はてなキーワード: 部族とは
よくテレビのクイズの一般正解率とか何々を知ってる人の割合とか出るときどんなに低くても数%で0ってことがないか、あるいはこれ以下の水準の場合そもそも調査人数が多くても数百人止まりだったりするわけだが、逆に正真正銘100万人に1人知ってる人がいるかどうかみたいな知識ってなんだろうか。どういうことで調査すればそういう数値が出るのだろうか。
もちろんある人がある日履いてたパンティの色みたいな個人情報は除くとして、誰でもその気になればアクセス可能な公開情報に限るとする。
たとえばマイナーな専門書学術書で何ページの何行目に書かれていることを一字一句違わずに答えるとかだったら1000万人に1人ぐらいの正解率になるかなあ?
専門書にも載っていしそもそも日本の文字表記がまだない弩マイナー部族が独自に話してる言語について〜はその部族の言語の文法に即して何というみたいな問題出したらどうかなあ。論文にもまだまとめらてない実際にその部族に接触した人しか知り得ない言語ね
本能なんだろうな。
マンモスやサーベルタイガーと殺し合っていた頃の本能の名残なんだ。
あの頃はまだ世界中に敵がいた。
その敵は人間以外の何者かだった。
とにかく死ぬ前に一矢報いてぶっ殺すことで身内の遺伝子が残りやすくなる時代だった。
戦時下じゃなくても半グレなり山賊なりをぶっ殺すという形で部族に貢献は出来る。
じゃあ身内が敵になったらどうする?
表の社会に居るチンピラのせいで苦しんでいて、ソイツらに復讐したかったら?
ないしは街中で警官が刺されるとか。
この世界にある普遍的な価値観が悪いなら、それを生み出した老人への無差別攻撃なんかもあるんだろうね。
これは間違いなく本能だよ。
死ぬ直前まで本能に振り回されたくないから俺は死ぬ前に人を殺したりはしない。
じゃあ何をすればいいんだろうね。
いざ「◯◯ってそういうやどこに住んでるんだろ?なんか情報とか探せないかな?」って考えだしたから数日してふとわかったよ。
これ本能じゃんって。
ムカツくね。
俺本能って嫌いなんだよね。
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
ならないと思う。あれは、ニュージーランド人としての統一意識を持つための、政治的なものであるから。
あのハカって、先住民がやっていたものそのままではなくて、部族を超えてニュージーランドが最近作ったものでしょう?
古事記・日本書紀を「日本の神話」として、九州の人も東北の人も大事にしているのに近い。
九州の人や東北の人は、古事記・日本書紀成立前には別の神話があったはずで(そうじゃなきゃ、九州とか東北の人が成敗される話にはならない)、なのに古事記や日本書紀を自分のものとしているのは、政治的背景があるからに他ならない。
ハカも同じように活用されている。ニュージーランドでは学校教育の中で、先住民を尊重すべく、自国の文化として先住民の文化を学んでいるはずだ。白人が先住民の暮らしをめちゃくちゃにした多くの国で、今、そういう教育が行われている。白人も、自分の文化として、それを学ぶ。
ハカを日本の薄荷会社が「ハカ薄荷」とか言い出してハカをアレンジした踊りをCMで使ったり(無理矢理な例だな)、いきなりフランス代表もハカをやり出したりするなら、それは文化の盗用になるんじゃないのかな。
「意見を異にしたり、理解できなかったりする人々にむけてあなたが提供できる、最もおしつけがましいことはなんですか?」
「さあ。なんですか?」
「その人々を治療すること。それが最初のHワードです。health」
「医療テクノロジーはスーパーノヴァ化直前です。さて、それほどの力はなんのために使われることになるでしょう?〝健康〟の維持、あるいは創出のためです。それでは〝健康〟とはなんでしょうか?最後のウイルスや寄生虫や癌遺伝子が跡形もなく完全に根絶されてしまったとき、そのとき〝治療〟の究極目的はなんになるでしょう?わたしたちがみな《エデン主義》的な〝自然律〟に運命づけられたなんらかの役割を演じ_「本来わたしたちが生物として最適化されている状態_狩猟と採取で糧を得て、三十歳か四十歳で死ぬこと_に回帰することでしょうか?それが究極目的なのでしょうか?それとも…技術的に可能なありとあらゆる存在のモードを切りひらくこと?その場合、自分は健康と疾患の境界を定義する専門家だと主張した人が…すべてを決める事になります。」
僕が言葉を返す。「そのとおりですね、健康という言葉は欺瞞をはらみ、意味はあいまいだ_そしてつねに議論の的になる」
「それで、もうひとつのHワードはなんなんですか?大きい方は?」
「ほんとうにおわかりになりませんか?ではヒントを。論争に勝とうと思ったら、考えうる最も知的に怠惰な方法とはなんでしょう?」
「答えをいってほしいんですが。なぞなぞは苦手なので。」
「論争相手が“人間性(humanity)”を欠いている、と主張することです。」
「これは最古の意味論的な武器です。さまざまな時代の、さまざまな文化において、“非人間的(non human)”というレッテルを貼られた多くの分野や人々のことを考えてみて下さい。よその部族から来た人々。肌の色が異なる人々。奴隷。女性。精神病者。聴覚障害者。同性愛者。ユダヤ人。ボスニア人、クロアチア人、セルビア人、アルメニア人、クルド族_」
ぼくは弁護するように、「人をガス室に送りこむことと、そのいいまわしをレトリックとして使うことは、多少は違うと思いませんか?」
「もちろんです。しかし、仮にあなたがわたしを、“人間性を欠く”といって非難したとしましょう。それがじっさいに意味するところとは?いったいなにをしたら、そんなふうにいわれるのか?平然と人を殺したとき?子犬を溺死させたとき?肉を食べたから?ベートーヴェンの第五番に感動しなかったから?それとも単に、人生のあらゆる局面であなたと寸分違わぬ感情をもてない_あるいは、もとうとしない_からですか?あなたの価値観と目標のすべてを共有できないから?」
ついに維新が「第二自民党です!自民党の敵にはなりませんけど選択肢としてどうぞ!」というアピールを大っぴらにやるようになり
インターネットを見ていると、本当に左翼の団結力は右翼を叩いてるときのみに発揮される非常にもろいものだと実感させられる
支持する野党が違う場合だけでなく、支持政党が同じでも細かな政策の違いがあるとみるや親の仇のように叩き合い
二大政党制があって初めて左翼陣営の政策が実行されるようになってその中の相互批判も現実からフィードバックがあり実のあるものになるのに
今は「右翼叩きでは一致」「左翼内争いは机上の空論」という非常に不毛なものになってしまっている
これって自由経済のためにまずなるべく無前提の中央集権が必要なのと同じなんよね
中央集権が機能してない途上国は部族同士の対立を均衡させるために全経済リソースが費やされ
法的に経済の自由があるとしても実質的な自由はほとんどなくなる
だがもちろん中央集権をどっかの部族だけでやろうとすると他が全部反対するから意味がない
だからうまくいった国は「国民」とかのフィクションを新たに作って団結する必要がある
それを実際に試してみるまでは決してたどり着けない