はてなキーワード: 唐揚げとは
絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。
定量化できないものの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価そのものをするのが。
だからと言って、定量化できる部分だけを見て、マックは世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。
「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去の経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。
しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理の満足度とざっくり順番に並べ、相対的な整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。
料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的な感覚というものはあるのでしょうけれど。
例えば映画なら、この映画は面白い。面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通の面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーションに境界を引くのはあまりにも難しい。
ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌い」から離れ、普遍的な視点に立たなければならない。
1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。
その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思います。しかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者を評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。
ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります。
しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。
実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。
自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまいます。
やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいるものの、ざっくりの印象を10点単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位の数字を合わせているだけなのではないかと。
他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。
イデアなんて言葉がありますが、物事に本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか。
批判、批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌いの問題になるのではないかと思います。
どれだけそれらしい理由を並べて普遍性、正当性を強調しても、根底は個人の好き嫌いでしかない。
しかし遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。
(追記)
この世で本質的に存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人の好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的な評価軸の存在は否定していませんし、対外的には尊重しますよ。
究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。
(追記)
・定量化できないものを数字にしたり相対評価したりするのは難しい
・評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない
一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人の評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的にダメだとは一言も言っていない)
・評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌いに帰結しないか
・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか
まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。
それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるものが存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。
その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。
しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。
そして酒に酔ったあとの頭痛や吐き気も駄目だ、それが嫌で酒が嫌いだ
ビールだけじゃない、他も駄目だ、アルコールが嫌なんだ、飲んだら必ず頭痛がするし下痢もする
というか一般的な居酒屋のメニューもあんま好きじゃない、ケチャップ、マヨネーズ、マスタード、そんな味が好きだ
フライドポテト、唐揚げ、ピザ、そんな方がいい、そっちが好きだ
でも、でもそんな主張は出来ない、そりゃ恥ずかしい事だろうだからね、『社会人』としてね
だから嫌いな酒を我慢して飲んで、本当は苦手な刺し身だのを食べる
最初、何も知らないゆとり新人だった頃「ビール苦手なんです」「タコワサとか刺し身は苦手です」ってきっぱり言ったよ、でもさ、笑われた、お子様舌と言われた、高いものは違うって言われた、もう少し歳を取ればわかるって言われた
だから空気読むために、行きたくない飲み会で飲みたくない酒を飲んで食べたくないものを食べる
数年やってきて、味覚は変わらなかった、ビールは相変わらず不味くて、刺し身とかも美味しく感じない、酒を飲めば頭が痛くなりお腹も緩くなる
本当はフライドポテトや唐揚げが食べたい、本当は酒じゃなくてジュースやお茶がいい、本当はお酒なんて飲みたくない、酒を飲むだけで吐きそうだ
でも飲み込まないと社会で生きていけない、バカにされて笑われる
なろう で、魔王っぽいのと勇者っぽい男女、どっちも迫害されてたっぽい二人が争いがおわったあとにくっついて、娘が産まれて、男のほうが強いんだけど子育てでは主夫やってて、娘のトイレトレーニングで「拭くときは前から後ろ!」とか、男のほうの前世記憶?で唐揚げを妻と娘に振る舞うときに彼女らが「かっらあげっ♪」と自作の歌を唄いつつ待ってるとか、平和になったあとの世界で娘が昔話を読んだあとに「今でも勇者はいるのか?」と訊いて父親のその男が「いるぞ!(笑)」と魔法で食物栽培施設を切り盛りしてる母親のところに連れて行って「立派な勇者だ」と説明してやるところ、とか
…一回読んで「ふーん」したあと、しばらくしてどうしてもまた読みたくなったのにみつけられないんです(´;ω;`)