はてなキーワード: 偽善とは
一緒に来てくれた人に「偽善」って言われた
私は生活基盤を他国に置いてる一時帰国者で、親族を看取って些事を片付けたら日本に帰国してまた戻る予定
その上で健康保険とかスマホとか子供の幼稚園とか色々必要になるから住所を実家のあるところに入れた
役所の窓口の手続きで「子ども手当なんですが〜」って言われたから「あ、いいです」って答えた
別に職員さんも変な顔ひとつせず「そうですか、じゃ後はこれとこれと〜」って感じだったのに
車乗せてきてくれた母の同僚に帰り道「なんでもらわへんかったんやアホちゃう!?」って詰められた
「もろといたらええやん!○万やで!」「偽善やね」「ええこちゃ〜ん」とも言われた
慣れないキツい関西弁と我が子の前で叱責される居心地の悪さで最悪だった
ガソリン代として封筒に入れた3000円を家の前で渡したらその場で中身開けて
「はっ!金ばっかあってもアホじゃしゃーないで」って言って帰って行った
極論だけど、これは認めるべきと思う。
死にたくなったがために通り魔などの犯罪を犯すことも防止できるし、自殺の後始末もかなり楽になる。本人も準備して綺麗に逝ける。検体もセットにすれば医療面でも役に立つ。
確かに今一般的な常識とされるものや道徳とされるものには反するが、闇雲に生きろと辛さを否定するよりよほど人道的に思う。
正直私も、正社員だろうと会社の状況が悪い&転職活動もうまく行ってないからお先真っ暗。
職歴があっても内容が評価に値するかなどの、立場が違えばその立場なりの辛いことはある。
そして、そうやって生きてて得られるものが辛さに対して少なければ、我慢して生きる意味なんか何もない。と思うことは否定できない。
生きてるだけで素晴らしい?
そんな腐った御託は要らない。
そんなこと言う奴が何を保証してくれるってんだ。
私が過去に本気で自殺を考えた時だって、そんなこと言う奴が何か私が嫌だったことを改善してくれたか?
何一つしてくれなかったよ。
生きるのが辛い人を無理やり生かしておくというのも、それは人格を否定してるので良くないと思う。
だからこそ、この方の主張は認めるべきだと思う。
2020年の目標として優しい人になろうと思ったのだが、問題は人に優しくしたとき相手に対して「どうだ優しくしてやっただろう」と心の中で感じてしまうことだ。これまでの人生自分の損得ばかりを考えて生きてきたせいだろうか。
自分の思い描く優しい人は、人に優しくすることに対して見返りを求めず、優しくしたことでおごることもない。純粋に人に優しくすることがこんなにも難しいことだとは思わなかった。まだまだ人に優しくする初心者なので、優しい人になる手段としての『優しくしてあげること』に意識が行きすぎているだけなのだろうか。今のまま続けていつのまにか心の中の優しくしてあげたというドヤ感が表情や態度に出るようになってしまうのではと考えると恐ろしい。毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛いと思っていたが、どうやら自分にはその素養があるようだ。それとも『毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛い』という感性が自体がおかしいのだろうか。
書いていて思ったが、人に優しくしてやったと思ってることが表出するのが恐ろしいというのは、つまるところ自分のために人に優しくしてあげたいということなのかもしれない。優しい人であることに優越感を感じようとしている。相手に見返りを求めない分、心の中でこうした報酬を用意しているらしい。それでいて自分のために人に優しくするやつは痛いと思っている。やらない偽善よりやる偽善とは聞いたことがあるが、やる偽善よりもやる善が良いに決まっている。
この問題を解決するにはどうしたらいいのか。人に優しくするのが当然の家庭環境に育った人はこんなことを思わないのだろう。この心の中のドヤ感を抱えながら人に優しくすることを続けてよいのだろうか。しかし、優しくすることを当然と思うようになるよりも、優しくすることによるドヤ感、優越感の方を当然と感じてしまう人間になってしまう予感がする。
2020年の目標として優しい人になろうと思った。まだ10日目なので何とか表面的には取り繕えているように思える。問題は人に優しくしたとき、相手に対してどうだ優しくしてやっただろうと心の中で感じてしまうことだ。これまでの人生自分の損得ばかりを考えて生きてきたせいだろうか。
自分の思い描く優しい人は、人に優しくすることに対して見返りを求めず、優しくしたことでおごることもない。純粋に人に優しくすることがこんなにも難しいことだとは思わなかった。まだまだ人に優しくする初心者なので、優しい人になる手段としての『優しくしてあげること』に意識が行きすぎているだけなのだろうか。今のまま続けていつのまにか心の中の優しくしてあげたというドヤ感が表情や態度に出るようになってしまうのではと考えると恐ろしい。毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛いと思っていたが、どうやら自分にはその素養があるようだ。それとも『毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛い』という感性が自体がおかしいのだろうか。
書いていて思ったが、人に優しくしてやったと思ってることが表出するのが恐ろしいというのは、つまるところ自分のために人に優しくしてあげたいということなのかもしれない。優しい人であることに優越感を感じようとしている。相手に見返りを求めない分、心の中でこうした報酬を用意しているらしい。それでいて自分のために人に優しくするやつは痛いと思っている。やらない偽善よりやる偽善とは聞いたことがあるが、やる偽善よりもやる善が良いに決まっている。
この問題を解決するにはどうしたらいいのか。人に優しくするのが当然の家庭環境に育った人はこんなことを思わないのだろう。この心の中のドヤ感を抱えながら人に優しくすることを続けてよいのだろうか。しかし、優しくすることを当然と思うようになるよりも、優しくすることによるドヤ感、優越感の方を当然と感じてしまう人間になってしまう予感がする。
売春や水商売を悪い事だと説明する為に、色んな説明がなされてきた訳だけど
全部しっくり来ないんだよ。性病になるとか、利用されてるだけとか、本人のプライドを売っていて心が荒むだとか、若い時だけしか役に立たないだとか。
普通の労働でも、鬱になるし、病気になるし、言ってしまえば労働力として利用されてるだけ。
プライドも尊厳も売りまくりで、心も荒むし、上手くやりくりしなきゃ歳とったら稼げない。
本質的にはどちらも変わらない訳だよ。
今までの批判は「本人が損をするから」って切り口で叩いてきたわけだよな。円光もそう。でもそれには無理がある。
仕事は契約だ。契約と言うものは本来は両者が損をしなきゃ成立しない。損をするのは当たり前なのだ。
本人の損得に善悪を求めても意味が無い。しかし良くある批判の中でも、理解できるものがある。
「楽に稼げる」これに尽きる。
こう言うと、「お水や売春は辛い」と言う人が居るが、それなら普通に働いて稼げばいい。明らかにそこには優位性が存在する。
結局「社会の考える善悪」と言うものはその名の通り「社会が考える」のだ。
売春やお水がダメなのは、単純にセコくて、そして好きでもない大多数の男にベタベタしていて気持ち悪いから。
売春やお水、例えばJKの円光を咎めたいなら、「自分を傷付けるから」なんて言っても意味が無いし、偽善だ。