はてなキーワード: 陸上競技とは
言わないようにしてたけど、オリンピックがないと消えるごときの競技の大会開く方が不要不急なのでは?
本当に人気があるなら野球やサッカーみたいなプロリーグが世界中にあるでしょ
【東京五輪】中止なら「いくつかの競技消える」世界陸連・コー会長が警鐘
こういう機会がなかったらそこまで陸上競技を悪く言うようなこともしないんだけど…野球や各種エンタメよりも優先されるほど陸上競技を集まって開くだけのことが経済効果あるのか?とは割と真面目に思ってる。
敗退行為ってことだよね。もちろんそれは萎えるよね、あるとしたら
でもそれ、この元増田でいう話とは別だし、野球やサッカーのようなチーム対チームのゲームでもそうだし、陸上競技のような個人種目でもありえる話では?意図的に敗退行為をするということでしょ、要は
今回の主題は多対多のチーム競技ではないけどチームとしての戦いを試みる競技ってある?っていう質問だと思ったからモータースポーツはそうだよと答えたよ。だからあなたが言ってる事は結構ズレてると思う
ちなみに、モータースポーツというかF1はあなたのいうようなスパイ行為が過去に行われた歴史があるよ。データの持ち出しとかその類のね
トランスジェンダー女性のトイレ使用問題や、同じくトランス女性の陸上競技の参加問題などを見ていて思った事を書きたい。
基本的にリベラルは、昔からLGBTの問題についてはとても関心を持っていたのだと思う。
でも当時はトイレや女子競技の問題については、それほど可視化はされていなかった。
女子トイレや女子競技は、リベラルやフェミニズム、とりわけ女性たちにとっては他人事ではなく自分たちの利害に直結する問題である。
今までリベラルを名乗っていた女性たちが、自分達の利害に関わる問題だと知った瞬間に「保守化」して、トランス女性を女子トイレや女子競技から排除し始めている。
表題にも書いたが、これがあるから私はリベラルは信頼できない。
LGBTの人たちを守りたいと思うのならば、例え自分達に悪い影響が出てこようが、最後まで守り通してみろよ。
LGBTだけではなく、女性の社会進出などの他問題においてもそうではないのか。
自民・山谷の「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとか、ばかげたことはいろいろ起きている」発言に当然はてなでは「この差別者が」という趣旨のブコメが大半。
極限に鍛えた女性の体と極限に鍛えた男性の体だったら大半のスポーツで後者の方が絶対に強い。
人類最強と呼ばれた女性アスリートだって、男性アスリートと戦ったらオリンピックレベルどころか国内のそこそこレベルの選手に負ける。
競技によっては男子高校生にも負けるし、なんなら男子中学生といい勝負をする。
はてなーはキーボードをカタカタやってるだけだから自民党のおばちゃんにはそりゃ好き放題言えるだろうけど、
その競技に人生を賭けていたのにトランスジェンダー女性に大敗した女性のトップアスリートが「こんなのおかしい、あんなのただの男じゃないか、馬鹿げている、自分のこれまでの努力はなんだったんだ」と泣き喚いていたらはてなーはなんて声をかけるの?
端的に言って、2度と当時には戻りたくないと思う。
穏やかな小学校生活が終わって、中学校に上がった。中学校は周囲のいくつかの小学校から生徒が合流し、顔ぶれは半分ぐらい変わった。
新しい同級生、新しい先輩、見知らぬ古い校舎、荒れた空気で余裕のない先生。同級生はみんな、自分の居場所がリセットされて、それを確保するのに必死だったと思う。
一部の同級生が、先輩らの影響で短ランやボンタンのような制服を着て、髪の色が明るくなり、言動が激しくなった。
それに伴って、学校は腕っぷしの強さや声の大きさ、容姿の美醜、スポーツの出来不出来、笑いが取れるかどうか、を軸とした上下関係の階層構造が強まった。
勉強のできる学校、地域ではなかったから、勉強の出来不出来や知識の豊富さはそこまで階層への影響はなかった。むしろ、真面目に勉強をしていることはダサいという空気感すらあった
当時の僕は、身長は高い方だが、容姿は下、スポーツは並、笑いは全く取れない、勉強はそれなりにできるが、トータルでは平凡な男の子だった。
ただ、良好な人間関係の作り方や上下関係のやり過ごし方などの処世術に鈍く、学校に上手く馴染めないまま過ごしていた。
プライドが高かったのだと思う。
階層トップの不良グループはクラスの場を支配していたけれど、僕は、支配されたフリをして上手く立ち回るのはイヤだった。
イジられても笑いで返せず、キレ返した。物がなくなっているなどの軽いいじめに、張本人を殴ったり同じことを仕返しした。
お前、小学校の頃は休み時間に一緒にサッカーしてたよな?僕のお父さんの車で一緒に釣りに行ったよな?何でこうなっちゃったんだよ!とずっと思っていた。だからこそ、負けたくなかった、譲れなかった。
昔は仲が良かったみんなも、自分のいる階層を保つ or 上昇させるために、グループに所属して、その勢いに流され、僕や立場の弱いグループを、気まぐれに攻撃することが、中学校のなかで当たり前になった。
そして、いつも反抗的な態度の僕は、特に標的にされ、孤立した。
カバンや筆箱が無くなっていたり、お金が盗まれていたり、パンツを脱がされたり、通りがかりに殴られたり、いろいろ。当時はよくがんばって学校に行っていたなと思う。えらい。だけど今思えば、がんばり過ぎないで欲しいなと思う。
こんな感じで、安心できる場所は学校には一切なかった。毎日心も体もかなり緊張していて、ビクビクしながら過ごしていた。
その時の身体の強張りはクセになってしまい、他人がいると男子トイレの小便器でおしっこすることが出来なくなった。おしっこをしている時はイタズラされることから逃げられないから、他に人がいると落ち着かず、どんなに頭でおしっこをしようと思っても、出てこない。
学校の中でも奥の奥にある、ほとんど誰も使わないトイレに、休み時間になると駆け込んだ。たまに先に人がいると、その周りを歩いて出てくるのを待った。
年間のなかで最も大きい大会に、中体連の県大会、といったものがあった。
うちの中学校では、この県大会の大会出場のときには、様々な部活から各種陸上競技に出演するメンバーが選ばれた。
僕はどの競技の選抜からも落ちたが、大会までの練習や当日の飲用水の用意など、陸上部としてサポート役のため駆り出された。
小学校から続けてきたが、なかなか結果は出なかった。そして、陸上部ではないみんなとの競争に勝てなかった。
知らないメンバーのために、部活だからとサポートをすることは、楽しいことではなかった。大事な大会で走れない陸上部、ということが情けなくて、恥ずかしくて、自信が持てなくなった。
陸上そのものを楽しいから続けている、という内的動機も弱くなったこともあって、部活という居場所を自分から閉じてしまった。
部活を辞めてからは、授業が終わり次第すぐ帰り、毎日自宅のPCでインターネットを利用した。
Yahoo!チャットでは、立場や背景も関係ない、見知らぬ人とフラットに会話できることがとても楽しかった。私は当時南の島に住んでいたが、その島には映画館が無いと本気で思っている人がいるなど、この嫌な地元とは切り離された人と、遠く距離を超えて繋がれることにワクワクした。
オンラインゲームでは、徐々に強くなっていくキャラと、連帯感のあるギルド(所属するチーム)でゲーム内に居場所ができた。
ただ、Yahoo! チャットでは人とのごく短い付き合いしかできなかったし、親はオンラインゲームにお金をかけることは許さなかったから、オープンβテストの期間が終わったら、ゲームはそれ以上続けられなかった。
それでも、毎日急いで家に帰って、ここではないどこかに居場所を求めた。
ここまでがだいたい中学1年生。
2年生になりクラスが変わってからも、同じような軽いいじめ、イジリがある構造は変わっていなかった。そんな中、ある事をきっかけに階層に反抗する心は折れることとなった。
小学6年生の時から好きだった女の子と、同じクラスになった(初恋だったんだと思う)。
修学旅行のはずみもあって、就寝前、端っこあたりで寝そべっていた僕にも、みんなで好きな子を暴露する順番が回された。そこで、迂闊にもその子が好きであることを話してしまった。
僕は次の日の朝、ある場所に連れ出された。女子からも男子からも人気のあったイケてるグループのメンバーが、勝手にその子を呼び出していた。
事前に、僕が彼女のことを好きだということは伝えられていたようで、女の子は戸惑った、迷惑そうな顔をしていた。
そして、ちゃんと好意を伝えることもできないまま、一方的に、僕のことを好きではないことを伝えられた。
好きではないという事実以上に、あの迷惑そうな顔に、かなり心が傷ついた。あれは、階層の中で下位グループと同じ括りにされることを嫌がる拒否反応のような、そんな表情とリアクションだった。
ひどく鼓動が早くなった。気持ちが塞がってしまい、僕の修学旅行はそこで終わった。
この女の子とも、小学生のときは、同じクラスの隣の席でよくお喋りをした。いつも落ち着いていて、知性があるような雰囲気で、スピッツが好きだった。
小学6年生の遠足の時、移動までのバスでカセットテープを流すことができた。僕は遠足の前日、スピッツの「recycle」をカセットテープに録音して、当日のバスで流した。
歌うことが大好きだったし、上手だと思っていたから、その子の近くの席でこれ見よがしに、特に好きだった「渚」か「楓」を歌っていたと思う。
小学生らしく、好きだからといって何ら関係を変えるためのアクションは取らなかったが、日々その子と話ができることが嬉しかった。
中学校に上がってからは、僕は廊下などで見かける度に意識していたけれど、クラスが違うこともあり疎遠だった。
そして、2年生に上がり同じクラスになってからも、思春期特有の自意識過剰から、まともに話すことができなかった。
そしてそのまま、拒否された。
一方的に彼女に好意を伝え、呼び出した複数人の男子グループは、彼女が嫌がるそぶりを見せたとき、「うわ、かわいそ〜」と他人事のように、少し面白がっているように話していた。
個人としてどういう人だ、と言う前に、どの階層に属するかによって、こういう風に軽んじられる存在があることを強く認識したし、軽く扱われる自分自身のことも好きじゃなくなっていった。
自信をなくして、自分のことを好きじゃなくなっていくのと並行して、上の階層である不良グループに嫌がらせをされても、ヘラヘラと笑ってその場をやり過ごせるようになった。そしてもっと、自分のことが嫌になった。
体育の授業で複数人でグループを組んだ時に、兄の影響でアニメに詳しいクラスメイトがエヴァンゲリオンの話をしているのを聞いた。
ガンダムの仲間かな、というぐらいにしか知らなかったけれど、家族でゲオに来たついでに、何気なくレンタルをしてみた。
結果、見事にハマった。
戦闘シーンやメカニクスの描写などに強い興味はなかったが、同じく14歳のシンジや他のキャラの内面の描写に、自分を重ね合わせて見ていた。
中でも人類補完計画やセカンドインパクトは、思春期の想像力と合わさって、朝起きたら本当に起きているのではないかと、期待しながら眠ることもあった。
意地悪をする同級生は、個人それぞれは悪いやつでないことは知っていた。グループや階層といった構造になると、途端に他人に攻撃できることを体験的に知った。また、僕自身にも、階層の中で下のグループを軽んじてしまう意識があることを知った。
何で人間はこんな生き物何だろう、と思った。それぞれ個人としては思いやれる人も、集団となると流されてしまう仕組みが、欠陥だと思った。
他人もそうだし、自分の暗い部分も怖いから、誰かと近づくのをやめようと思った。関係を深めることをやめようと思った。だけど、誰かと認め合いたいという矛盾した気持ちがあった。
人類補完計画のように、人々の壁がなくなってひとつになったら、人間の欠陥もなくなって、みんなが幸せになれると思っていた。本当に早く来てほしかった。
でも、当たり前だが、そんなものは来ないことも分かっていた。だから何度も何度も見直して、頭の中だけでもエヴァの世界から抜け出さないようにした。
繰り返し見る中で、分からない部分も多くあった。なぜシンジは人間がひとつになる世界をやめたのか、なぜアスカは気持ち悪いと言ったのか、結局それぞれのキャラは救われていくのか?
これらのモヤモヤと、いつまでも起きない人類補完計画への期待感は、中学3年生になって受験勉強に忙しくなったのもあって、少しずつ心の片隅に追いやられていった。心に残る形は歪なままだけれど、そのままフタをした。
その後、県内では進学校だった高校に入学し、校内の暴力的な上下関係などはなくなって、落ち着いた学校生活を送れるようになった。
大学は第一志望には落ちたけれど、都内の学校に進学でき、希望していた地元からの脱出は叶った。
だけど、その都度、人間関係の構築は必要だった。苦手意識や恐れを感じて、中学生の頃のような緊張が蘇ってきて、上手くいかないことも多かった。言葉が上手く出てこない、出てきても変なことを言ってしまう、怖くて誘えない、など。
大学1年生の終わり頃に、良い友人との出会いがあった。何かと心の距離を取りたがる僕を、何度も何度も誘ってくれて、しつこく自宅に招いてくれた。そして、人に近づく怖さがだんだんと薄れていった。
また、その友人を起点に人間関係が広がっていった。みんな優しく受け入れてくれて、少しずつ人付き合いの自信がついていった。
いつまでもどこか漠然とした孤独感や居場所のない不安はあり、心のクセになっていてなかなか取れなかった。同時に、エヴァのこともよく思い出した。
それでも、その後の学生生活はこれまでにないほど充実して終えることができた。
この時に身に付けた自信から、就職先での人間関係も何とかやり過ごすことができるようになっていた。
今は、30歳になった。それなりに忙しく働いていて、家族もある。
誰かの心の痛みがよく分かる優しい人と一緒になった。
できることが増えて、自分の人生も俯瞰で見られるようになり、生活をうまくやる自信もつけている。
日常の中で中学生当時のことと、エヴァのことを思い出すことはほとんどなくなっていた。
そして、今回の新劇場が話題になっているのを見た。これで最後ということで、とても気になった。
なぜ今さら気になるのか考えてみると、過去に集団の中で屈してしまった悔しさ、自信喪失をちゃんと受け止めて解釈して、成長することができているということを、大人になった今エヴァと対峙することで、確認したかったのだと思う。
僕はとても救われた気持ちになった。
今回の物語では、シンジ、ミサトさんを始め、みんなが過去の様々な間違いや未熟さを認めながら、前を向くことができた。
第3村のトウジとヒカリ、レイの田植えなどの描写は、日常に地に足をつけて生きていることに対して、背中を押してくれたように思う。
劇中のみんなが自分なりの希望を見つけていくのと同じように、今僕自身が生きている人生に対しても「それでいいんだ」と、認めることができたように思う。
本当に良かった。ああ、これでいいんだね。
いまBS102で女子のスキージャンプのワールドカップを放送しているのでなんとなく観ている。
よく言われている事だが、K点とかバッケンレコードとか100mとか120mとか言っても、それは下り斜面上の距離であって、実際にはスキージャンプの選手は下方へ落ち続けているだけである。
ジャンプ台の踏切地点自体が緩く下を向いているし、スローで見ると選手たちは斜め下に飛び出している。陸上競技の走り幅跳びのように水平を基準に考えたら、スキージャンプの選手は1mも飛んでいない。
人は明るいこの世にオギャーと生まれてきたが、その後はただ落ちる一方である。死ぬまでの時間をいかに伸ばすか空中で必死に身体を緊張させV字開脚の姿勢を保つだけだ。テレマークは臨終のポーズ。
だから物理的に全く同じ視覚情報でも文脈によってポルノか否かは変わるんだよ。
あれはPixivに投稿されたらポルノになるかもしれないが、美術展覧会に展示されたことで少なからず批評性を帯びるだろ。
これは「作者自身がどういう意図で制作したか」とも全く独立に定義できる話。
あれを見て「オナネタ」として認識するのは、陸上競技大会に出場する薄着の女性選手を「オナネタ」扱いするのと同じ。
(まあ、あの絵はポルノというか「オナネタ」がテーマであるというのが妥当だろうから、その点は複雑だが、「ポルノをテーマとしている」ことと「ポルノである」ことは全く違う。暴力ゲームは暴力ではないし、フェイクミートは肉ではない。)
ついでに。関係ないが。
別に大絶賛するほどの作品でもないが、別に同時期の受賞作品群に対して見劣りするものでもないよ。
ああいう作品を公表したことで公然とセクハラを仕掛ける奴らは醜悪だと思うし、SNSでもセクハラ垢は凍結しろよと思うが、「彼女には自由に発表させた上で、それに伴う不利益から全力で守る」のが俺の考えるフェミニズムなので、その点でツイフェミとは相容れないね。
今後シス女性のスポーツ選手はこういう批判から逃げられない。トランス女性を女子スポーツから排除している限り。
トランス女性と競えば勝ち目の無いシス女性スポーツ選手が、トランス女性が得たはずの名誉や賞金や奨学金を得ている現状は、シス女性がトランスへの差別のおかげで利益を得ているとしか言いようがない。
今のシス女性スポーツ選手の地位はトランス差別という下駄でトランス女性を踏みつけて得ている不当な物だ。
黒人を排除した陸上大会で優勝した白人が「俺は地上最速の男!」とイキって富と名誉を得ているのと同じ構造だ。
もし、黒人が競技に参加するようになって、勝てなくなった白人が
「私は黒人に負けて入賞できなかった。そして奨学金を取れなかった。白人と黒人の生まれつきの身体能力の差はトレーニングでは埋められない。これはフェアな競争ではない」
と泣き言を漏らし、黒人を排除した白人だけの競技に戻すべきと訴えたらどうなるだろう?
こんな差別主義者の言葉に耳を傾ける人はいない……と思いたいが、アメリカの女子高生が同じ構造の主張をしているのに賛同する意見が多くて驚いた。
https://togetter.com/li/1627549
健康体のシス女性というマジョリティがトランス女性というマイノリティからチャンスを奪うなど許されるはずがないだろうに。
トランスジェンダーというシス女性と比べても社会的に不利な立場にある彼女たちが、奨学金を得て進学したり、スポーツ選手として成功したりと、逆境から這い上がるための数少ない道の一つが女子スポーツ競技だ。
貧しい家に生まれた黒人が生まれ持った身体能力を活かして陸上競技やバスケで成功し、結果として白人というマジョリティの選手が夢破れたとして、何が問題だというのか?