パンツが見えました。
蓮舫が過去において、「自分は在日中国人だ」「在日の中国国籍のものだ」という発言をした。
彼女がどういう発言をしようと、法的には彼女は純然たる日本人である。だから、国籍の面では、何も問題がない。
仮に、「私は中国国籍です」と発言したら、そのとたんに国籍が中国国籍になるというのなら別だが、日本はそういう制度にはなっていない。本人が何を発言しようと、彼女は日本国籍だ。だから、国籍の面では、何も問題はない。
※ なのに、勘違いしている人が多い。彼女がこう発言したからといって、彼女を中国国籍だと思っている人が多い。頭がどうかしている。
問題があるとすれば、彼女が「嘘をついた」ということだけだ。とはいえ、これは、本当に嘘をついたのかどうか、はっきりしない。本人が勘違いしていただけかもしれない。あるいは、単に言い間違えただけかもしれない。
彼女は実際に過去においては「在日の中国国籍だった」と言える。その意味で、まったくの嘘つきではない。単に「時制を言い間違えた」というだけで済むかもしれない。
とにかく、彼女を「嘘つきだ」と批判したいのであれば、「中国国籍でもないのに中国国籍だと嘘をついた」という批判は成立しない。「中国国籍だった(過去形)なのに、中国国籍である(現在形)というふうに、時制について偽った」というふうに批判するべきだ。
さらに言えば、彼女の発言は、実は、時制を含んでいない。「在日の中国国籍のもの」と言っているだけだ。ここには時制が含まれていないのだから、「時制を偽った」という批判は成立しない。
仮に彼女が故意に嘘をついたとしても、それはたいして問題ではない。なぜなら、番組の宣伝(番宣)で嘘をつくことなど、ざらにあるかだ。
実際、映画の宣伝で、ヒロインとヒーローが交際中であるような嘘をつくことは、しばしばある。それと同種のもので、彼女のキャラを立たせるために、ちょっと嘘をついた、ということぐらいで済みそうだ。
だいたい、今どき、宣伝(CM)で嘘をつくことなど、ざらにある。宣伝で嘘をついたからといって、めくじらを立てていたら、キリがない。
※ たとえば、日産自動車は「セレナは世界最先端の自動運転車で、優秀な自動ブレーキがあります」と言っているが、これはただの嘘八百だ。
こういうふうに、嘘は社会に堂々とまかり通っている。PCデポだけじゃないのだ。
それでも「嘘をついたこと」の責任を問われるかもしれない。実際、ショーンKは経歴詐称で問題視された。蓮舫も同様のことは成立するかもしれない。
しかし、それならそれで、「キャスターとして番宣で経歴詐称をしたこと」の問題ゆえに「キャスターを降りる」という処置で足りるはずだ。(ショーンKもそうだった。)
蓮舫の場合は、とっくにキャスターをやめているので、「責任を取れ」と今になって文句を言うことはできない。(対象はすでに存在しない。)
政治家としての責任はどうか? 過去において経歴詐称をしたことの責任を、政治家として取るべきか?
取るべきだ、と思う人も多そうだ。しかしそれには、安倍首相が大反対するだろう。なぜなら、安倍首相は、政治家として経歴詐称をした過去があるからだ。
安倍首相はこれほどにもひどい経歴詐称をした。それでいて、その責任を取って政治家を辞めたことは、一度もない。
今回の蓮舫の発言で、蓮舫が何らかの責任を問われるとしたら、その前に、安倍首相が国会議員を辞職するのが先決だろう。
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ブコメ:
> 蓮舫は常に嘘をつくと思っておけと言うのか。
はい。
正しくは「政治家はみんな嘘をつくと思っておけ」です。安倍首相もね。
> ところがどっこい蓮舫さんが二重国籍を認めました(13日)。
これは誤報。二重国籍を認めていない。単に「台湾籍が残っていた」というだけ。
台湾籍は法的にも「中国人として台湾籍」というのは成立しない。
単に手続きが完全ではなかったというだけ。手続き論であるにすぎない。
法的には何も問題ではない。
へーこんなこと気にする子っているんだな。小学校のころは何も考えずポケモンしかやってなかったけど、クラスの子たちもいろいろ気を遣っていたのかな。
クリアもしないゲームを日々買い続け、更には内容の薄いDLCもためらいなく全買いするから、
DLCや売り切りならいくらでもお金をつぎ込んでしまうのにガチャみたいな不確定なものには1000円だってかける気がおきない。
ネットで書き込みしたら叩かれた。その叩きのコメントを見ていたら、自分の心臓がドクドクして、肺のあたりが揺さぶられる感覚がした。
この刺激は、もちろんあまり好ましい性質の刺激ではないのかもしれないが、しかしとても新鮮だった。
今までネット上の自分は大勢の中の一人で、いわばa manとでもいう存在だったのに、 叩かれているときは自分がある特定の一人の、the manになっていたのだ。それが自分のアイデンティティが試されているような気がして、とても、とても不安定な気持ちになった。
その体験があまりに新鮮で、そして新鮮に感じることがとても悲しかった。 僕は普段全くthe manではなくて、いつも大勢の中に埋没しつづけ、そしてその状態を好んでいて、そんな時にいざ自分自身のアイデンティティを求められると、なんというか、困る。
僕は何も主張もなく、こだわりもない。 本来はこの状態を抜け出すべきなのだろうが、 僕自身、この状態にいることを望んでいる。僕は、このままぼんやり死んでいくのだろう。
なんの生きがいもなく、死んだ様に生きている。
老いた先に何が待っているかといえば、死だけだ。
多分親も死んでいて見とってくれる人もいない。
生きるのがつらい代わりに死ぬのが辛くない
が辛い。来世なんてあってほしくない。痛みや苦しみをもう感じたくない。
家の郵便受けに宅配ピザのチラシと割引クーポンが入っていたので、初めて宅配ピザをとった。
高い高いと思っていたけど(実際高い)、クーポンを使うと1人1000円ちょっと。
届いたピザは大きくて具沢山でうまい。スーパーのチルドのピザとは違う、当たり前だ。
私は子供の頃は見た目もいかにも女の子な女子だったし、性格といい口調といいおっとりのんびりだったけど。
ほんとうに小さい頃、親兄弟や親戚の中で育ってる時はそれで別に良かったけど、幼稚園~社会人の頃は生きづらかったなぁと、振り返って思う。当時は何で生きづらいのか自分で分かってなかったけど。
アイツはブリッ子だとか男に媚びてズルしてるとか言われたくなくて必死だった。
私が育ったのはそんなに封建的な時代でもなかったから、女だからってそう酷く抑圧された訳じゃなかった。
でも、女子のコミュニティの中では、ズボンを履き大股開きでどっかり座ってガハハと笑い、「おいテメェふざけんなよ」とか「殺すぞw」とか粗暴な口をきく自由はあっても、ピンクのスカート履いて、のんびり語尾を伸ばして喋りうふふ~なんて笑う自由はなかった。
臨時講師とは教員採用試験に受かっていない人達で、教員採用試験に受かった人達と仕事はほぼ同じだ。
この時点で私に与えられた仕事は生徒達からしたら正規の教員と同じだ。
しかし、講師なので教員とは違い、学校内で教員組織としての仕事は軽い。
因みに私は夢や熱意を持って講師になったわけではない。
ただなんとなく就職したくなったので、教員免許を活かしてみただけ。
なので学校の仕組みも何も知らない。
今もよくわかっていないことばかり。
正直、この自分の決断は軽率で、許されるものではなかったと思う。
私の場合、履歴書を教育委員会に提出し、赴任校が決まったので挨拶に行き、数日後には新任式で挨拶をしていた。
臨時講師の研修は、もう様々なミスをして疲弊しきった頃に行われた。
生徒や保護者にとって、臨時講師だから、教員採用試験に受かっていないからということは関係ない。
校舎の配置も、学校の仕組みも、授業の作り方もわからない、本当に右も左もわからない私への反応は幸いにも優しかった。
保護者や生徒はそう言ってくれた。
そう私は責められた。
当然だと思う。
だが言い訳をするなら、研修を受けていない状態で専門用語を使われてもわからなかった。
大学で教わってきた授業の作り方は現場ではあまり役に立たなかった。
ここでは私が今まで学んできたことは通用しなかった。
私にできることは生徒に対して真摯な対応をすることだけだった。
何もわからない手探り状態のまま、生徒の話に耳を傾け、どうやったら生徒の成績が上がるか、どうやったら生徒が良い人間関係を築けるのかを考えて行動した。
結果、私は生徒から好かれた。
保護者の反応も悪くなかった。
職員室に行くといつも注意を受けた。
気が狂いそうだった。
いつしか、土日の朝になると涙が止まらなくなるので、土日に部活に行く回数が減ってしまった。
そんな日は片付けることもできない汚い部屋の中で、ベッドに腰掛け、学校からこっそり借りてきた正規教員向けのマニュアルを泣きながら読んで過ごした。
教員採用試験に受かったものだけに与えられる権利が十分な研修。
講師なんて雇うべきではないのだ。
自分の子供が十分な研修も受けていない人間に無責任に委ねられる。
こんなことがあっていいのだろうか。
どちらかというと熱血で夢を持った人達が多いように思う。
熱意もあり、教師になりたいと心から願う人達が、こんなにも教育について知らないものかとがっかりした。
四月から成り行きで勉強を始めた私より、教師になりたいと思う人達の方がすかすかなことに絶望した。
部活を休むクズとは違い、熱血できちんとしていればしている人達ほど時間がないことを表しているのだ。
講師でありながら、まるで闖入者のような存在の私から見て、学校という組織は異常だ。
研修も受けない、何も知らない人が教師の皮を被って生徒の前に立つ。
そしてその教員モドキが大きなミスをしたとき、世間はそれを許さない。
ミスなんて許されてはならない。
私達は使い捨てだ。
教師になんてならなければよかった。
明日もまた私は教壇に立つ。
生徒のことを考えるからこそ、生徒への申し訳なさで押し潰されそうになる。
何も知らない私を先生と慕う生徒達。
申し訳ない。
本当に申し訳ない。