はてなキーワード: オノヨーコとは
おれも子どもの頃ふと目にした、オノヨーコのグレープフルーツジュースっていう本(詩集?)が分からなくて、大人になったら分かるんだろうと思ったけど、最近目にしたらやっぱり分からなかったわ。
先日、youtubeで『オノ・ヨーコへの偏見を取っ払いたい』という動画を見た
オノ・ヨーコ自身の人となりや作品を紹介することで、偏見をなくし彼女自身をとらえなおそう見たいな趣旨の内容だった
その中で、ジョンレノンとの関係でひとつくらいは触れておくとするならとの前置きでオノヨーコの詩集『Grapefruit』を紹介していた
曰く、ジョンレノンのイマジンの歌詞は『Grapefruit』の影響が強いとのことだ
その話を聞いて、思い出したのが冒頭のゆらゆら帝国の『グレープフルーツちょうだい』だった
この曲は誰だかわからん「あなた」に対し、自分の身の苦しみを訴えて、「お前の大事な冷蔵庫の中身を全部食っちまうぞ」と脅すみたいな歌詞だ
そんで「グレープフルーツちょうだい」の連呼が続くみたいな構成をしている
今まで、何かよくわからんが自分の衝動や満たされない乾きみたいなことを謡ってんのかなとぼんやり思っていた
もしかして、この曲の「グレープフルーツ」ってオノヨーコの『Graperuit』のことを言っていたのだろうか
ここにはいない「あなた」=「ジョンレノン」に対し、自分のアイデアの枯渇や身の丈を訴えて、ジョンにとってのオノヨーコみたいな恋人がほしい、『Grapefruit』みたいなアイデアの元を俺にもくれよという具体的な欲求についての歌だったのだのかなとちょっと考えた
ただロック調の曲を何でもジョンレノンに絡めて考えるのも安直な気もするし、『グレープフルーツちょうだい』は今まで通りよくわからん変な歌詞の歌として楽しんだ方が吉だなとも思った
私はコーネリアスのファンである。小山田圭吾本人には特別な関心は寄せてはいないが、ライブには多分3回ぐらいは行ったかもしれない。日本人ミュージシャンとしてはかなり好きな方だと思う。いじめの件は知っていた。ロッキンオンジャパン?のインタビュー記事は家を探せばまだ何処かにあるかもしれない。クイックジャパンを含め他の記事は読んでなかったので、障碍者にもひどいことをしていたのは知らなかった。
2人組になってからのフリッパーズは「態度の悪い生意気でお洒落な悪ガキ」路線で売っており、インタビュワーを小馬鹿にして煙に巻いたり、露悪的な事を言ったり、そういう記事が元々多かった。フリッパーズが解散して、小沢健二が「オザケン」になって冷笑的な態度を引っ込めブレイクしていた時、小山田圭吾が小沢健二について「レコードラックの中身がずいぶん変わっちゃったんだなと思った」みたいなコメントをしていたのを覚えている。多分あのコーネリアスのインタビューはその頃の記事じゃないかなと思う。
ファンとしては小山田圭吾の権威主義みたいなものが深まっていくのを危ういなぁと少し思っていた。YMO近辺やオノヨーコにかわいがられるようになり、海外の有名ミュージシャンとコラボし、その後NHKにも関わり始めた影で、いじめの記事はずっとネットでくすぶり続けていた。ミュージシャンとして大物になって、だんだん表舞台に近づいて行った。今になってみると某歌舞伎役者みたいな執念を若干感じる。親を絶対に超えてやるみたいな恩讐のような拘りのような感触。成功したミュージシャンだというだけではなくて、もっと大っぴらに社会的な成功っぽい何か。
とにかく表に出れば絶対に非難されるのは目に見えていた。オリパラの仕事は受けるべきじゃなかったし、非難されるのも、辞任も当然だと思う。多分ずっと心の中で後悔していたのは嘘じゃないんだろうと思うけど、謝るきっかけも無く(謝るとしたら相手に謝るべきだし、それを世間に公表するのもなんだか変な話ではある)、いつかみんな忘れてくれるんじゃないかという期待と甘さもあったんだろう。弱い人間だと思うが、いじめなんてするやつは大体そんなもんだ。
ひとつ引っかかっていることがあるとすれば、記事を書いたインタビュワーが完全に他人事なことだ。小山田氏の謝罪文でも少し触れられているが、恐らくあのいじめの記事内容には相当フカしが入ってるんじゃないだろうか。「完全な嘘でなければ真」だと都合よく解釈して、とにかく面白おかしく針小棒大に書くのが商業メディアだ。20年以上前となれば今以上だ。(ちなみにWEBメディアは経験上完全に嘘の場合もある。)よく知らないけど、今でも日本の音楽メディアってあの雑誌界隈一強なんじゃないのかな。今インタビューで実際に語ったことと記事の内容の差異を明確にすることは、今後の仕事の事を考えると小山田氏側からは出来ないだろう。もちろんそれも保身ではある。でもメディア側ががそれを良いことにさらっと済まそうとしてるような気がして、あんまりいい感じはしない。元々あんまり好きじゃない雑誌だけど。
わざわざこんな駄文を書いたのは、いじめへの義憤にかられた人がずいぶん世の中には沢山いるんだなと思ったから。小山田氏に言いたいこと言って(家族とか周辺を叩いている人は暇なのか?)、一息ついたら、学校や会社や家庭で自分の嫌いな人、苦手な人、いじめにあってる人、いじめている人に目を向けて欲しい。その場で起こっていることに立ち上がって抗議をしろとは言わない。後で一言こっそりメールでフォローを入れるとか、全然関係ない天気の話やテレビの話振るとか、飴ちゃんあげるとか、なんでもいいから小さいアクションをして欲しい。いじめてるやつもいじめられてるやつも結局あんまり大差はない。(小山田氏も今まで他人をいじめた分と同じかそれ以上の思いを今は味わってることだろう)あとあなたが誰かの事を「使えねー奴」「空気読めない奴」「うざい奴」だと思ってるその感じ、傍から見るといじめっぽくなってることが多々ある。気を付けて欲しい。せっかくいじめが良くないという機運が世の中で高まったんだったら、少しでもいじめを減らす方に世の中変わって欲しい。そうでなければ小山田氏も救われまい。言いたいのはそれだけです。
「兵十のおっかあは、床(とこ)についていて、うなぎが食べたいといったにちがいない。それで兵十がはりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取って来てしまった。だから兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら、死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなければよかった。」
上記はごんの思考である。その辺の増田よりも知性も思いやりもある。
ごんには知性があるのだから兵十は撃ち殺すべきではなかった。
知性がある生き物を撃ち殺す日本人はやはり野蛮だ。
ところで、兵十というと思いだすのが2012年に披露された声優豊崎愛生さんの「Hey Jude」である。
冒頭の「Hey Jude」があまりに「へいじゅー」だったため、ネタにされまくった。
Google検索でも「へいじゅー」と打つとトップに豊崎愛生の動画が出てくるほどだ。
その過程で豊崎愛生さんのことを揶揄して豊崎兵十と呼ぶようになった。
もちろんGoogle検索で「豊崎兵十」と調べると豊崎愛生の動画が出てくる。
謂れなき非難を受けないように明言しておくが豊崎愛生さんは狐を撃ち殺してはいない。
「Hey Jude」自体も闇の深い曲でジョンレノンとオノヨーコが不倫関係になりジョン夫婦間の関係が最悪になってしまった結果、不安定になったジョンの子供をかわいそうに思ったポールが作ってあげた曲らしい。
最低だよ、リンゴ。
稀によくそういう女の中で付け上がった女がツイッターで自爆している。
そういう女を見て片や電子の海で思うことは、こういう女は典型外の生き方を我々にアピールする割に、実は何かの典型に陥っているな、ということだ。
誰も、欧米で旦那見つけて粋がるシリーズのなかで、元祖ともいえるオノヨーコを超えられない。
その時点で負けなんだよ。その時点で、その振る舞いをした時点で、オノヨーコにないものを示せないとダメなのだ。
バカさ加減も、実家の太さも、旦那の実力も、旦那の死に方も、サークルクラッシュの作法も、全部全部、オノヨーコの方がすごい。
オノヨーコの広い宙域を一つでも乗り越えてから、ようやくツイッターで初めの一文字を呟けるのだ。
海外生き生き女の羅刹は、オノヨーコの軛を外れてから初めて成る。
しかしオノヨーコは強力である。あんなにバカなことをバカみたいにやりおおせて、サングラスをずらしたクソババアに、あんたはなれるか?
一介の、ただ、海外で旦那を見つけて語学となんらかの健康そうな食事かヨガか何かで何かしようとしているただの女に、オノヨーコを超えられるのか?
ババアになって意味ありげに胸元を開く、ああいう超絶的な発想はその次の瞬間に陳腐化する。オノヨーコの手のひらの上で海外女は踊り続け、あの特徴的なロングヘアー中わけで、ただ、ただ……。オノヨーコへの道はただ地獄へ向かっている。ただの陳腐な典型。海外女が普通と違うことを目指した先に、じつは小野洋子が用意した陳腐の湖が広がっている。
コネ、学歴ロンダリングその他諸々の理由があるが、新聞社やテレビ局に入るには
そのステータスを得るには当然ながらそれ相応の資格を必要とする。
その中で勝ち上がってきた人達は皆何がしかの縁繋がりで入社出来た事に感謝する。
しかしながら、そこから焙り出されたいわゆる負け組の新卒はどうにかして滑り止めの会社に入社する。
そんな中起こった労働問題や社会問題に対して、新聞社やテレビ局は何を考えたか上の人間には譲歩をし、
総理大臣経験者などを見ても下の大学出身者は皆無であるし、殆ど全ての人が家族に名士とか大地主、貴族、政治家が存在する所を見ると
敷かれたレールをただ歩んできただけなのだ。
なので、弱者たる労働者階級の人に比べてメンタルがとても弱く、下の人間を社会を混乱させるゴミ程度にしか見ていない。
さて、人生の勝ち組は新聞社やテレビ局に勤めており、負け組ないし弱者はそこでは非正規社員である。
この差で更に格差社会の強者となっている差別構造が形成され、遂には弱者いじめが激化するのは自然の流れであろう。
先日開かれた遠隔操作ウイルスの裁判に立った片山祐輔被告は、そうした社会の構造から生まれた被害者なのである。
彼のように明らかに弱者であるものを何の証拠もないのにメディアなどでは連日彼を犯人扱いして報道を過熱させているのである。
一方、チノパンこと千野志摩が犯した不倫の末に自動車運転過失致死、人によっては殺人罪とみなされる事件では、証拠があるにもかかわらず大手メディアは相次いで口をつぐみ、
また特定秘密保護法に反対としながらも他方でこういった権力を持つ人間への批判は鳴りを潜める事態となっている。
すなわちメディアというものは、弱者を切り捨てに強者を守る事を第一としている、ということである。
これは、前述の人生の勝ち組であるメディア人達が揃って強者であることからも伺えるのである。
新聞社やテレビ局に入った人間は正社員であればすべからくすべての人間が人生の勝ち組であるが、そうした人間が今度は人生の負け組を叩く始末となっている構造である。
メディアは弱者を救済せよと口では煽るものの、今回の遠隔操作事件やチノパンの事件、またオノヨーコや安倍昭恵夫人も知り、海外メディアが報道しているのに日本ではその存在自体を抹消されてしまった吉松育美ストーカー事件でも分かるようにメディアというものは長い物に巻かれる、都合の悪い事は「報道しない自由」による報道しない、非常に偏った思想信条を持ったジャーナリスト集団なのである。
弱者救済が見せかけであることは、新聞社およびテレビ局社員の条件を見ても明らかなのである。
いじめがなくならないのはこうしたいじめっ子が社会構造のトップに立っているためである。