はてなキーワード: 死にたいとは
周りに迷惑がかかる・・・くらいに周囲が見えるようになるなら上出来。治療方針次第では寛解は目指せるだろ。そういう希望を持てない病気なのはわかるが。
とはどういうものか、人によって違うものなのかもしれないが、自分にとっては人生そのものが生き地獄と言えるかもしれない。
信頼関係が結べない世の中に居続けるしかなくて、食べるために労働を続けなければならないこと自体、地獄だと思う。
いいことがあったとしても長く続かない。一寸先は闇だ。心配事は尽きない。
目標に向かって努力をしている最中、自分のやったこととは関係ないことが原因であっという間に闇に突き落とされることが何度かあった。そういうことがあるともう、世の中は信じられない。どうせまた裏切られると思うようになる。
目の前の楽しみを我慢して明日のために頑張るなんて無駄だ。今を楽しむしかない。明日なんてどうなるかわかったもんじゃないからな。
こういう、未来への不安、世の中との信頼関係の欠如、何もかもが予測不可能で毎日ジェットコースターに乗せられてるような気分の状態が生き地獄じゃなくてなんなんだ。心理的安全性もくそもない。
毎日真っ暗、光が見えた気がしてもそれはすぐに幻とわかる。その繰り返し。
仕事辞めて、今ある金を全部使い果たしたら死のうかな。最後はどこか知らないところ、ずっと行きたかった美しいところに行って一人で死にたい。
少し前にバズってたセクシャリティの話かと思いきや理想のかれぴエンドだった某ツイートを見て思った
自分って一体何者なんだろうか?という疑問
【性別について】
自分の性別に疑問を感じたことはないが、付随する生殖のための機能については不要だと思っている
【性的指向について】
【性欲について】
キスまでならまあなんとか
が、唐突に性的なコンテンツ(AV、エロ漫画)を見たくなることがある
【子どもについて】
欲しいと思ったことはない
以前、知人が「いのちの電話」の相談員をやっていて、内部事情を多少聞く機会があった。「いのちの電話」の相談員が無償どころか持ち出しのボランティアで、それが可能な主婦とか年金生活者とかが多数を占めるというのはその通り。それゆえに相談員側に世間知らず的な傾向があり、来談者との感覚のずれが生じやすいというのもそうだろうと思う。その知人も私から見てそういうところはあり、真面目で善意の人ではあるのだが、そのずれによって無自覚に相手を刺激していた可能性はある。
しかし補足しておくと、「いのちの電話」の研修は臨床心理学のプロが基本的なカウンセリング技術をかなりみっちり教えていていて、真面目にそれを守っている限りさほど無茶な対応をする相談員にはならないように思えた。「一方的に説教」というようなのは当然やってはいけないこととして教えられている。知人は慣れないうちはとにかく相槌だけ打って聴き続けろと教えられたそうだ。「○○なんです」と言われれば、「○○なんですね」と返すようなのが基本。自分の意見を押しつけるような応答は禁じられている。とはいえ、相談員も慣れてくると自我が出てきたり、後に書くような来談者側の問題もあって、相手に圧力を感じさせるような応答をする場合もあるだろう。
医師やカウンセラーでもそうだが、こういう人間がやることにはどうしても当たり外れや相性の問題がある。「いのちの電話」のボランティアが無償であるべきかにはいろいろ意見があるだろうが、有償にすることで相談員の質及び来談者の満足度が飛躍的に上がるかは個人的には疑問である。有償で高度な資格を持つはずの医師や臨床心理士にも「ひどい対応をされた」という不満の声はよく聞くからだ。
で、ここからが本題なのだが、「いのちの電話」と聞いて相談員は自殺相談の深刻な電話ばかり受けていると思うのはどうも違うらしいよ、ということ。「いのちの電話」の回線がいつもつながらないというのも、自殺相談で埋まっているわけでは全くないらしい。
では何が多いかというと、知人が言っていたのは、女性の声と聞くと「テレフォンセックス」を始めたがる常連。最初は一応「死にたいんです」などと言ったりするらしいが、間もなく「ところでどんな下着を着ていらっしゃいますか」「パンツは何色でしょうか」などと言いだす。この手の電話は非常に多いそうで、相談員側にもマニュアル的なものがあってなるべく早く切り上げるよう誘導するのだが、相談員の側からガチャ切りするわけにもいかないのでしばらくは付き合わざるを得ないようだ。
女性とみると性的な話を始める常連来談者というのは「いのちの電話」に限らずよくいるらしい。別の電話相談を受けていた別の知人も「あー、いるいる」と言っていた。企業のコールセンターで働いていたりしても経験するのだろう。ちなみにそういう常連は男性の声と判断すると一瞬で切ることが多いが、そもそも電話相談員やコールセンター係に女性が多いので、何度かかけ直せばすぐ女性が出てしまう。
知人が頻繁に相談員をしていた頃はダイヤルQ2というものが流行っていたのだが、その頃の常連の一人はダイヤルQ2でいつも生活費を使い果たしてしまうので、家族から「いのちの電話ならタダだからそっちにかけろ」(!)と言い含められていたそうだ。「いのちの電話」は確かに無料で、通常の電話料金すらいらない。
こういう事例は生活困窮者を「いのちの電話」が間接的に救っていると言えなくもないのだが、外部の人がイメージする「自殺防止のボランティア」とは少し違うのではないだろうか。相談員には守秘義務があるので具体的な相談内容はほとんど聞いたことがないが、典型的ないかにも自殺相談というようなものは頻度としてはかなり低いとのことだった。しかし、一見ただの愚痴であったり、さらにはセクハラであったりするような内容の電話でも、「いのちの電話」に吐き出すことでバランスを保っている人が一定数いるのであれば、それは「いのちの電話」の目的に適っているようにも思う。
「いのちの電話」の相談員はさぞメンタルをやられるだろうと言う時、今にも死にそうな人からの自殺相談を想像している人が多いだろう。しかし実際の現場はそのイメージとはかなり違って、メンタルをやられるとすれば常連のしつこいセクハラやひたすら堂々巡りする愚痴に付き合い続ける消耗が大きいかもしれない、というのが知人から断片的に事情を聞いての感想だった。
死にたいと思ってるときは、病気の可能性があるから精神科行くといいよ。もう言ってたらごめん。
周りと比較してるか恋愛か何かに劣等感があるかとにかくどうにもならない事があるか、カウンセラーとか秘密の漏れない相手に一回話してみてもいいと思う
自殺を企ててたけど失敗して、死んでもいいなーどうせ死にたいしなーと思いながら逆に大胆に行動してたら紆余曲折あって今はそれなりに金持ちになった。死にたいのは金がないからだってはっきりわかったよ、金持ちだったら誰からも何も言われないからね
日本の人は他人の人生に口出しすぎなんだよね。他人のプライベートにアレコレ言って詮索してジャッジしすぎ。他人の人生はその人だけのものでジャッジの対象じゃないのに。周りと比べたり劣等感があるなら海外に行くのもオススメ。日本にいたら経済状況が今後どんどん悪くなるしね。
物心ついた時から、いや、思春期くらいからうっすら希死念慮を抱いている。
それは三十代も真ん中になった今でも変わらずで、ちょっとした心身の不調の時に姿を表す。
いや、心身に不調がない時でもうっすら希死念慮が消えないでいる。
嬉しいことやいい事があった時も、家族と上手くいってる時も、ペットが可愛い時でも、うっすら死にたいのだ。
私ももう少女ではないのでそういう感情の御し方は分かっているはずなんだが、それでも本当に死んでもいいなぁと思うことがあって。
死んでもいいけど、死ぬのは怖いなとか、死んだ後の世界が見れないのは嫌だな、家族やペットの事が気になるな、とかで積極的に死のうとはしない。
いや、嘘だ。
それなりに死へのアプローチ(実行)はしていた。
そして、今も消えない希死念慮を抱いて持て余して辛くて消えてしまいたいな、でも死ぬのは怖いなと考えているのである。
でも、皆そういうものなんだろうね。辛いのが私だけということは絶対にない。
生きてるだけで丸儲けらしいから。
三浦春馬が亡くなった時、
ちょうど前日に顧客と揉めたりして、
朝から漠然と、死にたいな、いや踏み留まりたいな、がんばろう、でもな、あかんかもな
って思いながら過ごしていて。
何故だか一気に、我に帰って。
死んだらあかん、それで終わりや。生きよう、
という方向に気持ちが戻った。
その日はしこたま肉を焼いて食べて、なんだかすっかり元気になった。
それから2年。
その後もその時の案件は変わらずしんどかったし
後輩のありえないやらかしのフォローに追われたり、色々あったけど、死にたいとは思わなかった。
でもなんなんやろうな、今。
上島竜兵氏の死に関しては、三浦春馬氏のときに感じたのとは真逆の気持ちが沸々と湧いていて
それと闘っている自分がいる。
昨夜、遺書を書いていた。
本気で死ぬための遺書じゃない。遺書を書いてみるとすっきりして生きられるというのを期待して書いていたのだ。
遺書を書いてみるといろいろなことを考える。
思えば物心ついたころからずっと死にたいと思って生きてきた気がする。
あの頃はなぜ死にたいのかが明確で、そう思わせるものからは逃げるようにして生きてきた。
私はお金に困っているわけじゃない。結婚し子どももいて、家族関係は良好だと思う。少ないが友達もいるし、趣味だって多趣味な方だ。
そうしたものを手に入れてきて、自分が不幸だと思っているわけじゃない。
もうどうしたらいいのか分からない。
助けてください、助けてください。
そう思った。
そうだ、私は生きていたいのだ。生きるための遺書を書いたのも、生きていたいからだ。
生きているうちに神様のところに行くには、宗教を信じるしかない。
私は宗教に頼って生きていくのはある種の思考停止だと考えていた。でも、分かった。思考停止でいいのだ。
宗教は、自分の考えで生きようとすると生きていられない人のためにあるのだ。
だから、自分で考えるのをやめて、心を神様にささげて、その代わりに生きていけるようになるのだと思う。
遺書を書きながらそこまで気づいて、近場にある教会の宗派を調べて昨夜はパソコンを閉じた。
でも、本当は生きていたいってことが分かっただけでも、遺書を書いてみてよかったと思う。