はてなキーワード: 乳児とは
あれこそ神の与えたもうた奇跡だ。
すまないが、ここから先は乳首の嫌いな男と、乳首の美しくない女性は帰ってくれないか。
たぶん、読んでも気分が悪くなるだけだろうから……。
いや、正確に言えば、美しい乳首を持つ女性の乳首は美しい、だ。
美しい乳首は、何分、何時間、いや何日見続けても飽きることがない。
美しい顔、美しいスタイルなのに乳首が美しくない女性は、とても罪深い。
乳首のかたちを確認せずに、顔やスタイルや性格だけでパートナーを決めることは、
ブルカで顔を隠したまま相手を見初めるイスラム圏の風習よりも、はるかに不条理である。
乳首の形状には、人によって色々と好みがあるだろうが、自分が至上の乳首と崇めるのは、
直径3cmほどのなだらかな山状の乳輪から連なる、直径1cm高さ5mmほどの円柱型の乳首だ。
勃起時には、乳輪にツヤとハリが出てふくらみ、乳首は高さ7.5mmほどの円柱にふくらむのが望ましい。
もうお分かりだろう。
自分は、大きすぎる乳輪もお断りだが、小さすぎる乳輪にはもっと魅力を感じないのだ。
勃起すると縮んでしわくちゃになる乳輪など、むしろ憎んですらいる。
逆に、ほんの少しだけパフィーニップル気味(知らないやつはググれ)の乳首など大好物だ。
軽めのパフィーニップルの魅力は、勃起した時に乳首と乳輪と乳房がロケットのように一体となることだ。
だが、結局のところ地の肌の色によって決まるので、極端に黒かったり逆に白すぎたりしなければ良い。
基本的に、女性の乳輪から乳首にかけての色は、ノーメイクの唇のふちの色から推測可能だ。
これを覚えておくと、脱がさなくても乳首の色がわかるので便利だ。
女性のノーメイクの顔を見るよりも、服を脱がす方が楽かも知れないが……。
わかっていただけただろうか。
大きかろうと小さかろうと、乳首さえ綺麗なら「がっかりおっぱい」はあり得ないのである。
柔らかそうな山のてっぺんにボタンがあれば、そりゃ押したくなる。
その無駄のないデザインは、今にも押されるのを待っているかのようだ。
実際、自分は恋人の乳首を日常的に押しすぎるので、よく怒られる。
押すとへこみ、離すともどる。
乳首を押せば、ほぼ必ずなんらかの反応がある。
セックスの前に押すことで、セクシーなモードに入るスイッチになる。
ただし、このセクシースイッチの効果には、非常に大きな個人差がある。
本当に乳首の感度が高く、平常時にも乳首を押すだけで一気に性欲が高まってしまう女性もいる。
最も多いのは、性欲が高まっている時はセクシースイッチになり、普段は敏感なので押されるのを嫌がる女性だ。
逆に乳首が鈍感すぎるあまり、普段から押しまくっても全く平気で、嫌がることもない女性もいたりする。
自分は、平常時にいきなり乳首を押すので、女性の乳首タイプによっては怒られたりする。
だが、それもまたインタラクティブだ!
乳首丸見えでパリやミラノやニューヨークのランウェイを闊歩するファッションモデル達のように、
日本女性もノーブラで乳首の形をおしゃれに見せることを覚えてはいかがだろうか。
不自然な谷間など見せている場合ではない。横乳と下乳は認める。
乳首の形がくっきりと浮かび、時にその色までがうっすら透けて見えるノーブラの女性は美しい。
とりわけ、柔らかで編みの細かいニットを下から突き上げる乳首の突起には激しい興奮を禁じ得ない。
特にピタっとした白いTシャツなどはノーブラで着るためにあるのではないだろうか。
日本では、濡れTシャツコンテストがあまりメジャーでないのが、とても悔やまれる。
日本人女性は乳首をひた隠しにすることで、自らの乳首の価値をおとしめていることに気づいてほしい。
胸元のゆるい浴衣はもとより、着物と乳首の組み合わせも素晴らしい。
着物?と、意外に思われる方もいるだろう。
あんな分厚い着物に阻まれた状態で、どうやって女性の乳首を愛でるのか、と。
これだから、着物を着ている女性に対し、帯でくるくるあーれーをするくらいしか能のない素人は困る。
和服には、脇の下あたりに小さく空いた穴、身八つ口(みやつぐち)というものがある。
この穴の役割は、表向きにはお端折り(おはしょり)を調整しやすくするため、と言われている。
しかし、身八つ口の本当の役割は「男がすっと手を入れて乳をダイレクトに触るため」だ。
もし、彼女や奥さんが和装を身につけることがあったら、是非ためしてみてほしい。
脇の下にある穴、ここから手を入れることで、襟元を一切乱れさせることなく、ダイレクトに乳首を触れるのだ。
着物を着たままで、ダイレクトに、指先で、女性の、乳首を、まさぐれるのだ!!!!
このホールインワン乳首とも言えるダイレクトアプローチ感は、試してみないとなかなかわからない。
ひとことで言って至上である。
こんなところからも、乳首と乳首を愛する文化の奥深さがかいま見える。
長々と女性の乳首の魅力について語って来たわけだが、素晴らしさが伝わっただろうか。
女性の乳首の美しさ、尊さ、気高さがわかっていただけただろうか。
人間の女性の乳首は、乳児への授乳のためだけにあるものではない。
男性を魅了し生きる活力を与えるために、女性の乳首以上のものはないのである。
われわれ男性は、今後もおっぱい画像の収集に励み、女性の乳首をますます崇めたてまつろうではないか!
……と、言いたいところだが。
それを皆に伝えて、この文章を終えよう。
はじめておっぱいを触った http://anond.hatelabo.jp/20130416120520
【そして、名も無きおっぱい星人に捧ぐ】
赤ちゃんがわたしのお腹にいるとわかったとき、パパは涙ぐんでいた。
「おーそうか」
って冷静なふりをしてたけれど泣いていた。
口には出さなかったけれど、やっぱりパパは子供が欲しかったんだ。
なかなか子供ができずに、ひとりで悩んでいた。
パパも私が悩んでいたのは知っていたそうだ。
でも、不妊は女の責任だから、気がつかないふりをしていたんだって。
パパは、早くから乳児の服を買ってきたり、家を清潔にすると言って大掃除をしだした。
新しい家具を買ってきて家具を移動させたり、無理して車まで買い替えた。
すべて、生まれてくる赤ちゃんのためだって。わたしのことも気遣って欲しかった。
でも、わたしのためにしてくれこともあった。
トイレの後で手洗いをするようにしたのは、ママのためなんだそうだ。
それを聞いてもうれしくはなかった。
パパはとても不安になって検診の結果もメールで報告させられた。
パパのビクビクする様子に、私も不安になってきた。
ストレスで体中に湿疹ができたこともあった。
そんな辛いこともあったけど、辛いのは私だけ。
パパはもちろん、パパの両親はとても幸せそうだった。
パパの両親も家に良く来るようになって、顔を合わせるたびに赤ちゃんの話ばかり。
そんな私のストレスに、パパは気づいているはずなのに、また知らないふり。
パパは母子手帳まで、自分の親に見せながら、胎児の推定体重まで話題にして喜んでいる。
1g増えるだけで幸せなんだそうだ。無神経な発言が信じられない。
発育が悪いときは私が叱られそうだ。
私は胎児の成長や出産、子育ての不安で一杯なのに、無理に笑顔を作って話を合わせている。
そして舅、姑はもちろん、ひいおばあちゃんまで出産の時に来たいと言っている。
今から気が重い。
私は、時間もかかるだろうし、高齢のひいおばあちゃんには遠慮していただいたら言ったのだが、
ひいおばあちゃん曰く
という理由でどうしても来たいそうだ。
そう話をしながら、パパ、おじいちゃん、おばあちゃんは感動で泣きそうになっていた。
そういえば、パパの家族は泣ける話が大好きだった。
でも、その涙はこの家族には理解されないだろう。
お前らそんなに母親に甘やかされて育ったのか?
うん。そうだよ。母親ってのは、無限に子ども受容する存在だよ。
叱る前に「絶対的な愛情を信じさせる」って作業が必要なんだ。だって、誰が「自分を叱るばかりの人間」の言うこと聞くんだ?
物心ついたころの子どもが覚えているのは、叱ることもする母親だろうが、その前の乳児期から幼児期は、ただ、ひたすら「子どもを受け入れて、子どもの信頼を勝ち取ること」を母親は目指すんだよ。出ないと、次の「叱る」に移行したとたんに、子どもの気持ちは母親から離れて(こいつの言うことを聞くふりだけして、うまくやろう)って態度になっていくからね。
甘えた記憶が残っていないのは、増田の母親が子どもを愛せない人だったか、あまりに幼くて覚えてないだけだ。
ああ、ちなみに、私は母親に愛されたことなどないよ。サイレントベビーって言ってね。泣こうがわめこうが放っておかれると、生後6か月で人生に絶望して(私が何をしても世界は変わらないと諦めて)泣かなくなるんだ。幼稚園に通っていたころに「予防接種のときまで泣かない子なんて、あなたくらいだ」と言われたのを覚えているくらいだから筋金入りだよ。
子ども産んで、子どもが幼稚園に入って、よそのお母さんをつぶさに観察するようになって、初めて「子どもを無限に受け入れる母親」ってのはフィクションじゃなくて実在する。というか、実は9割がたは、そっちの母親と知って愕然としたよ。
もちろん、叱ることもあるけどね。叱ったときは、いつもの3倍くらいフォローが入る。「あなたのことは大好きよ。あなたがそれをすると危険だから言ってるのよ」みたいな。
増田が「そんな母親いるのー?」と思うクチなら、たぶん、親に恵まれてないんだと思うよ。大丈夫。そういう親も1割くらいはいるから。フツーフツー。
元増田じゃないけど、実際は政府はそこそこちゃんと仕事してるよ。
そりゃ、いくつかはひどい事例もあったと思うけど、無謬性を求める心が「想定外」を埋むのであって、少々の失敗はちゃんと責任を取らせた上で忘れるのも健全な社会運営には必要なのではなかろうか。
・リスクを考慮した上で安全基準を決め、運用についても政府が責任を持ち、信頼性を担保する(偽装などがあると何も信用できない状態になるので、偽装するインセンティブが生まれないようにする)。
・リスクがどのぐらい考えられるかを周知する。
ぜんぶやってる。根本的に、勉強する気がない人のところに知識を届ける効率的な手段がないだけ。
流通が「ゼロベクレル宣言」とかしちゃうからね。もうアホかと。
安全側に振って生活してるんじゃなくて、安心側に振って生活してるだけ。今マーケットに出てるものは、科学的・疫学的にみて十分に安全とみなされているものであって、それを食べることによって発生するリスクは知られていない。「安全側に振って」って言う奴が同じ口で生肉規制に文句言ったり、煙草吸ってたりする事例を見たりすると特にそう思う(あなたがそうといっているわけじゃないが)。
友人の子供ならともかく、友人本人であれば、ちゃんと物事を調べない馬鹿者がここにいるのだな、としか思わない。可能性だけの話をするのであれば、人工甘味料を長期間摂取してガンになるリスクのほうがよほど未知だよ。次々と新しい化合物が導入されてるし。
グルメ旅番組の北海道特集を見ていて、「北海道行きたいなー」と言ったら、
オットから「お前は行こうと思えばLCCでも使っていつでも日帰りできるじゃん」と言われ。
ああこの人全然わかってないんだと思った。
私。
けど。
乳児を連れての移動がどれだけ大変か。
それを考えたらとても実行する気になれない。
まず荷物。
着替え。普段は1セットだけど、遠出となれば不測の事態を考慮して2セット。
タオル類。大小合わせて4、5枚。
当然、食事も全部取り分けってわけにいかないのでベビーフードを2、3個。
これだけでもう、大人の1泊旅行ぐらいの荷物になる。
これにベビーカーがつく。ベビーカーが使えない場合に備えて抱っこ紐も。
抱っこ紐は身体に装着しておく。
さて、これだけの荷物を持って、いざ北海道へ出発。
うちから羽田まで、乗り換え2回、所要時間1時間半ぐらいかな。普通の移動を想定すれば。
けど、乳児を連れてとなると、荷物は重いし、エレベーター探して迂回したり、
うちから羽田までの移動を考えただけで「日帰り」の選択肢はなくなるレベル。
オットが1泊を許してくれたとして、そうなったら荷物倍増。
もちろんベビーカー押しつつキャリーバッグ転がしつつ、なんて無理なので、
頑張って肩掛けバッグに詰めますよ。
私の着替えはあきらめるかなー…。
さあ、どうにかこうにか飛行機に搭乗、離陸。
ここにあのレディコミ漫画家でも乗り合わせてたらもう、いたたまれません。
私には無理。
けれど、グルメ旅番組でよく見る店はお子様向けにはできてない。
しかも子供はまだ一人で食べられないので、食べさせつつ自分も食べつつ。
夜も、子供を連れまわすわけにいかないので、子供に合わせて20時には就寝。
飲みに行くなんてありえない。まあ、読書ぐらいはできるかもね。
次の日の朝、またどこに入ったか分からない食事をして、観光…できるかなあ。
まあ、授乳スペースの確認が必須だったころに比べたら、楽になったよね。
さあ、子供の夜の予定を考えたら、昼過ぎには北海道を出る方が無難です。
また道中のギャン泣きに怯えつつ移動。総移動時間、片道6時間ぐらい?
…想像するだけで疲れた。
とまあ、これだけのことを
「お前は行こうと思えばLCCでも使っていつでも日帰りできるじゃん」
と言われた瞬間に考えるんですよ、子持ち主婦は。
それに対して、オットはきっと、身一つで移動する程度の気軽さで考えてる。
私だって、子供がいないなら北海道日帰り弾丸ツアーやるぐらいの行動力はある。
でも、子供がいたら、その身軽さはないんだよ。
オットよ、早く気づいてくれ。
> http://anond.hatelabo.jp/20090106154017
原則
原則として、俺は知性あるものに最大限の尊厳(人権と同程度)を認めたい。ここで「知性」の基準は、言語的な(あるいはそれと互換性のある)意思疎通が可能であるかどうか。多少なりとも論理的な対話ができること、と言い換えてもいい。
(俺が捕鯨に反対しないのは、鯨に知性があるといっても言語的な意思疎通ができるほどではないからだし、喋る豚(ジブリ映画にいたな)がいたら多分俺はその豚を食べない)
胎児はこの意味で「知性」をもたないから、俺は人権を認める必要を感じない。堕胎が「人権」の侵害だとは思ってない。
ただ、胎児は遠くない未来に「知性を獲得すると見込まれるもの」ではある。未来に人権を獲得するもの、という意味で、なんらかの尊厳が認められるべきだと思う。ただしこの「胎児の尊厳」が、例えば「無条件の生存権」を含むかどうかには議論の余地がある。(強姦による妊娠、重い遺伝性疾患、母体の人権の扱いなど)
「妊娠12週」や「胎内外」といった基準に合理的な意味は感じない。「知性」という基準から考えたとき、いずれも「人権」を認めるには値しないと思っている。しかしその胎児・乳児が将来知性(例えば言語)を獲得し始める時期にはばらつきがあるし、どこからが「知性」だと認めるか、あるいはその知性をどう測定・評価するか、確たる方法論は何もないのが今の人類だ。
だから何がしかの基準を一律に適用して、「ある時期からは人権を認めます」というのは妥当な判断だと考える。「妊娠12週」が最適な基準かどうかはわからないが、少なくとも今の人類には十分現実的な一つの基準だと思う。
医学的な定義はともかく、ここで「死」とは、知性の回復が見込めない状態、としよう。
脳死・昏睡した人間は、言語的な意思疎通が一切できないわけで、(観測可能な)知性はない。しかし生体組織としては機能する肉体は持つから、知性の回復が「まったく見込めないわけではない」という点が問題になると考える。結局のところ、評価基準は「どの程度知性の回復が見込めるか」という点に集約されるんじゃないか。
ある程度以下しか回復の見込みのない脳死者に、人権(生存権など)が全面的に認められるべきだとは思わない。
しかしもちろんだからといって、いきなり生ゴミ焼却処分っていうわけにもいかないとは思う。なんらかの尊厳は必要で、それは「脳死者のために」というより、その脳死者に尊厳を認めていた「遺族(?)らのために」認められる尊厳だと考える。
その具体的な内容はともかく、「知性」を対外的に(言語による意思疎通、という外部とのインタラクションの上に)定義した以上、尊厳もまた対外的に、外部とのインタラクションという枠組みを踏まえて考えられるべきだ。感情移入の問題、というか。知性ない胎児に尊厳を認めるべき、という認識もこれに依拠してる。