「愛の神って割に神様人殺しまくってね?」と「処女受胎とか無理じゃね?」については、
30%程度の人が経験していることだと思われる
無知である自覚がある人間は、自覚のない人間より良識があるという前提にたっている。
すると「無知の知」を掲げる者もまた、
最近いろいろあってキリスト教でも勉強してみようかと思っていろいろ読んでるんだけど、越えないといけないハードルがめちゃくちゃ高い。
というのも、教えの全体像が『聖書』っていう誰でも理解できる一冊に示されてしまっているからだ。これを読んでいると素人でも、「愛の神って割に神様人殺しまくってね?」とか「処女受胎とか無理じゃね?」などなどの疑問が噴出する。
んでこの辺を納得しないととてもじゃないが信仰なんてできないわけだが、この納得のいく説明を得ようとすると、神学に関する本(A.E.マクグラスをはじめとする)を色々読み込まないといけなくなる。そして神学の本ってのは売れないもんだからえてして高額になりがちである。1冊5千円なんてザラ。絶版本になると1万円を越えることもしばしば。俺のように田舎で生活していると、図書館や大学図書館にも頼れない。
んであれもこれもと買って読んでいったら、結局初期投資は10万円を超えてしまった。今では立派なキリスト教信者だが、かかった金と時間を考えると、そうそう人が真似できるものとは思えない。
この点、仏教や神道ってのは良くできている。まず仏教については、経典が大量にあって、その1つ1つがめちゃくちゃ難解、どの経典を正当とするかどうかについて各宗派で議論がある(キリスト教でもあるけど仏教の比ではない)。そうなると、素人が読んですぐ議論ができないし、逃げ道もいっぱいあるもんだから、聖書について抱く上記のような疑問が湧き出てこないのだ。
次に神道については、教えっていうものがあるのかどうかすらよく分からないという代物だ。
このことをもって、「だから日本人にはキリスト教は普及しないのだ」とか言うつもりはない。けど普及を阻害する一要因になってるんではないかな?とは思う。
敵に本拠地を囲まれた増田家(九)当主は三人の息子たちを前に起死回生の秘策を語らんと欲した。
彼は包囲軍から滷獲した戦闘用に調教された熊(武熊)を三頭、庭に準備させた。
「次男よ、お前なら武熊相手でも勝てるかね?」
「お任せください、父上!」
豪腕の次男はつぶらな瞳の武熊を捻りあげた。
「二頭ならどうじゃ?」
「余裕ですぞ」
「だが、三頭なら勝てんじゃろう!」
「「「マオォオオオオオッ!!」」」
三頭揃った武熊は、輪郭が濃くなったように存在感が増し、周囲の耳目を大いに集めた。
すると、さらに武熊が武熊を呼び、雪だるま式に武熊が増えていく。
こうして増田家(九)は滅びた。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160612122719
次回
話を聞くべき人(重要な情報を持っていない人)が、「話を聞いてくれ、話を聞いてくれ」と人を批判して、
話すべき人(重要な情報を持っている人)が、「聞く側」に回っている状況だと、場は、壊れていく。
。
1話につき必ず二人減るっていうのも、ゲームデザインとしてうまい
今のところ1話はそれなりだったけど、2話がなあ・・・
あいつが○○○だったのは最初に登場したときからわかってたし(そういうのに免疫ないふつーのプレイヤーにとってはすごく驚きで面白く感じるポイントだったんだろうけど
昔のエロゲーよろしく、キャラがいる場所がmapでわかるけど、その場所にピンポイントでワープ移動できない
あくまでも近くのワープ移動可能場所にワープしてから自分で移動しないといけない
ワープ移動いれるんなら、好きな所どこでもワープさせてほしかったわ
あとキャラがいる場所がmapに表示されてるけど、その場所ピンポイントにはそのキャラいないのも最初意味わかんなかった
そのエリアのどっかにそのキャラがいるってことだってわかって、なんだこのわかりにくさってなった
アナログパッドでカーソル動かしてターゲッティングしてボタンオスってのが、めちゃくちゃやりづらい
動きを遅くする仕組みもあるけど、なんかいろいろストレスたまる
わかってるのにできないから、そのためにもっかいまったく同じ小芝居みないといけなくて、すごく時間の無駄
iphoneアプリなら直接Touchできてたんだろうなあと思うと、アプリ版を買うだけ買ってプレイしてなかった自分が恨めしい
漫画のコマをそのままあてはめるならわかるけど、コインサイズに何の説明もなくわかりにくい絵がのってるだけのものをあてはめるって、ストレスにしかなんない
ひと目でわかるようなデザインになってたらいいのに、筋がわかってるのに絵がわかりづらいから正解できないっていう、ユーザの責ってよりかは開発者側の責にストレスの原因があるつくりになってる
同人誌を書いて売っている。
1度に刷る冊数は1000冊くらい、ツイッターのフォロワーは1万人超。
コスプレイヤーがどうも苦手で好きになれない。
同性だからか、それともナメられているのか分からないが、全体的に態度が馴れ馴れしく上から目線が多い。
イベントで会って、そのあと数回リプライしただけでこちらにガンガン空リプを送り、
とにかくノリが馴れ馴れしい。
数回目のリプライでタメ口は当たり前で、友達なのか?というくらい延々と話しかけてくる。
そんなことをしてくるのはコスプレイヤーだけだ。
コスプレイヤーはノリが独特で、ツイート数や空リプが異常に多く、
そしていつもなにかしらモメて学級会を開いている。
私は人との交流が苦手で、ひとりで黙々とアニメを見てゲームをして漫画を書いているのが
好きなのでそういうノリは苦痛だ。
仮にも相手が美人のコスプレイヤーであればまだ納得できる部分もあるが、
自分よりも顔もスタイルも劣るアンパンのようなコスプレイヤーに「今回の本も結構よかったーwww」と
親しくもないのに言われると、なんだろう…となる。
最近ではツイッターを絶対にフォローし返さないようにしている。
ひとりで暗く漫画を書いている私では気の合うはずもない。
毎回売り子の申し出を断るのがめんどうでうんざりしている。
インターバルのとき、互いに「アルフォンス」と「ラスカル」とか、
名前を付けたり引っ張ったり観察したり、マジックで目を描いて、
そんなのは1回くらいでフェラも自分から舐めたい!ことはなく、
全身を気持ちよくして欲しくて、おちんちんはそのうちのひとつ、
とゆう考えなのではないか、
よく片手が空いてると「胸触って」とか「頭抱えて」とか
今まで、自分の性根は真にクズであり、どうせ叶いはしないのだろうが、1つの理想として他人に寄生して生きていきたいのだと考えていた。
しかし、最近ほとんどの人間にとってめったに経験しないであろう出来事によってそれは否定された。
おそらくは、自分は完璧にはクズでないということが分かったというのは、喜ぶべきことであるように思うのだが、実際に起こってみると、そうではなかった。
なんだか自分のアイデンティティが否定されたような、夢が打ち砕かれたような気がした。
それだけではない、あの申し出を喜べなかったということだけが今までの自分を否定しているのではない。
あの申し出を事実上断ったということは、自分で、自分の認識している性愛の対象すら否定したということではないのか。
自分は同性愛者なのだろうか無性愛者なのだろうかと思案してみたが、少なくとも性欲があることは確かであって、本当に、何が起こったのか何をしたのか自分の行動が何を意味しているのかが理解できなかった。
いつも理性的に、少なくとも後付けであっても行動の理由を探すようにしているのであるが、今回に限っては、自分にも、"なんとなく帰り道を変えて散歩してみる"のと同じような、その程度の行動にしか見えなかった。
しかしおそらく帰り道を変えて散歩してみたくなるのにも、何かその日の日中にあった出来事によって気持ちに自分でも気づかない程度の微小な変化が起きているとか、あるいはテレビで散歩は健康に良いというのを見て決して影響されやすいわけではないがたまにはいいかと思ったとか、そういう何かしらの背景があるのであって、もっと言えば、あの申し出は別に、10秒以内にハンドルを切るか決断しなければ1人か5人が死んでしまう、といった合理的な選択が不可能になるような要因はなかったと思うのだ。
だから、自分がなんとなく嫌な気持ちになっていると感じたというだけで突発的に拒絶してしまったことは、自分というモノを自分からいきなり、完全に、遠ざけた。
何をしても楽しくないという気持ちが以前よりも高まったし、生きている価値はあるのかという所にまで至っている。
持論としてそのような思案には何の意味もなくて愚かだと今でも思っているのに、愚かであることをやめられない。
自分は、今までずっと、社会貢献や人類の利益のためになどという大きな大義のようなものによって生かされていると感じたことはないし、それは面接で答えるべき暗記単語であって、実際には、周りの人間への愛情のために生きていて、孤独であれば死んでもよいと考えていた。
しかし、それも間違っているというか、まあこのような信条に間違いもクソもないと思うのだが、もはや、それを信条として生きていけなくなった。
自分からの愛情すら分からなくなってしまったのに、自分への愛情など推し量られるものではないし、自分から自分への愛情など尚更である。
死ぬことへの不安と生きることへの不安が釣り合っているように感じる。
時が解決してくれ、天秤が、左へ傾くことを祈る。