのにプラスに価値判断をしている」という部分が違っている。前者の場合は所謂負け惜しみに近いものがあるし、「おいおい、食べてもいないのに語るなよ」と言われても仕方ないが、後者の場合は寧ろ自然だろう。自分の現状より上級(らしい)体験で、実際にその人はその金がないが為に苦労をしている現状があってこそ「金があればほとんどの事は解決するのに」→「金は大切だ」とその人なりの結論を導き出しているのであって、「食べた事もないのに負け惜しみチックに物事を語る」とは違うんじゃないの?と、それを俺は言ったわけよ。だからその例えで言うなら、『普段吉野家の牛丼しか食べない奴が、「シャトーブリアンの肉は旨いんだろうな」と言う』といったようなたとえの方が的確ではないか?こちらも「食べてないのに分からないよ」と言えることは言えるけど、滑稽度が全然違う。個人的に言うなら、それは滑稽とは感じない。自然な考えだろうと思う。こちらも、「普段食べてる肉あんまり美味しくない、という現状から、もっと上級で高い肉はより旨いんだろうな(<ここもこういう例えの方が的確。吉野家で満足してる人が語る、のでは、「金に満足してる人が言う」という事になってしまう)」と推測するのはそんなに滑稽か?という話。
で、そもそも君の中での前提である「金はガストのステーキ程度」がまず、君の批判対象の人間とは違うわけで。前提が違うんだから、そりゃ出てくる結論も違うのは当たり前。つまり「金を十分に持ってないのに金は何より大切だって言う奴」を批判したいのなら、その例え(そもそも例えが上で言ったようにちょっと的外れてる)を持ち出し「経験したことないのに語るのが滑稽」という論点ではなく、そもそもその前提の「金はそんなに価値はないんだ。ガストのステーキ程度なんだ」から攻めるべきだろう。お互い違う前提から導き出された結論同士で戦ってたって、意味ないでしょ。その前提の違いからまず言い合わないと。
そのような事をいいたかったんだけど、説明するとこんなに長くなるから一行で書いちゃったんだよね。それだけで君が分かると思ったんだけど、どうも理解できなかったようなので長々と書いてみたよ。これなら理解できるかな?
あともし同棲していたとか、結婚するとかいう約束があった場合、下手したら婚約破棄の慰謝料請求とかされてもおかしくない事例なので気をつけて。
また、婚約は結婚の意思の有無が重要です。結納の取り交わしは有力な証拠です。また、結婚披露宴の招待状の発送、婚約指輪の交換、婚約したことを示す手紙、同棲の事実などで意思の有無があるかどうかを考えなければなりません。
婚約があること
婚約は、口約束でも有効に成立します。結納が必要なわけではありません。
ただ、婚約があったという証明するということを考えると、客観的な証拠があるほうが、証明しやすいとことがあります。
- 婚約の証拠とは?
婚約は、上記のように、当事者の口約束でも有効に成立しますが、口約束は言った言わないの水掛け論になりやすいです。よって、婚約があったことを推測させる、客観的な証拠があれば、強いです。
今更ながら、アニメ「苺ましまろ」を観ている。おもしろい(原作は未読)。
見ていて飽きないのは何だろう。テンポがいいんだろうか?
言動のほとんどがウケ狙いのところとか、
やっちゃいけないことをやっちゃうところとか。
彼女達は物語の中でこそ、刺激を与える良いアクセントになっているものの、
この世に実在するああいうタイプの人間は、空気が読めない故に、
周りの人がフォローに回るのにうんざりさせられてしまう、という事がややあると思う。
美羽も智も、容赦なくツッコんでくれる人がいてこそのキャラだし。
ああいった性格に育つ人は、家庭環境の影響が大きいのではないかと勝手に推測する。
恐らくは家で、ひとりになる時間があまりないのではないだろうか。
いつも傍に誰かいる状態で、自分自身と対話する時間が得られない。
その為、独自の考えや価値観というものがなかなか身に付かず、
己の価値を他者とのやり取りのみで確認しようとしている様に見える。
それが彼女達をウケ狙いやタブーの行動へ走らせる原因ではないだろうか?
そういう意味で彼女達の行動は、寂しがり屋の構ってちゃん的なところがあると思う。
他者に依存していると言ってもいい。
アニメ「苺ましまろ」の5話では、まだ小学生でその分依存心も強いであろう美羽が、伸恵おねえちゃんに構って貰えなかったことによって、大泣きしてしまう。
いつも笑いを取ろうとしている様なタイプの人間は、その価値を他人に委ねている為、他人に冷たくされた時に受けるショックが大きいのだ。
と言っても、もちろん伸恵は意地悪で美羽に冷たくしたのではない。
美羽はいつも明るくバカみたいな事を言っているし、伸恵はいつもそれを冷たくあしらっているのだ。
伸恵にとってはいつもと同じノリで接しているつもりだったのだろう。
(まぁひとりだけお菓子を買ってあげないってのはちょっと…、4話の恨みか?)
しかし美羽は違った。アナばかり可愛がる伸恵を見て、本気で彼女に「私を見て!」と叫んでいたのだ。
ああ切ない…。
まぁ狼少年みたいなもんで、自業自得っちゃあ自業自得なんだけど、
子供の性格なんて自分でどうにかしようと思って出来るものでも無いし、美羽に責任はない。
美羽には自分のコントロールの利かないところで動いてしまうところがあって、その為に傷ついてしまう。
要するに不器用なのだ。
何故こんなに熱く語ってしまったのかというと、かく言う自分にも彼女達と似ている面があったからだ。
というか、まるで過去の自分を見ている様だ。いつも他人に興味を持って貰いたがっていた。
年齢を重ねるに連れてかなりマシになってきてはいるが、
未だに耐えることができないのが、「集団の中の孤独」を感じてしまう時だ。
あとで思い返すとほんとに憂鬱になるが、まんま美羽とか智の様な、過度に社交的(=他人にとっては鬱陶しい)なキャラがムクムクと出てきてしまう。
ギリギリまで押し殺すのだけど、理性では全然抑えきれないのだ。
相手の白い目を感じていながらも、止める事が出来ない。
自己があれば、集団の中の孤独を感じる事もないのだろうか?
確固たる己が欲しい。
私は私、っていう感じの千佳みたいになりたい。
ちなみに、私には中学三年まで部屋がなかった。
家にいるときは、母がテレビを見ている居間で過ごすしかなかった。
姉が二人いる騒がしい家で息苦しさを感じて育った。
上の方の美羽と智の性格に関する推測は、そういう環境で育った私の自己分析が元になっている。
もう二十歳を越えている身だし、今の性格まで誰かの責任にする気はないけれど、
小さい頃に自分だけの居場所がなかったということは、私の人格形成に大きく関与していると思う。
※編集する方法がわかったので多少弄りました。
ただ、個人が特定されないようなあいまいな内容で数行。
読みたいとおもうようなブログではないよね。
極秘な情報をもってたりするから、うっかり踏み込んで書けない。
ハンドルネームでの活動から得られるような利益よりリアルで活動の支障になる可能性の方が高い。
だからつまらないブログになる。
これは仕方がないこと。
http://anond.hatelabo.jp/20070509112614
その話を聞いて面白いなあと思ったのは、おそらくテキストサイトがBlogに相対化されちゃった真因は、
テキストサイトとBlogのシステム要素(URIやTB、コメントみたいなシステム)があるんじゃないかってことだな。
中くらいの普通に面白い人々がどっとなだれ込むことになった理由のひとつがそこにあるわけだし。
だとすると、まあその推測の通りだとして、Blogというシステムが進化する、あるいはBlogを従来のテキストサイトがごとく
駆逐するあたらしいシステムが出てくれば、そこにはBlog登場時に見られたのとは違うモチベーションで
中くらい以上の人が入ってくる可能性があるわけだな。
まあ、実は既に一度起こってると思うんだよね。その「一瞬で脇に追いやられる」って奴。
それまで「それなりに(先鋭的に)ネットに興味があり、そしてそこそこ文章力のあった人たち」がテキストサイトを形成していたところに、先に日記システム、後にブログツールが登場して「何か書けるフィールドを持っている普通の人たち」がどかっと参入してきて、前者をほぼ駆逐してしまった。
それは母数が増えたことで「文章力のある人たち」が珍しくなくなってしまったこと、そして例えそのフィールドでは中程度のレベルでも、余所の人には書けないモノを持ってる人たちが書く物は十分に面白かったということ。いや前者の書き物に較べて面白かったわけではないけど、面白い物自体の総数が増えれば相対的に地位は低下する。
かくして、俺たちは「自分には書けないフィールド」のブログを楽しんで読めるようになった。かつてのテキストサイトのような「文章力依存」のブログもないわけじゃないけど、数は少ないし、その少ない彼らにしたって何らかの特化性を持たざるを得なくなっている(経済系、政治系、CSS界隈系、秋葉系等々)。
さて。今ウケているブロガー層は「別にそのフィールドでトップクラスではない/なくても十分な人々」という話から、次に本題のリアルスゴイ人──そのフィールドで中位層より上の人々が書き出すかという話だが。上の話は「一般人の余暇(=ブロギング)が十分読み物になった」結果であり、ブログの有用性、特に著者自身に返る有用性を意識しての物でないことは何となく同意が得られると思う。
この先は推測に推測を重ねてるのだが。有用性の元になるブログでのアクションとは、主に「知の共有」「視点の発見」「議論」の3パターンぐらいがあると思うけど、メリットを享受できてるのは「知の共有」が現実の自分に返る重要性を持つ技術系コミュニティぐらいじゃないかと思うんだ。その他のコミュニティ/フィールドでは「ブログのフローとストック性」に表される「知の共有」がそれほどメリットにならず、主な内容となる「視点の発見」と「議論」は「読者層の見識を高める」役には立っても、自身の現実世界での評価に返るほどなメリットを持っていないわけだ。
これは、それらのフィールドでは「知の発明・共有」より、圧倒的に「業績」がモノを言う世界であり、それらの世界ではブログで表されるような「履歴書」には大きな価値を見出せないのではないか、というのが俺の推測だ。……ええと、話が長くなったがオチは「やっぱりブログはそこそこレベルの人たちによる余暇・当人のニッチから捻り出される言葉の娯楽」の域をしばらく出ないのではないのかと。