はてなキーワード: ホモサピエンスとは
なぜランナーズハイが起きるのか、考えてみたことはあるかい?マラソン選手が「無心」に走るとき、いやマラソン選手じゃなくてもいいけど、人が走るとき、その人の脳内で何が起きているのか、それを考えてもみてくれ。
「無心」という言葉がある。また、「無為」という言葉がある。それらは何を意味する言葉なのか、ちょっと考えてみようか。
例えば、「美味しそうな桃があるなあ」と思って、桃をつかむ。これは「有心」なわけですよ。やろうと思う→動こうと思う→動く→反応がえられる。必ず、こういう順序になっているわけ。これはね、人生の最も普遍的な構造の1つなんだ。あらゆる所で、今言った順序のプロセスがついてまわる。
ところがだよ、「美味しそうな桃があるなあ」と思ってつかんだら、前の席の女の子のお尻だった。これはどう考えるべき?
「無心」に近いのだよ、これは。たしかに「やろうと思った」。桃をつかもうとした。でも、痴漢行為という違うことをやっちゃったわけ。つまり、桃に関しては「有心」かもしれないが、痴漢に関しては紛れもなく「無心」。やろうと思わないで、動こうと思わなかった動きをやった。そしてビンタされるという反応をもらった。簡単なことだろう。
これは、先ほどの矢印で表すなら、 動く→反応 というシンプルな構造をしておる。これが無心の構造だ。
有心と無心の構造の違い、それが何をもたらすのか?ここが重要なところであるぞ。有心だと、「やろうと思う」「動こうと思う」という意志が行動に先行していた。すると何が起きるかというと、動きがよく意識される。当たり前だ罠。やろうと思って動こうと思って動いたんだから、その動きはよく自覚される。当然である。
ところがどっこい、無心の場合は動きが「特別視」されない。ここがポイントね。特別視されないから、動きと反応が渾然一体となって、心に「どぴゅっ」と入ってくる。射精音を「どぴゅっ」と最初に表現した人は天才だと思う。話がそれた。渾然一体となって行動とその反応が入ってくるから区別がつかない。これが「主客未分」とか「無我」なわけです。
おそろしく単純だけどそれを厳密にやるのは難しい。だから「無我」はむずかしい。からまりの糸をほぐさないと外れない、でも外れたフリは簡単にできる、そんな知恵の輪がそこにある。
以上から、「無為」のヒントが分かったろう。「やろうと思う」「動こうと思う」といった「意志の想念」を無くせばよい。もちろん難しい、難しいけど無くせればもうそこには「無為」がある。
ランナーズハイのえもいえぬ快楽はまさにこの「どぴゅっ」であろう。ランナーは走り去る景色を見ながら走る。過ぎ去る路面を見ながら走る。やがて走ろうという意志が消えて走行が自動化すると、何ということでしょう、過ぎ去る景色が「どぴゅっ」「どぴゅっ」と飛び込んでくる。エンドレス射精が気持ち良くないなんて人はこの世にいるだろうか?いや居ない。射精だに気持ち良いのに、いわんや連続射精においてをや。世間では「ちんぽには勝てなかったよ」という名言があるそうだが、それは自身のちんぽとて例外ではないということだ。話がそれた。
私はジョギング以外にスキーもやるのだが、スキーにも似た感覚がある。過ぎ去る景色がやがて「どばばばば」という射精感で飛び込んで全身の喜びとして一体化される。バイクはやらないんだがバイクなんかもそうなのだろうか?
その気持ちよさを味わってみると、ああ人間ってのはなんて自分の動きにやたらと注意を払う生き物なのかと叫ばずにいられない。そのようにhumanbeingを特徴づけても差し支えないくらいに、自分の動きを意識しすぎている。それは挙動不審とか自意識過剰とよばれる。自然界から有心な生き物だけ集めると、すまないがホモサピエンス以外は帰ってくれないかってことになる。
要するに、「○○しよう」って意志が人間を人間たらしめ我らが誇る文明を築き上げてきたのであると同時にだな、人間を大きく縛り付ける枷(かせ)ともなっている、と言いたいのだ。
その枷から逃れる術は実はあるのだがここでは詳しく立ち入らない。簡単に触れると、動きの意志からの離脱が動きを無為へと解放したように、「意志の意志」というか「意志へのこだわり」を捨てればよい。さすれば、己が意志すらも「どぴゅっ」と飛び込んでくる。イメージとしては川の上流が滞りなければ、中流も下流もさらさら流れやすいだろ?そういうこと。感覚としては小学生でも分かる簡単なことだ。また、部分的実行もさほど難しくない。だが完璧な実行は、言うは易く行うは難し、である。
だから、意志は最小化(minimize)したい。そう思うのも当然だね?それをシンプルに「没頭したい」「熱中したい」と言い換えることも可能だ。人々は意志の中身を問題にするが、意志の量はあまり問題にされない。意志の量を問題視しよう。
アメリカの政治家ナサニエル・シモンズはいみじくも「習慣は最高の召使か、最悪の主人のいずれかである。」と言い放った。
しかし、こと意志の最小化に関しては、習慣化は善である。すなわち、習慣化すれば意志は減る。換言すると、動きを自動化すれば、動きに関して気にすること(daily hassles)が減る。当然だよね(キュウべえ口調)。
習慣化なんてやだよーと枕に顔をうずめて手足じたばたさせているそこの貴方に朗報。習慣化しなくても意志は減らせます。キーワードは「リズム」。リズムに乗れば確実に無駄な意志は減ります。ジョギングってリズム運動じゃないすか~?だから効くんすよ~。
リズムというと「リズムに乗る」という言い方をするだろう。「リズムに身を任せる」ともいう。意識せずとも身体が動く。無為。これはもう完全に、意志で「動こうとする」のとは正反対のことですわい。
ジョギングでも音楽演奏でもなんでもいいんだけど、リズム運動するとき最初はリズムに「乗ろうとする」。けど、やがて「リズムに乗る」。すると、意識の上でも逆転現象が起きる。こういう順番なわけ。
逆転現象ってのは、世界と自分を対立させて自意識過剰にキョドってうまく動こううまく動こうとするモードから、世界に乗って世界のあやつり人形となったお任せモードへと変わる。あやつり人形なんておそろしい言葉・・・。しかし、これはあくまで行動の細部が自動化されることを感覚的に表現しただけで、実際に大筋を決めるのはモニタの前に座ってるそこの貴方だ。びしっ。
是非ともこの逆転ということを幾度となく経験してどんなものか掴んでほしい。「無為ってなあに?無為ってなあに?」と彷徨っていると夜のとばりが突然降りたかのようにガラッと変わるから。
自分の動き、自分の身体が景色の一部に取り込まれて、景色全体が一挙にドドドドドドと押し寄せてくる、飛び込んでくる感覚。
そして、そのとき漏れなく付いてくるのが「どぴゅっ」である。それも連続。つまり、「ドドドドドトド、どぴゅどぴゅどぴゅどぴゅ」なのである。
悪いけど何について書いているのかわからない。
うーん、わりとがんばってわかりやすく書いたつもりだったけど、まだ前提の相違があるのかな。
自分が言いたいのは、「あのイラストはPCじゃない(差別的な表象としての解釈もありうる)けど、イラストに書かれた人工知能が自由意志を持って行動していると理解すれば、差別的な表現ではないという解釈もきちんとできる」ということで、そこに対してどう反論したいのかがハッキリとは見えてこなかった。「エクスキューズのためにケーブルに接続されて描かれている女」「人工の女」っていうのがどういうレトリックなのかもよくわからなかったし。
こんな仮定はしてないね。ちゃんと「このイラストからはこの人工知能が自由意志を持っていると読み取れる」って書いてるんだから、もうちょっとよく読んで欲しかった。
完全に「人工の女」について語っているけど、格好だけを根拠に家事労働者ではないとは言えない。というか現にホウキ持ってるのに。
ちなみに「人工の女じゃない」ものとしてあのイラストを見ると、話はもっとシンプルになる。
すなわち、明らかに掃除に向いた設計じゃない、デザインの段階で「女のかたち」に用がある向きの欲望が大きく作用している、よって性差別的である、と。
自分は「Aだとは決定できない」と言っているのに、あなたはどうやらそれを「Aではない」と解釈しているのかな。まぁレトリックが悪いといえばそれまでか。
「人工の女」っていうレトリックがねー、とにかくわかりにくいので、そこだけ直してください!お願い!
ご冗談を。あなたはそれがホモサピエンスであろうともなかろうとも、彼女にはルンバや掃除機やクイックルでなくホウキを与え、代わりに読書に耽る自由は取り上げることに全く反対していない。
いやいや、どこからそんなの読み取ったの……。ホウキを「与える」っていうのがそもそも一方的な仮定だし、「読書に耽る自由を取り上げること」に反対したかな? よくわからない。
悪いけど何について書いているのかわからない。
「人工知能」という言葉であなたが表現しているものは、どこまでも人間や女性そのものに過ぎない。
あなたの記事の「人工知能」を「女性」に置き換えると、一昔前にフェミニズムについて書かれた文章として立派に通用してしまう。
「エクスキューズのためにケーブルに接続されて描かれている女」の、当然もつであろう自由意志について述べている。それ以上のものが読み取れない。
自由意志の定義を後回しにしたのがなおのこと良くない。それはある意味で人間の定義それ自体にも等しく、そこから差別性を説明することのできる重要なポイントたり得たのに、そこをぼかされたまま「人工知能に自由意志があることを前提とする」と始められても意味がない。
「自我」「知的存在」「コミュニケーション」にしても然り。これだけ定義の広い言葉をAIがらみでポンポン繰り出されても、曖昧なイメージが飛び交うばかりで何を説明されているのかさっぱりわからない。
人工知能についてどれくらいのことを知っているの? 実際にローブナー賞に挑戦している人工知能と会話したことは?
2-2の解釈を取ることについての説明は? 何を根拠に2-2なの? 妥当性、正当性、何でもいい。
まさか自分で勝手に定義不明のままおいた「人工知能には自由意志がある」という前提にだけ基づいているわけじゃないよね?
「従ってイラストの女性は自由意志に基づいて行動しており、使役されているように見えても実際は自由な行動であり、差別ではない」
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
人工知能に実際にボディを持たせてもあのイラストのようにはならない。
あれが「ボディを持った人工知能である」という解釈は単に記号的に付け足されている充電ケーブルが担保しているに過ぎない。
Photoshopでケーブルを消してしまえばあれは「家政婦さんの絵」だ。それくらいあの絵は「ボディを持った人工知能」にあるべき必然性を欠いている。
だからあの絵を見る側も「ボディを持った人工知能」ではなく「人工の人間(女)」として見ている。あなたのように。
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
都合のいい解釈だことw 元ネタが掃除機で接続がケーブルなら「休憩を入れずに充電しながらでも広範囲を掃除するため」と解釈することはむしろ当然じゃないか。
一目で人間以外の存在であるとわからせるのにいい方法なんていくらでもある。人型でありながら人間とはかけ離れたデザインにした方がよっぽど一目でわかるよ。
充電表示だってもっと直球で「充電中」とどこかに表示されるようなデザインにしたっていい。
「描いた人間がそれじゃイヤだから」以外の、そうしない合理的な理由があるなら教えてもらいたい。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
完全に「人工の女」について語っているけど、格好だけを根拠に家事労働者ではないとは言えない。というか現にホウキ持ってるのに。
ちなみに「人工の女じゃない」ものとしてあのイラストを見ると、話はもっとシンプルになる。
すなわち、明らかに掃除に向いた設計じゃない、デザインの段階で「女のかたち」に用がある向きの欲望が大きく作用している、よって性差別的である、と。
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
人工知能は生物ではない。「適切な行動」とは「生き延びるために適切な行動」の略ではなく、「パフォーマンス最大化のために適切な行動」のこと。
人間に合わせて本を視覚で読んでいては、データを一気にダウンロードして処理した場合に比較してどれだけパフォーマンスが落ちることか。
これだけ「人工の女」として人工知能を取り扱っておきながら、実在の生きた女に対してならば当然要される配慮がこのイラストの「人工の女」に対しては行われていないというところに疑問を持っていないのが一番不可解で怖気を誘う。
家事労働を行うにあたっての作業を助けるような利便性の欠如や、読書と掃除という相性の悪い動作の同時並行を描いていること自体が、「そんな配慮が要るという発想が無い」「眉目麗しければそれでいい」ことを如実にあらわしているのに、すべてを「この人工知能が自由意志でやっている」でくるみ込んでノーコメント。
「自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうる」?
ご冗談を。あなたはそれがホモサピエンスであろうともなかろうとも、彼女にはルンバや掃除機やクイックルでなくホウキを与え、代わりに読書に耽る自由は取り上げることに全く反対していない。
あまり語句的にツッコミすぎると収拾がつかなくなるので、もうしわけないがすこし整理しながらいこう。
まずは自分が仮定している基本的な命題として、「イラスト中の人工知能は自由意志を持つ」っていうのを挙げておく。
これは、「掃除中に本を読むという非合理的な(後述するがこの「非合理」には2通りの解釈が可能だ)行動を行っている」ことから明らかじゃないかな。
くわえて、この「自由意志を持つ」っていうことを根幹に据えて考えると、イラスト中の人工知能が掃除機やルンバの擬人化ではないということも明らかじゃないかな。
(もちろん悪意にとらえれば、「自由意志を持つかのように人工知能にふるまわせることで所有者が所有欲を満たしている」という解釈もできるわけだが、ここでは扱わない)
じゃあ、自由意志を持つイラスト中の人工知能が、掃除をしながら本を読んでるっていう表象からどういう解釈ができるかだが、これには2つある。
1.自由意志を持つにもかかわらず、人間の主人に(法的にか形式的にか(=フェミニズム運動が打ち倒すべき専業主婦的な立場だというわけだ)はわからない)所有され、家事労働に束縛されている。
2-1.自由意志に基づいた契約の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=契約に反する)」行動も同時にとっている。
2-2.自由意志に基づいた自発的行動の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=掃除をするという自発的行動に対して合目的的でない)」行動も同時にとっている。
このうち1だと問題があるというわけで、それがつまるところこのイラストがnot politicallly correctということだ。あるいは2-1は結局のところ契約者がフェティシズムを満たすために結んだ契約であり、それはそれでキモいというわけだ。しかし自分は基本的には2-2の解釈をとるし、そこには差別的な要素は含まれていない。もしくは2-1の解釈であったとしても、それがpolitically inncorrectだとは思わない。
自分とあなたの相違点として、まず「人間の自由意志と人工知能の自由意志は等価かそうでないか」という点があると思う。
あと、自分は自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうると思うけど、あなたはそうじゃないかも。
この点はもうちょっと深く聞きたい。
続けよう。
>この人物はボディを持った人工知能として描かれているが、想定されているのは「ボディを持った人工知能」ではない
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
>充電「ケーブル」なのは充電中でも広範囲に動いて掃除するためでしょ?
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
>本業はお掃除で、それも自分の持ち物でない(であろう)書斎のお掃除。つまり本来の書斎の主である人間の家事労働代用。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
>人間とは根本的に異質な情報処理を行い、また人間のように振る舞う事自体が彼ら自身にとっても適切な行動たりえない
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
>この二文は矛盾している。
ちょっとわかりにくい書き方しちゃったので、めんどくさいし無視してください。要は上に書いたようなことが言いたかったのです。
「どんな生物の命も等しく同じように重い」なんて綺麗ごとを信じてるからそう思うんでないの。
実際は命の重さにも明確な差がある。具体的にはその人個人の好き嫌いで決まると思っている。
多くの国の人間が決めた法律では、一番重いのは人間の命で、その次に重いのは人が飼っているペットないしペットになりうる動物で、あとは概ね知能および体長に比例して軽くなって行くことが多いけど、必ずしもそうじゃないのはその元記事を見ても分かる。「かわいい犬猫をサメの餌にするような基地外白人は死んでしまえ」と思っている人は、その記事並びにコメント欄を見てもかなり多いだろう。
自分にとっても生きたまま餌にされるミミズの命と犬猫の命は明確に違う。ミミズは気持ち悪いが犬猫は可愛いからだ。自分にとってのミミズの命は、何の意味もなく死ぬところが見たいからと思って殺すことを悪だと思う程度には重いが、魚釣りのエサに使う程度にはかまわないと感じている程度の軽さでしかない。
もっと言ってしまえば人間の命すら違う。そんなに生きた動物を楽しみで釣り上げるサメの餌にしたいなら、仲間同士でくじ引きして負けた奴が飛び込むか凶悪犯罪者でも縛って持ってくるかしてホモサピエンス同士で勝手にやっていろと思う。
だいたいがもって喰う等の用途に必要ならともかく、遊び半分に釣り上げられるサメの命だって迷惑極まりない。人間で言ったら享楽殺人者の被害に遭うようなものだ。
でも、犬猫が大嫌いでミミズを飼うほど好きな人だったらきっと全然違う答えだろう。サメが大好きで釣るなんて可哀想と思っている人も違う答えだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20100921230047
一般的にいえば、ホモサピエンスのオス・オスの性的結合は、オス・オスが一対一で結合する一夫一夫制を基本としており、この形をとる個体がほとんどである。
しかし、ホモ・サピエンスのホモには多くのオスと交尾したいという欲求を表す傾向があり、またホモサピエンスの社会は基本的にホモ優位であるため、
ホモの性的欲求に対してはノンケのそれよりかなりの程度寛大である傾向がある。それにもかかわらず、ホモ・サピエンスの社会において一夫一夫制が主流なのは、
第一にホモ・サピエンスの全個体数におけるオスオスの比はほぼ完全な1対1であること。第二にホモ・サピエンスのホモは現存する近縁種のホモに比べてかなり積極的に発展に参加し、
その資源コストの多くを負担する傾向があるため、ホモの利用できる資源が少ない場合に一夫一夫でなく一夫多夫をとれば、射精のコストをまかないきれず共倒れになる危険があるからである
参考
その思想はどこから仕入れたものなの? マルクス?
単純に言って他者一般程度の社会は魚群でもありうるし、これが暴力で社会統合しているとは聞いたことがない。高度な家族組織であるアリが暴力で社会統合しているという話も聞いたことがない(全くないかどうかは知らない。ハチは女王候補同士で殺し合っていることがあるし、サムライアリは他のアリを奴隷狩りする)。
イヌやチンパンジーは暴力で社会統合しているけど(ちなみにチンパンジーはメスがリーダーであることもしばしばある)、そういうのも一方にあり、一方にはボノボのように性愛で社会統合するものもあり、他にも色々多様としか言えない。
ヒトは当初から暴力によらないと社会統合できなかったという証拠がある? 繰り返すけどそれは民族学や文化人類学では否定されている。これを権威主義として無視するのは簡単だが、じゃあ他に何かの体系的な事実がなければならない。それが全く示されていないので途方に暮れている。
戦争のために必要? 戦争は社会統合か? それに集団的問題解決のためならバンドの集合離散が一般的だったし、集団間の外交関係は婚姻がメインだった。
>・狩猟採集漁労はともかく、それを社会という単位で行うことが「人間という生物にとって自然なありよう」なのかどうかという検証がない。
ホモサピエンスが生じて、食をどうするかとなった時に、男女分業や集団行動による狩猟採集漁労が最初のスタイルだったということは、それが人間と言う生物にとって、「環境改変能力がない限りにおいて」自然なありようだということになるが。
男の腕力は狩猟で実現されたけど、狩猟は大して獲れない(けど重要なタンパク源なので質的に無意味ではない)ので、それなりの意義しかなかった。
それとも、これを否定したくて、いきなり環境改変能力があって、農耕牧畜が最初のスタイルで、男の腕力=生産力が量的にものを言ったというならまた別ですよ。その説を民族学や文化人類学の学会で発表したらセンセーションを引き起こすかケチョンケチョンに批判されると思うので、やりたかったらどうぞ。
>・富の蓄積以外に社会的ヒエラルキーを決める要素がないのか。
属人的な知識経験や人間関係で長老になる。これは男でも女でもある。
首長が現れるのは富の集中・再分配が可能になってからで、それは貯蔵技術・環境改変技術・農耕牧畜技術が発達して以降の話だが。
医者に聞いたら「不妊」の定義は3年間、週2~3でやりまくってもできない人だそうだ。
高齢だから近々検査に行くつもりだけど、1年前に検査した時には問題なかった。
男性経験がほとんどないし、あってもゴム無しでやったことなんてないので他と比較しようがないんだけど、セックスの後、だーっと精液が外に漏れるのが気になったんだ。
モッタイナイし、布団汚れるから汚いし。
普通、そんなもんなのかな? みんなベッド汚しちゃうの? だったらそのまま寝れないよね?
旦那が抜くのが早いのかな? 全部中出しって不可能なのかな?
とにかく疑問だらけ。
あと、不妊に関する本やサイトとか読むと、子宝祈願のために毎朝東を向いて拝む…とかスピリチュアル系に行っちゃってるのが怖い。
そんなんで懐妊したら旦那の子じゃなくて神か悪魔の子を産みそうだ。
最近のヒト科ヒト属ホモサピエンスの雄は携帯メールで絵文字をよく使うものなのか?
真剣に聞きたい。
いやさ、「男は絵文字使わない」と一部のネット上で言われているが、
年下年上共に貰った物は、初めてのメールからして絵文字入りだった。
喪女の貧相な恋愛知識として<男は絵文字使わない>というのがあるんだが、それは本当に貧相な知識だったのね!?
とりあえず、集計対象が少なすぎて(喪だからね☆)統計としては成り立っていないが、
23~24才の3名(職場)、28才の2名(学校の先輩)の内、28才の1名除いて絵文字入りでした。
所謂携帯依存の画像絵文字やAAが普通に使われていてあまりのカジュアルさ?にちょい驚いた。
へたせんでも、女同士より絵文字入り。
特徴としては、気軽に感情表現の絵文字を入れてる。表情、涙、汗、渦巻き、動物、土下座等。
多いと一文に一つ。「了解」系のアンサーだけにも入る。
業界的に砕けているからなのかもしれないが、
少なくとも自分より上の女性スタッフは総じて絵文字無しの事務的そっけなさ、
多少砕けることもあるが、所見で絵文字は無い。
自分が送るメールは絵文字無しで事務的なだけに(どうしても文にすると硬くなるヲタ喪女)、
そこまで感情を絵文字に変換して送れるとはすごいなと。
勿論返信内容はそこそこ立場を踏まえているものなので問題はないです。多分。
そのへんのヲサレな女子並に絵文字を駆使する男の方が、よっぽど可愛い女の子ですよ・・・。
性別交換しないかね?
http://anond.hatelabo.jp/20090303012051
好きでもない人にも体を許しているから信用されないというの?
いや、誰に対しても、相手の気持ちを考え、相手の気分がよくなるように行動しろって言ってるんだけど。
でも、私も「好きでもない人にも体を許しているから信用されない」と思うから、こっちの話題でもいいよ。
セックスというのは、元増田が考えるほど「軽いこと」じゃないんだよ。だって、子供が出来るからね。もちろん避妊する方法はたくさんあるけど、100パーセントの避妊ってのは手術して卵管塞ぐしかないんだけど、それはしたくないんでしょ? じゃあ「セックスする」=「子供が出来る可能性がある」ということなわけだ。
だから「子供? 子供が出来たら産めばいいじゃん。結婚しようよ」と言う男が現われるまで、男と寝ちゃいかんのだ。本来は。でも、人間の体は子供が出来る体になったら、子供を作りたがるように出来ている。それは自然の摂理だから、誰にも止めることは出来ない。責めることも出来ない。ただし、子供を育てるのは周囲の協力が必要な社会的な行為だから、社会的に未熟なうちに子供を産んで育てようとするとたくさんの困難を伴う。
「子供が出来ました。2人の男と避妊もせずにセックスしたから、父親が誰だかわかりません」
こんな社会性の低いこと言ったって、誰も子供を産むことに賛成してくれやしないよ。産んでからだって、子供をうまく社会に送り出せなくて苦労するに決まってるしね。
そして、そんなことも想像できない女と、家庭を持って、運命共同体になり、生涯を共に過ごす、なんてこと、やりたい男は、たぶん、見つからないよ。
セックスというのは、愛情の証としてするものだけども、必ずしも、ワギナにペニスをツッコムことを指さないというのは知ってるかな? とにかく入れたがるなんて、お子さまのセックス。まさしく「子供を作るための動物的行為」なんだ。だから、別に人間の女として魅力が無くても、ホモサピエンスのメスとして魅力があれば、オスはセックスしたがるよ。女として魅力があることと、セックスは必ずしも結びつかない。
人間の女としての魅力で作った相手でないかぎり、誰にも抱かれてはならない。
~動物臭ことってどんなこと? 他人を気にしないこと~
動物はそこらに糞尿を垂れる。なぜならば,「他人」という概念がないからだ。
当たり前のことを書くけど,「人間は何故服を着るの?」ということは大切に問題だ。
全裸であれば,他人に不快感を与える可能性があるからだ。肉体は,よほど清潔にしていなければ匂いもするし,不潔感もある。
現代のように毎日シャワーにあびれる環境ではなく,昔のようにこまめにフロに入れない時代であれば,皮膚病もあるし,とにかく清潔ではなく,相手に不快感を与える。それが「清潔にされた特別な美女」でない限り。
このため,人は衣類を着用する。
衣類を必要とする理由は,自分のためではなく他人のためだ。
あなただって,もしも無人島に一人しかいなくて,助けに来る気配もないとする。まわりには動物しかいない。気候が温暖であり,岩場やとげのある植物もないようなところだったら,それでも衣類を着るだろうか?
いま貴方はどんな部屋にすんでいる?
頻繁に友達や恋人が訪れる部屋ならば,掃除が行き届いてるいることだろう。部屋が不潔であることは,来客に対して失礼であるからだ。
しかし,誰もこなければ部屋は汚くなる。
他人という存在を知覚し,理解するからこそ,つまり「社会」という概念があるからこそ,言葉遣いも正確になって誤解のない表現をつかい,几帳面になり,物事にたいして正確になる。
他人を意識するからこそ,他人に共感するからこそ,他人の権利や心情を理解し,他人の権利を侵害しない。つまり,違法な行為をしない。
動物には「他の者」という概念がない。世界には自分一体だけだ。だから,誰にも関心を示さないし誰からも関心をもたれないと思っている。
従って,他人の権利という意識もないから,女が欲しいとおもったら犯すし,空腹になれば盗むし,感情的になれば殴るし,違法な行為をする。
能動的にしなくても,自分の義務を全うしない。法律に何がかいてあっても,「ただの紙」と思う。
人間であれば,常に他人の目を意識する。だから,感情的になるような不愉快なことがあっても,社会秩序と自分の権利義務の範囲で行動する。
動物と人間の違いは,「他人の目がある」という意識があるかないか,ということにある。
だから,私たちは,不潔な格好をしていたり,いつも「へらへら」とわらっている気色の悪い表情の者や,円滑に会話することすらできないほどの無知,その他の「反社会的行為」が起きる。
結論をいうと,人間は犯罪をしないし,動物は「躾」や「鎖」がない限り,必ず犯罪(違法行為)をする。
動物には意思がない。だから,いきなり性行為を強要したとしても,「嫌だ」という意思がないのだから強姦にならない。
従って,動物同士には,窃盗も強姦もない。「とられたら嫌だ」とか「おかされたら嫌だ」という意思がないからだ。
しかし,これを人間相手にしたとき深刻な被害が生じる。
他人の心(犯されたくない,殺されたくない,傷つけられたくない,盗まれたくない等)は,そもそもそこに心があるからこそ,「読みと力」が発達する。
相手の意思を確認する能力,それが共感能力であり,これは人間の前頭葉にあるミラーニューロンによって機能する。
言葉とは,相手の表情や筋肉の動きからではなく,より的確に「相手の心」を把握する手段だ。だから,人間だけが言語を発達させた。
「他人と連携するため」に。
だから,法律も守らないし,法律という意識がそもそも存在しない。他人の所有権という概念を理解できない。そして,たいてい,言葉がろくに話せない。
単語を発することが出来るが,オウムのように何かを模倣して繰り返すか,コピーのみできる。どれも「不適切」な用法で。
だから,人間社会は言葉を話せない者,聞けない者を人間として認めない。
(ただし,その人が幼児または動物にかこまれて半生を生きたため言語能力が発達していない場合除く)
動物世界では,反対に言語を自由にあやつる者を「動物として認めない」。
さて,以上までは社会科学の立場から論じた。
自然科学の立場から,「動物」を論じることが今,世界中で起きている。
事の発端は,「恐怖の大魔王」が世界を滅ぼすという予言のあった1999年,人類の起源そのものをかえてしまう発見がポルトガルであったことだ。
人間(サピエンス)と,旧人(ネアンデルタール)の混血化石が発見されたことだ。
2002年,米ワシントン大のアラン・テンプルトン博士が,人類の常染色体の10座標から,原人,旧人の血統を発見した。
2008年,この研究発表に対して様々な反論がくわえられたが,ついに断念,人類の「混血」が確定した事実となった。
混血の頻度は,西欧がもっとも低く,ついで東欧,中央アジア,東アジア,の順となっている。
ネアンデルタールは,人間に似た形をしているが人間ではない。共食いが大好きだし,空腹になればまず子どもや妊婦を殺して食べる。
感情的になればすぐ相手を殺すし,つまるところ他の動物となんら違いはない。
ボスの座をめぐって,殺し合いをするチンパンジーの習性と全く違わないし,子どもの脳(栄養価の高い)を食べて空腹を満たすチンパンジーの母親となんらかわることはない習性を持つ。
言語ははなせないが,石器などから人間の真似をすることはできる。勿論,劣化コピーとなる。
旧人はお互いに交流しないと連携しない。だから,交易はない。たいてい,近親相姦によって子孫を増やす。
遺伝的に等しいので,近親相姦をしても問題がないのだ。
進化の速度がはやい人類は,劣性遺伝があるので,近親相関は奇形児の生む確率が高い。しかし,旧人は進化の速度が遅くて均一しているので問題ない。
勿論,「旧人との混血なんて無いはずだ」と感情的にただ叫ぶ者もまだ世界には多い。
だが,考えてもみてほしい。
人間であるあなたは,「全て人間だ」つまり自分と同じだと思えるだろうか。「全て」に対して。
人間の「裸の理性」(思いつき)によって為されたことは失敗し,長い歴史と時間の積み重ねによって得た英知が,「偏見」にあると論じた。
確かに,一つや二つ異常をみたところで,人は先入観を抱かない。
歴史的に連続した「異常」によって,偏見が形成される。偏見は,すぐにはつくられない。
もちろん,偏見の中にも,時代の変化によって不適切なものが含まれてくる。その場合は,再び時間の経過によってその事象が偏見の中から削除される。
あなたは,今までの人生の中で,明らかに「人間ではない存在」を多く見たり,或いは新聞やニュースの伝聞で聞いているはずだ。
犬は犬に対して異常とはおもわない。しかし,人間が犬の行動をもし「人間がしていたら」と思うと,「異常だ」と思う。吠える,噛む,糞尿をたれる。
しかし,「あれは犬だから」と認識することで自然だと考える。だが,もし犬が形態的に人間とあまりかわらない形をしていて,かつコピーされうような人間の言葉をある程度再生できる能力を有した状態で,「犬の行動」をしたらどうなるか。
「異常」とあなたは感じるだろう。
なぜならば,人間の中には,吠えたり噛んだりする者はいないからだ。
参考までに,一つの「事実」を示そう。
「プレ・ネアンデルタール」というのがいる。これは人間とそっくりだ。何故ならば,人間から分離して別の進化(まはた退化と呼ぶべきか)を遂げてから間がないからだ。
そして,旧人には渡航能力がない。まだ島と大陸が同じだったとき,または氷河期に海面が凍結していたときに徒歩で移動した。
従って,原則,アフリカとユーラシア大陸にしか旧人はいなかった。
イギリスや日本にも徒歩で移動できるが,島であればそこにいるだけの旧人を殺してしまえば,後から「次は来ない」。
以前まではの内容は,いままで散々日記に書いてきた。過去4年間にわたって書いてきた。
ここからが,「旧人と接しつづけた人間は,どうなったか?」という新しい考察だ。
人間は猿から進化したといっても,その「進化した様子の化石」がいまだ発見されず,「失われた輪」であり,想像の産物に過ぎない。
一方で,神などの知的な存在が人間をデザインしたという説も,具体的な根拠がない。進化論もID論も物証がない。
「彼らが,次の旧人ではないか」と。
次の,というのは現時点で彼らの中にホモサピエンスがいることに違いはない。しかし,明らかに彼らは島嶼部の人類と形態的にも試行的にも異なる。
専門的なことをかくが,島嶼部の人類および「アダム」の時代とされる初期のホモサピエンスの頭示数は81以上-86未満であるのに対して,大陸の人類は頭示数が86以上であり,サピエンスと形態的に変化しているのだ。学術的には「過短頭」と呼ばれる。
もはや,目でみて「大陸の人間だ」とわかるようになるまで形態的な差が生じてきている。
ここで私は考えた。
もし,生まれたときから旧人と共に生活し,それが何世代にもわたってしまえばどうなるのか。
恐らく,心を持つこと自体不毛であり,精神的につかれてしまう。他人をおもいやる気持ちをもっていても相手は自分を尊重しない。
愛しても愛されない。守っても守られない。盗まなくても盗まれる。犯さなくても犯される。傷つけられなくても傷つけられる。殺さなくても殺される。
この時,「他人を思いやる気持ち」(共感能力)を持つ人間は,精神的に疲弊して,やがて死んでしまうのではないか。死ななくても,子孫をつくる気力さえなくなってしまうのではないか。
こうして,人類の中にも,旧人と共に暮らしてきた者は,「共感能力をなくす」つまり,退化するということで,旧人に対応したのではないか。
動物に対応する方法は二つあって,動物を殺して統制して飼い慣らすか,或いは自分自身も動物になってしまうことだ。
能力の高い人間は動物を統制して対応し,能力の低い人間は同化したのではないか。その際に,全てを捨ててしまったのではないか。
つまり「人間性」を。
朝鮮人,シナ人への偏見は,「非人間性」を持つ。それは今更説明しなくても報道をみればわかる。
彼には明らかに退化している。人間としての機能が退化している。「他人を思いやる心」が無い。共感能力が無い。法がない。
退化することで,自然淘汰を免れ,旧人と共に暮らす進化ベクトルをおせんだのではないか。
ここで一つの答えがある。
どうして,プレ・ネアンデルタールは人間から分離してしまったのか。後期型ネアンデルタールは明らかに人間と違う形態をしているが,初期型ネアンデルタール,つまりプレネアンデルタールは人間と極めて似通っている。まだ分離して間がないからだ。
このため,「進化している」と当初勘違いされた。実際,ネアンデルタールは80万年前に人類から分離して「退化」したのだ。
なぜ退化したのか。
そこには「原人」がいた。原人にふれた人間が,「他人を思う心」をなくすことで適応し,それが旧人へと「退化」したのではないか。
彼らは知能の問題から,人間と動物を見極める能力を有さない。だから信じては裏切られ,ということを繰り返し,そのうち考えることも信じることもやめて,機能そのものを遺伝から削除した。
退化した。
それが生きる術だった。
島嶼部の人間は,旧人を殺せば次はこないため,人間同士で生活し,人間特有の機能をそのまま進化させた。
協力すること,信じること,愛すること,理解すること,尊重すること。
アルフレッド・セイヤー・マハンによれば,シーパワーとランドパワーはあきらかに区分することが出来るとする。
それは地政学上の問題では論じることの出来ない,思想・思考の違いがある。
ホモサピエンス,つまりアダムの子孫が住む地域は,日本,イギリス,台湾,およびこれらのイギリス人の子孫が入植した地域に限られる。
自分が信じても相手は信じてくれない。自分が誠実にしても相手は適当。与えた分だけ相手に着服される。
そんなことを繰り返していては,自分が死ぬ。だから,死ぬ前に彼らを殺すか,或いは自分自身が「彼らと同じになる」しかない。選択肢は二つしかない。
私は,旧人を殺すことが正しいと思う。
それは私の生育環境に人間が多かったことが原因していると思う。
私のこの意思は,ここに矮小ながら発信している。
あにたは私の意思に共感するだろうか?
もし共感したならば,もっと私を知って欲しい。私の考えや発想を暗記するほどに知って欲しい。そして私の目的をより理解してほしい。
それがあなたの利益になるのだから。
一体だれが,愛のない世界,他人の協力のない世界に生きたいのだろうか?
「他人を信じ合い,協力すること」でビルがたつ。製品が出来る。
これを壊すことなく,維持発展させるには,旧人・原人を皆殺しにすることだ。
最近は「DISりたい奴の文章を勝手に増田に転載してブックマーカーに叩かせる」という手法がはやってるらしいので、某所で見かけた電波文を載せてみました。
http://anond.hatelabo.jp/20070502153650
そんときはカバさんいました!あそこは、カバさんと魚を一緒に飼っていて、
水族館みたいに、水中の魚と水上のカバさんを同時にみれるようになってるよ。萌え萌え!
じっと観察していて、気づいたら、周りが遠足の幼稚園児だらけになっていたりして!その子らも可愛かったよ!
超オススメなのが、ゾウさん!ゾウさんは2匹のメスがいるんだけど、そのうちの1匹が凄いよ!
名前は「ラニー博子」っていうんだ!シュール!ラニーちゃんの特徴は以下のように書かれています。
・耳の内側が垂れている。
・背中の中央がとんがっている。
・うんこをよく散らかす。
・夏場は水浴びが大好き。
うんこをよく散らかすって!散らかすって!散らかすって!
[これはululun]を書いた者ですが(騙りの可能性も考慮せよ)。
いろいろな反応があって面白い。考えをまとめるためにまとめる。あとid:pal-9999が補足記事書いてるようだ。
生物学的には、ヘテロであるid:pal-9999=セフレ関係持った人>>>>>>>>>>>>>>>>ゲイ・レズ=人食い人種
その公理だとレイプ魔最強。あるいは、いい歳した童貞処女は生きる価値のないクズ生物。
そもそも生物学的な優劣は問題にしてないので取り上げる意味もないのだが、思考の対象を明確にするためにもピックアップした。Googleでわざわざ「-送料」とか付けるようなものだろうか。
「それなんてエロゲ?」
自分の部屋に女性があがってきて友達だよね信じてるとか言われて泊まっていくというのは
なるほど。無理に挑発して悪かったと思ってます。ごめんなさい。気にしないでもらえると嬉しい。
O-Lab +Ossan Laboratory+ - はてな匿名ダイアリーで他人をdisるのは正直どうなんかね。
卑怯さ加減が正直どうなんだろうと。
それを卑怯というなら、ウェブ上に限らず芸名や実名で活動してる個人や、名前のついた団体相手に、実名出さずにネット上で批判するのも卑怯という論法になる。オフラインの個人いわく「(ネット上の)あいつらは、使い捨て可能な名前があるだけで、顔も名前も経歴も曝してる我々と互角のつもりで居やがる」。
匿名論争に関してはこういう考えなので、はてなIDでしかidentifiedされてない人間が、はてなIDすら出さない人間を卑怯だというのは目くそ鼻くそかと。
はてな使ってるってことは、
はてダも使えるんだろうと思うんだがねぇ。
それくらいは好きにさせてくれ。あと言及するときはトラックバックしてくれるといいと思うんだがねぇ。
2007年01月18日 cubed-l セキュリティ 危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも/色恋沙汰の面倒さも含めれば1対1は避ける方が楽と思う
ああ、1対1に思考が縛られすぎてた。なるほど。「危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも」というのも同意だが、主に機会損失のほうを考えてるので。
2007年01月18日 betelgeuse 危機管理, 男と女 「私の知人であり友人であるその男は、私を絶対に押し倒さず、無力な状態でも性的なイタズラ行動はしない」と断言できるのなら、それはそれでいいんじゃないの。そう断言できる材料がどこにあるのかは知らない。
なんで1と0で考えるのかわからない。相手、状況、関係、気分などによっていくらでも判断は変わる。どっちかひとつ選んだら恒久的にそれしか選ばせないのはなぜ?
2007年01月18日 Lhankor_Mhy 恋愛, 考え中 なんつーか、揚げ足取りに見える。言葉の端を捉えすぎてるのか?まあ、id:pal-9999が高く足を挙げすぎたのかもしれんが。
揚げ足取りに見えるのは、小刻みに引用し小刻みに反論してるからじゃないかな。あと茶化してるところとか。どう見えるかは知らないけど、それなりの主張はしたつもりですよ。
2007年01月18日 Masao_hate 男と女 何コレ?あなたのユートピア的妄想を押し付けないでくれる?あなたの性別はなにか知らんけど(文体から想像するに女性だけど)、これは酷い男性差別ですね。
その発言をid:pal-9999へリダイレクトしたい。
というかid:pal-9999へならまだしも、当該記事が男性差別といわれる意味がわからない。「男性を誤解してる」ならまだわかるんだけどそうでもないし。
2007年01月18日 Marco11 うるるんとは別種だろ。チンコ頭はガキなだけだろ。ガキなだけじゃなかったら友達と一緒に潰しに行くよ。ガキなだけだろ?
[これはひどい]がもっともよく似合うものなんだろう、と考えたときid:ululunが浮かんだだけで他意はないです。
2007年01月18日 isnotit あ??あ!palさんあんなエントリー書くからバカフェミとゲイにたかられる(はてな的)仕事以外でゲイと二人っきりは勘弁。自意識過剰でなくてマナー。レイプするゲイもいるだろうしな(こう書くとまたバカが騒ぐかなw
あまりにも中身のない独り言なのでどうしようか迷ったけど挙げておく。自意識過剰でなくてマナーで。
えー、バカフェミとわざわざ接頭辞バカを付けてるとこ見ると、まともに話ができない人なのは一目瞭然なので要点だけ抽出するとたぶんこう。「id:pal-9999さんの発言はそれほど異端でもないが馬鹿を寄せ付ける何らかの魅力は具えている」あるいは「id:pal-9999さんの発言に反駁する輩はバカフェミかゲイだろう。そうでない普通の人なら自然と納得する。誰だって納得する。俺もそうする」といったところか。目の前に具体的な事象があってもわざわざその大枠を考えないと何も言えない人なんだろうか。安全側の人というか。
これを読み解くには暗黙の文脈が必要だと思ったのでid:isnotitの過去のブックマーク見たら、どうやらレッテル遊びが好きなだけの人畜無害な妖精さんっぽい。ネット右翼でもid:dasmでもなんでもいいけど。なんだ。
さて、冒頭にも書いたid:pal-9999の補足記事について。
立件される強姦では、通り魔的な犯罪(引用者注:被害者の知人ではない男性による犯罪)が多いのだが、それでも、日本全体では、年に1400件程度起こっているにすぎない。
これは法的に強姦と認められた件数。ただ、何年度のデータかはわからない。それほど古いデータではないだろうと思う。
福島氏は、山岡一信氏の「犯罪行動形態IV-性犯罪」(1965.1966)のデータから、性犯罪の被害者の三分の二が未成年者である事と小西調査のデータ、性被害者の年齢分布を考え合わせて、日本の女性が生涯で強姦の被害にあう確率を2.5%と算出している。
40年前は「性犯罪の被害者の三分の二が未成年者」だったのかもしれないが、じゃあ今はどうなんだろうと疑問に思った。40年前なら、田舎だとまだ夜這いも残ってただろうし(要確認)。
山岡一信のデータと小西調査のデータがよく相関してるので、そこから現代の値を推測しているようだが、詳細不明なので2.5%の妥当性は判断できない。
こうした数値から考えた場合、デートレイプを含めた場合には、日本で、強姦被害にあっている女性は、年に2万人程度となるわけである。
犯罪白書では、年に2000件しか強姦が起こってないとするが、レイプの定義を広げた場合に(デートレイプなどに含まれる「女性との合意のない不快なセックス」という所まで、強姦の定義を広げた場合に)は、年に2万件の強姦が起こっているになるため、日本の女性は、実際に考えられているほどには安全ではないのである。
なんで2万人なんて数字が出てきたのかわからない。
「強姦未遂」に関しては、おそらく年20万件程度発生しているのではないかという現状を考えれば
だんだん数字の信憑性が低くなってきた。まあ、数値は枕なのでこれくらいで。
僕以外の日本男性の名誉のために言っておくと、昨今の日本男性というのは、ものすごくおとなしくて、非攻撃的なのが現状だ。
犯罪発生率、強姦件数ともに、諸外国に比べて、極めて低く、女性にとっては、日本男性というのは非常に、安全だといえる部類である。
ただし、それでも、上記の小西調査の調査結果は、女性が未だに性被害の危険性に、かなりの割合でさらされていることを意味している。生涯でレイプされる確率2.5%という数値は、かなり危険な数値と言わざるをえない。
2.5%かどうかはともかく、絶対安全とは言えないのは同意。
これらのデータと合わせて、自分の経験かも言わせてもらうが、女性が見知らぬ人にレイプされたという事は、自分の周りではほとんどない。
ただ、いわゆる「デートレイプ」であったり、「親しい友人だと思って安心して家にあげたらヤられちゃいました/ヤられそうになった」なんて話は、それなりに聞く。珍しい話というわけではない。
この、感覚というか、周囲から聞こえる話もだいたい同じ。
高校生のとき「このまえ好きでもない男とやったよ。すげえ気持ち悪かった」とか「自動車教習所でナンパ?されて、最初はごはんだけって言ってたのに、ドライブして夜景見に行こうって言われて、危うくレイプされかけた」とかも聞いた。
それでも、
男性に友情を求める女性にとっては、日本男性というのは、諸外国の男性に比べれば、ずっと、やりやすいとは、言えるだろう。
ただ、現状、まだ、性被害の件数を考えれば、まだ、そういうのは早いと僕は考えているのである。
とは思わない。無条件にそうするのは、たしかに危険だ。それでも、本人が承知した上で、そういう行動を取るのは勝手にすればいいだろう。
「あの人はたしかに男だけど、あの人だけは例外だから」なんて無垢なあるいは考えなしの考えを述べるなら、先述の本でも見せて、正しい知識を与えればいい。同様の理由で、「男は絶対危険だ!」なんて説くのなら、やっぱり、絶対と言い切ってしまうには抵抗があるので、否定したくなる。
「私はあの人を友達だと思ってる」なんて言うなら、そして、にも拘わらず相手からコクられたりレイプされかけたりしたんなら、友達だと思ってたのはその子だけだった、という話に過ぎない。小学校では友達だったのに、中学に上がったとたん僕をいじめ始めた、なんていう話と構造的には大差ないように思う。小学校での友達なんて信用するな、と小学生に対して言えるだろうか。人間関係なんだから、常にある程度のリスクは負わなきゃならないと思う。あとは許容できるのはどれくらいか、という閾値の話だろうか。
最後に。
そのリスクとベネフィットの計算は、たぶん、誰もが自分基準で考えるんだと思う。性欲強い人は「女相手に友情なんて無理」と考えるだろうし、バイセクシャルなら「性欲があろうがなかろうが友情は可能だよ」と考えるだろう(そうでも考えないと原理的に友達できないんじゃないだろうか)。女は男に比べて異性に欲情することが少ないので「男女の友情もあるだろう」と漠然と考え、男性恐怖の気がある女は「男には近寄りたくもない」と考える。
対象を男に限っても、「自分の性欲をコントロールできない」とまで考えてる人も居れば、きちんと抑制できると思う人も居て、そもそも女に性的興味を持たないゲイも居る。じゃあ、男女間の友情というのも、マッチング次第で充分発生しうるんじゃないだろうか。
残された問題は、女から見て、その男は、男女(というか自分と相手)間の友情を成立させうるのかどうか、どれくらい危険か、それらをどうやって判断するかか。これは暇なときにでも考えよう。
これが今回の自分なりの結論。自分はまったくそう思っていないのに、性欲強い人が声高に「男女の友情なんて無理」なんて言うもんだから反発したのかなと自己分析。ということはつまり「男女の友情なんて不可能」派の人は、基本的になんと言われようとid:pal-9999のほうを信用してしまうんだろう。
男女はともかく、私とid:pal-9999とのあいだに友情は成立しうるんだろうか。