2022-05-12

生きるための遺書

昨夜、遺書を書いていた。

本気で死ぬための遺書じゃない。遺書を書いてみるとすっきりして生きられるというのを期待して書いていたのだ。

遺書を書いてみるといろいろなことを考える。

なぜ死にたいのか、それがわからない。

思えば物心いたこからずっと死にたいと思って生きてきた気がする。

あの頃はなぜ死にたいのかが明確で、そう思わせるものからは逃げるようにして生きてきた。

そうして生きてきて、いくらか積み上げたものもある。

私はお金に困っているわけじゃない。結婚子どももいて、家族関係は良好だと思う。少ないが友達もいるし、趣味だって趣味な方だ。

そうしたものを手に入れてきて、自分が不幸だと思っているわけじゃない。

しかしそれでも死にたいと考えてしまう。

まるで底が抜けたバケツ幸せを詰めているみたいだ。

もうどうしたらいいのか分からない。

きっともう神様のところに行くしかない。

助けてください、助けてください。

そう思った。

そうだ、私は生きていたいのだ。生きるための遺書を書いたのも、生きていたいからだ。

生きているうちに神様のところに行くには、宗教を信じるしかない。

私は宗教に頼って生きていくのはある種の思考停止だと考えていた。でも、分かった。思考停止でいいのだ。

宗教は、自分の考えで生きようとすると生きていられない人のためにあるのだ。

から自分で考えるのをやめて、心を神様にささげて、その代わりに生きていけるようになるのだと思う。

遺書を書きながらそこまで気づいて、近場にある教会宗派を調べて昨夜はパソコンを閉じた。

実際に教会に行くかどうかはわからない。

でも、本当は生きていたいってことが分かっただけでも、遺書を書いてみてよかったと思う。

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