はてなキーワード: アンパンとは
日々のニュースやまとめサイト、それを拡散するSNSなどで「特にその話題と自分は関係ないけど何やら問題になっている相手をぶっ叩く」行為をとりあえずネット私刑と呼ぶとして「さて、これはなんで起きるのだろうな?」と思った
(自分が納得するためのまとめなのでクソ長い上に特に他人と議論する気はない)
まず第一に日本でのインターネットは匿名社会が基本であるということ
そして第二に匿名という前提に基づいて自分の安全が比較的確保されているということ
更に第三として野次馬根性って厄介だよねって話も影響しているのは間違いない
間違いないのでここではこの三点についてはとりあえず無視する
よく見られる光景が犯罪だの、犯罪ではないが倫理的にどうだのという話への反応だろうか
その他にも無知や浅慮というケースでもネット私刑は発生していると思う
もちろん個人の意見として「俺はこう思う」というのを否定するわけではない
そうではなくてやたら攻撃的な人とか居るじゃない
例えば不倫とかで「そういうのは良くないよな」って書くか「何してんだこのクズ」とダイレクトに届けるかの違い(リプライみたいな方法だったりとかで)
袖擦り合う程度の縁もない誰かが、名無しの権兵衛のまま、渦中の相手に唾を吐きかけたり殴りつけたりするという行いに「それお前の方がよっぽど危ないんじゃねぇの?」と思うのだ
そりゃ渦中の相手はきっと悪いのだ
犯罪なら当然アウトだし、一般的な話において倫理的にアウトならそりゃきっと悪なのだ
だがそれに対して私刑を行う権利を果たして有しているのかと言うと多くのケースでそれは無いはずだ
それでも何故かネット私刑は行われ続けてるわけで不思議だよね?と
要するにこういったことが行われる裏にある心理とは一体?みたいな話を考えたのである
(ここまで前置き)
まず「悪である相手を殴りつけるのは正しくないのか?悪いのか?正義ではないのか?」という部分について考える
現実に置き換えてみて「不倫したやつを第三者がいきなり殴りつけたり罵倒したらどうなるんだ?」と
法律には明るくないが恐らくこのケースは第三者が怒られる側になるだろう
不倫が殺人のケースでも同様のはずだ、おそらく、きっと、メイビー
もちろんネットと現実はイコールではないのだがモラルや法の観点から言えば恐らくきっとメイビー、アウトなのだろう
じゃあ「なぜアウトなことをネットではするのだ?」と次の疑問にシフトする
一般的に法治国家に生きる一般市民が「アウト」を踏み越えるにはなにか理由が必要だろう
(今回のケースでは静かにすべき場所で騒ぐとかゴミのポイ捨てみたいな直接的に誰かを傷付けないものは無視する)
でも実際のところは初っ端に無視すると前置いた三点の影響で軽々しく踏み越えていけるよねって
だから正直なとこインターネッツ老人会の皆さまがよく聞いたであろう「ネットの向こうには人がいるんだぞ。ネチケットを守らにゃならん」という意識が既に三途の川を渡ったのではないかとも思った
けれどそれだけじゃないと思うのだ
なにせそれだけだったら人類みな攻撃的なアグレッシヴ戦闘狂になってしまう
では発想の起点の立場を変えて「なぜ悪である相手を殴りつけてはならないのか?」と逆に疑問を呈する立場になってみよう
これはなんでだろうな?とか言いながら長文を書いてる私でも実はすぐに分かった(個人の意見として)
悪いやつはアンパンチしていいと、助さん格さんやっておしまいなさいと、そう社会が教えてきてくれたからだ
もちろんテレビのせいにしたいわけではなく「悪は罰されるもの」というのが社会として正しいと信じてきたからである
かつての私はこの理論で悪を殴りつけていた
例えば(当事者には届かないけど)ニュースの犯罪に、例えば掲示板のやり取りにと
本来、罰する権利など持たない私が正しいからという理由で罰したつもりになっていたのである
「相手が悪」であり「自分が間違っていない」限り「自分は正しい」のだから「正しい自分の行いは正義」であるという思い込み
「自分の主張に間違いはない」という認識が「自分の行いに間違いはない」という誤認をさせているのではないか?と
自分は正しいからこそ大義があるのだと勘違いした結果、自らの行いにセルフ免罪符を発行してしまうのだ
何しろ「正義という大義をもって悪をくじくのは気持ちがいい」のだ
相手をねじ伏せる、マウントという行為のもつ優越感に加えて、正義の行いというオマケまでついてくるのだからそりゃたまらねぇわと
きっと人によって色々と違う考えや答えがあるのだろうが、少なくとも私はこれを一つの答えとして納得した
この答えに冒頭に無視するとした三点があわさって最強に見えるのがネット私刑なのだろう、と
テドリ=ニヒャクマンは時折自分が何のために生きているのか分からなくなる。
自分が今やっている仕事にそれだけの価値があるとは思えないし、今までの自分の生き方がその程度だった自覚はあるからだ。
悩ましいのは、将来性のなさである。
もう5年も働いて昇格でもすれば年収が250万程度にはなるかも知れない。
そこからまた10年ほど働いて昇格できれば年収350万ぐらいにはなるやも知れない。
順調に年収が伸びるのはそこまでであろう。
上司や先輩が時折ボヤく数字を頭の中で差し引きするとそういう結論になる。
これで毎晩家に帰ってテレビを見てからグッスリと眠れるのならいいが、実際はテレビを見ていてはグッスリ眠れるほどの時間などないし、会社でアンパンを食べて夕飯を済まして家に帰ったらすぐシャワーを浴びて寝ようとしても、その日の仕事の失敗がチラついて上手く寝付けない。
今やっている仕事には不可解な所が多すぎる。
なぜ、こんなやり方をしているのか不思議で仕方がない部分があまりにも多く、そしてそれらの理由を聞いて帰ってくるのは前例主義に隷属しない事への人格批判であった。
辞めてしまいたいという気持ちと、わざわざ転職活動をして結局また同じような職場に辿り着く未来視がせめぎ合う毎日に人生は塗りつぶされていく。
しいて今やっている仕事の良い点をあげるとすれば、意味不明なルールばかりで仕事が回っているため、家に帰ってから勉強のやりようなど全くないことだ。
そして、テドリの働く会社の長がセキュリティ意識を闇雲に高くした結果、持ち帰りの仕事は一切禁じられていることだ。
当初はこっそり仕事を持ち帰る者も後を立たなかったようだが、他人の出世を妬む者達の血で血を洗う密告ゲームが何度となく繰り返されたことにより、持ち帰れば帰って仕事が増えると誰もが骨身にしみ、もはやレジュメの一枚すら簡単には持ち替えれなくなってしまった。
そのおかげで、テドリは家に帰ればただ悶々と転職への夢を羽ばたかせながらダラダラとテレビやネットを見るだけの暮らしが出来ている。
出世した所で面倒事が増えるだけだと同期の誰もが出世を蔑ろにしている事もあり、テドリが会社で生き延びるために勉強や仕事を家に持ち帰る必要は一切ない。
だが、テドリとて分かっている。
それは今いる会社で生き延びるためのやり方であり、社会全体で生き延びるという意味では緩慢な死へと向かっていると。
だが、今必死に努力をしても結果が出るのは転職をした後、それも、まともな会社に転職できた後でようやく見返りがあるだけだと思うとテドリの学習意欲は容易に立ち消えていく。
テドリの学歴、職歴、能力、人格、そういうった諸々を考慮すれば、十分なのだ。
今までの自分が努力しなかったこと、そしてこれからも努力をしたくなくて仕方がないことを思えば、これで十分なのやも知れない。
このような結論に至るような思考回路をしている自分自身に対して感じるやるせなさこそが、ネンシュー=テドリ=ニヒャクマンにとって最大とも言える悄然の種である。
テドリが絶望しているのは、可能性を信じて努力しようという活力や、長期的な見通しを立ててそこに向かおうとする精気が己の魂の中にあと一欠片二欠片残っているかどうかすら怪しいことなのだ。
そのうち脱衣することをアンパンツと呼んだりしそう