どうしようもないねみんな大変だね
ハチミツのどこが甘すぎるんだよ!
あじさい通りから君と暮らせたらまでの流れなんて程よくセンチでついつい感傷的になっちまうじゃねえか
あれきいてすかっとしない奴なんてこの日本にいるのか?
はてなで仕事について語ってる、特にホットエントリに入るような記事やブコメって
もしかして俺が知らないだけで
はてなって元々プログラマーのコミュニティ発祥だったりするのかな
そうじゃないのなら
例えば地方の役場とか銀行に勤めてる人の話もあっていいと思うんだけどなあ
世の中にプログラマーなりエンジニアなりが何人いるかは知らないけど
にも関わらずこんなに人種(そしておそらくイデオロギー的なものも)偏ってるように見えるって
東京でIT土方してる人間以外は村八分にされるインターネット部落はてな村なのか
山形県と山口県と山梨県と福島県と福井県と福岡県それぞれの場所がわかるのは小学生の4人に1人くらいと何かで聞いたことがあるけど
未熟未形成な自我のセキュリティホールが生むただの承認欲求処理。
人間を道具として使用した精神的自慰行為であり人間関係における迷惑行為。
生涯においてつがいと非常に強い紐帯を結ぶことで知られる雁の仲間において、
「つがい」を失った年配の雌の雁が同様の行動をしたことが観察されてるね。
その雌は、相手とまともにつがいを結ぼうとする若い雄と次々と「偽りのつがい」を
結んで取っ替え引っ替えして、あたかも性的なからかいをする妖婦のようだったと
その観察をした動物行動学者は記述している。その雌が最終的にどうなったかが
知りたければ、その学者の本を読むといいよ。
その無能なクライアントの面倒を見るのも報酬のうちに入っているなら馬鹿にするのもお門違いなので部下に注意すべきじゃないか
無能だから仕事が発生して自分たちの給料が出てるって意識はつけさせたほうがいいんでないの
ただし無能のフォローはほぼ持ち出しみたいな感じならなんでそんなクライアントを切らないのかということになって会社が無能認定受けるだけかもね
とはいえそういう会社との付き合いって往々にして切るに切れないしがらみなんかもあったりするんだけども
2歳半で脱ぎ着が出来たり、お気に入りの服があるなんて凄いね。
うちは3歳半でやっとだ。私が見てなかっただけかもしれないけど。
甘味度っていう尺度があって(これははこれで厳密な物ではないんだが)、砂糖の甘味度を100とすると、蜂蜜の甘味度は130。
だから砂糖の代わりに蜂蜜使うときは、1/3の量でいいってわけ。で、これが健康にも良いということになる。
あなたの味覚は正常。量を減らせば良いんだよ。
旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。
だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。
だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってなったりするし、ミラバケッソとかヒノノニトンとか意味関係なく音として気持ちよくて頭に残っちゃうことって結構あると思うの(卑怯なCM多いでしょ)。写真でも、単純にきれいなものが写ってたら誰がいつどこで撮ったか以前に「わーきれい!」ってなるでしょ、文字だってうつくしい言葉がきれいに並んでたらそう思えるかもしれない。写真だとモチーフが左右対称に並んで写ってたらそれだけで気持ちいいように、定型句でも575の音数に合ってたらそれだけで気持ちいいとか。この辺が、作品それ自体の内側へと入り込んでいく楽しみ方の例。
逆に作品の外側に目を向けると楽しいこともある。写真なら、たとえば撮った人や撮った場所に注目してみるとか。普通の写真でも、自分の知ってる人、好きな人が撮った写真だって聞いたらそれだけで「どんな気持ちで撮ったんだろう」って想像したくなってこない? あとさ、ライオンが大口あけてる写真とかだと「この人どうやって撮ったんだよ、撮った直後に殺されたりしてないだろうな」とか想像して怖くなったりもしそうでしょ? 他にも、京都タワーを手で支えてるような構図だったりしたら「ピサの斜塔かよww 京都タワーじゃかっこつかないでしょうがwww」なんて元ネタと比べて楽しむとか、それ自体では補えない情報量が実はそこかしこに見つかったりするものなの。
そうやって自分で必要な情報量を探していく、補っていくっていう探偵じみたプロセスも詩歌の楽しみだと思うし、これって実は小説でも他の芸術分野でもおんなじだよね。さらに言うと、いろんな作品(詩歌や小説に限らず)を見ていくと、自分を泣かせる笑わせるために必要な情報量ってじつはそれほど多くない、このツボさえ抑えてれば自分は大体泣けるっていうポイントが抽出できたりする。物語全体じゃなくって特定の要素があれば人間は勝手に想像できちゃうし、人からもらうより自分で作った方が味付けも変えられておいしいのは料理と一緒。でもそうやってツボを探していくと、面白いことに、その自分だけのツボって実は他の人も泣かせてしまったりする。自分のためだけに作ったものが何故か他の誰かまで撃ち抜いてしまったりする。
究極的に個人的なものは、実は最大限に普遍的でもあるんだ。その普遍性だけを切り取って残そうとする挑戦が、詩歌を作る苦しみであり楽しみなのだと、わたしは思う。
あとは渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』って新書がすげーオススメなので一読されたし。自分も詩歌詳しくないけど、わからないなりに楽しくなるよ!
すてきな紹介記事→ http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130531/1369926781
自分の文章読み返したら「ツボ」の例を泣ける笑えるに限定しすぎたのが失敗だった。「泣ける」が分かりやすい例だっただけで“面白い”のツボって千差万別だからね。
でも自分なりのツボはすべての書き手が持ってるだろうし、それを分かってくれる人も必ずいるんだよ、なぜか。・・・いや、よき受け手と出会えるかどうか、そもそも作り手がそのツボを自分の表現で押さえることができるかどうかは別として。
青木淳悟でも木下古栗でも岡田利規や小笠原鳥類や橘上でも誰でもいいんだけど、たとえ共感を得やすいツボに反感を持ってたとしても、その人には別のツボがあるし、人間の表現である限り普遍性を完全に排することもできない・・・とわたしは思う。
だってすべての表現はコミュニケーションだから。読者としての自分自身とすらコミュニケーションしない表現なんて、ヘンリー・ダーガーでも無理なんじゃない?
わーいやったー! ありがとうございます、せっかくなのでその先の本もいちおう置いときますね!
入り口としては『今を~』がすばらしいけれど、もしそれで現代詩自体に興味がわいたら新書館から刊行されてる『現代詩の鑑賞101』がとってもいいです。やさしい解説つきで101篇も読めばだれか一人くらいは推し詩人も見つかりそうでしょう? つまんないのはどんどん飛ばそう。
歴史の流れが知りたければ野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』がなかなか手っ取り早いけど、ごめんなさい、なんかスノッブくさくて個人的にはちょっと・・・。
もっと深く勉強したい人は現代詩手帖の特集版『戦後60年“詩と批評”総展望』などをどうぞ。谷川俊太郎が「やっぱ売れ専をバカにしないで売れる詩をちゃんと作んなきゃダメだろ、ジャック・プレヴェール見習えよおまえら」とか言っててわろた。
ちなみにわたしの推しは入沢康夫と渋沢孝輔です。入沢翁、ツイッターはじめててびっくりした。俳句や短歌の話は、ごめんなさいぜんぜん分かりません。だれかオススメおしえて。
好きなアプリができた
まだ好きではある
でも探せば探すほど黒い話ばかり
消してしまった
まだ少し未練はある
CDを出しているようなアプリなので、それを聞きながらなんとなく未練があるなあって思う
でも、なんだか楽しめなくなった自分がいる
追記
匿名ダイアリーで言ってもアレだけど、トラバで言われている投稿と私は別人です。
どの投稿かはわかりませんが、そのような内容の投稿は知っていますし、まだ存在しています。
Google検索からでも探せます。トラバ見て先程探し当てました。
何度も言いますが、その投稿は私とは違います。信じるか信じないかは(ry
なので、卑怯者とか言われることはしていません。
ネットに慣れてからめちゃくちゃ電話に対する心理的ハードルがあがった。店や病院の予約とかもネットで完結するところを探してしまう。なんというか「は~電話しなきゃなあ…」ってなるのがささいなことのはずなのにすごくストレス。コミュニケーションが発生するのがだるいのかもしれない。