はてなキーワード: 感情移入とは
今の苦痛が、これからもずっと続くと思うから病むわけで、今この一瞬のことだけ考えればいい。
ずっと苦痛が続くなんて考えると、風俗嬢どころか、工員だってできないと思う。
毎日ネジを締める日々が続いて私の人生になんの価値があるんだろう?とか
毎日牛や豚を殺して解体する人生になんの価値があるんだろう?とか
毎日酔っぱらいの相手
etc...
極論を言えば、一回のプレイをそれほど苦がなく我慢できること、感情移入しないこと、過去や未来をうじうじ考えないこと、それが出来ればやれると思う。
今のこと以外を考える事、過去を悔いたり未来の心配をしたり、考えても答えの出ないことを考えたり、それを仏教用語では『妄想』というのだそうです。
ミヒャエル・エンデも『モモ』でベッポじいさんに言わせています。
とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。
おそっろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。
・・・
つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、
つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。
いつもただつぎのことだけをな。
するとたのしくなってくる。
そうはいっても、年齢と共に稼げなくなってくる職業であることは『妄想』でなく『事実』なので、ちゃんとプランニングはありますけども。
このエントリーは三つに分けて考える必要がある
特にアニメが好きでもなく、知識があるわけでもないのに
畑違いの自身の知識だけで中身がないと断じてしまうのは、あまりにも幼稚だ
自分はお涙ちょうだいのドラマや惚れた腫れたの話が好きではないが
そうした話に感動する人もいる、場合によっては人生観が変わる人もいる
それを否定しないし、尊重する
自分が気にもとめない作品でも影で制作者の血のにじむような頑張りもあっただろう
あの作品は中身がない薄っぺらだ、あんな作品で感動する奴はたかが知れていると言ったらどうだろうか
さらに言えば
まどマギのようなオタク向けの作品以外でこうした論評を下しただろうか
このエントリーからはオタクに対して潜在的に見下しているものを感じる
最後に三つ目この人自身に対してだ
登場人物に感情移入できず、ストーリーもご都合主義のてんこもりで
うすっぺらに感じただけだった
それとも自分の感度が低すぎるのかなと書いてあるが
追記で謝罪するぐらいだから
お前の感度はクソ低いよバーカ
まどか☆マギカが名作かと問われたら疑問符を付けるが、一点だけ。
あの作品で、ほむらの思い入れが理解できない奴は、他の登場人物にしてみたところで、これっぽっちも判ってないんじゃないかと思われ。
そういう奴って、あの作品みて面白いのかね?
単純にあの手の作品が好きになれないんで、名作とは思わないが、テーマの少なくとも一つは「孤独」っぽかったがなぁ・・・
だから登場人物のうち女を全部男に代えても、あの話は成り立つし、感情移入もできる。
だが、男女を代えたらストーリー構成が変わるものは、それはストーリー構成が変わっているのであって、男女が入れ替わったからそうなったんではない。
「空手小公子 小日向海流」というヤンマガで連載している漫画がある。俺はヤンマガで真っ先にこの漫画を読む。とにかく月曜日が待ち遠してく仕方ない。
この漫画が始まった頃は「はじめの一歩」と似た構図な気がしてちょっとしたらすぐ終わるのかなーと思っていたが、意外と続く。というかこの漫画、今は最高におもしろい。
なぜかを考えてみると、やはりある一人のキャラが最高に味があって憎めないキャラだからと思う。
そのキャラは南広樹。主人公、小日向の先輩に当たるキャラだ。物語序盤は一種のお笑い担当的なポジションかと思いきや、回が進むにつれて段々とマジな試合をする機会も多くなり、今では欠かせないキャラだと思う。
多分、作者もこのキャラが最高に好きに違いない。
このキャラは先にも書いたように物語序盤はマジでギャグ担当だった。外国人格闘家のジェラール・ベルトランという選手と戦うことになったとき。相手はプロのトップファイターで(リアルの世界で言えばK-1で活躍するような選手)南が絶対に勝てるワケない相手。しかし南はトランス状態に陥るキノコを食べて試合に臨んでおり、その影響もあって実力以上の動きを見せて、ベルトラン戦を勝利で飾った。
試合展開はホントギャグ要素が多かったが、ハラハラドキドキさせる試合展開がこのころからあった。
このキャラは試合に勝てるかどうか分からない部分が非常に多いので、読んでいて「次、どうなるのか!?」という気分にさせてくれる。主人公の小日向や、最強キャラの武藤や濱田なんかは、ある程度試合の展開が読めてしまう。しかしこの南は先の展開が読めない。天才型の選手ではなく、じっくりと練習を重ね、相手を研究し尽くし、万全の状態で試合に挑む。このあたりが何か人間臭くて非常に感情移入できる。
そして南はそれだけの選手ではなく、潜在能力も高い。南のディフェンステクニックは所属する流派の中でも随一で、一目置かれている。また鏑木重蔵によって、相手に対して絶対の覚悟で試合に挑む精神も身につけた。
回が進む毎に、確実に南の試合部分が長くなっているので、もしかしてコレはいずれ南が主人公になるんじゃないかな等と思っている。
2年以上前に考えていて、まぁ自分なりには納得して終わったことになっていことなのだが、
はてな匿名ダイアリーの書き方をやっとわかったので、もしかしたら有用な考えかもしれないと思うので公開するだけ公開してみる。
以下には私が考える「ゲーム」と言うものに関して、面白さの分析をするための枠組みを整理した。
ただ、これらを満たしていないからダメだと言うものではなく、期待したものとその「ゲーム」が提供するものが
どの程度フィットしているか?と言う視点で分析すべきだと考える。
現在、様々な形式のゲームが存在し、多種多様な楽しみを提供するに至っている。
近年のゲームは洗練され、プレイヤーの参加意欲(モチベーション)を維持するために様々な工夫が施されている。本塙ではゲームの面白さについて議論する枠組みを提供するため、「ゲーム」および「ゲームにおける楽しみの分類」を以下のように設定する。
ひとり以上のプレイヤーが明示的もしくは暗黙的に定められたルールのもとで主体的に活動を行い、各々にとっての最適解に至るプロセスを専ら楽しむ枠組み
使いやすいようにゲームが提供する楽しみの分類6つについて名前を付けておく。なお、これらの用語はすべて私の造語である。
ゲームが提供する楽しみは以下の分類のどれかに大別できると考える。
ゲームにおいて、より最適な解を導くことに直結するゲームのルールのより深い理解や法則の発見や学習による自己成長などの楽しみ
ゲームにおいて、最適解を求めるに当たり、より有利な状況を得る楽しみ
ゲームにおいて、他のプレイヤもしくはその代替との間における駆け引きや協力、また単純な情報のやりとりなど、様々な形での対話による楽しみ
ゲームにおいて、ゲーム内での活動によって発生する反応の刺激によって感じられる楽しみ
ゲームにおいて、物質的もしくはデータとしての報酬によって得られる楽しみ
なお、上記の楽しみを阻害する要因を極力排除されていることが望ましいが、難易度とのバランスは適切に設定されるべきである。
また、これらはプレイヤーが何を最適解と捉えるかにより、多少の判断の違いは許容されるべきであると考える。
(一般的には「インタレスト」を「ゲーム性」ととらえていることが多いと思うが、そこにこだわらない等)
もし論議をする場合、最適解をどう捉えるかの前提を確認することを強く推奨する。
自分がゲームを選ぶ時にもこの分析を適用し、自分がどのような要素を期待しているのか、どのような要素は受け入れる準備があるのかを把握し、
選択しようとしているゲームはどのような要素が期待できるか考えて判断の基準に使うとよいだろう。
もし、批判する場合、当初の想定した要素と実際にはどのような要素が強かったかを整理すれば、より建設的な批判になると考える。
あまりにも投げっぱなしな気がしたので、適用の仕方について、ちょっと追記。
たとえば、「将棋」のようなゲームでは「インタレスト」が支配的で補足的に「サクセス」があるイメージ。
一般的な「ギャルゲー」は「エンタテインメント」や「コミュニケート」が支配的だが、メタ視点のプレイヤがシナリオを深く理解することにより、
行動を変化させ、それが最適解につながるような構造を持っている場合「インタレスト」性があると考えても良いだろう。
「ひぐらしのなく頃に」と言った特殊なものは、本編をプレイ後、ネット等を通じて他者と意見交換すると言う現実世界での枠組みまで拡張して
ゲームととらえることにより「エンタテインメント」だけでなく「コミュニケート」を持ったゲームとして解釈できる。
結果がでてから努力って始めて認められるものなんだなぁ。とは感じているんだ。
だけど、どうしても頭の中にこびりついてんだ。
スポーツ漫画を読むと、主人公の努力がクローズアップされるんだけどさ。
あれに出てくる強敵だとかさ。あいつらだって、努力してるんだよなぁ。とか考えるんだ。
だけど、負けるんだよな。脇役になるんだよなぁ。
見ていて辛くなるんだ。地方第一回戦の相手とかさ。あいつらの方に感情移入しちまうよ。
金メダル候補だとか、散々騒ぎ立てておいて一回戦負けしたら非難の嵐だ。
結局のところ、結果があってから努力ってもんは認められてんだ。
過程もそれなりに重要なのかもしれないけど、結局はその過程だって結果と結びついているから大事なのは結果なんですよね?
努力が足りない?睡眠時間減らせ?娯楽を減らせ?なまけていたという過去へ飛べと?僕、超能力者じゃないんで。
どんなにがんばったとしても、努力が足りないって言っている人が感じている『無駄な時間』ってのはあるんだろうね。
背の高い女の子っていう設定では、クラスで背の順で並んだときに一番後ろになるか、それより少し高いくらいが必要十分条件。
他の人も書いてるけど、日本人の平均身長は、女性は160なくて、男性が170ちょっと。
女にとっての170オーバーっていうのは、男にとっての180~190だからね。
「身長はある程度欲しいけど、あそこまでいくとちょっと引くかも」くらいの。
背が高い女っていうとバレーやバスケのスポーツ選手とかモデルなんてものが男よりも連想されやすいから、颯爽としてるイメージを持たれやすくてプレッシャーになったり、体つきのバランスが変になりやすいから気になったり(実際にアニメの頭身やスタイルの人間がいたらキモいとかに近い?)、背が高いから短いスカート履けないとかそもそも似合わないとかもうパンツスタイルが楽だしいいかとか、背は高くても顔は大した事ないからロクなあだ名つけられないとか、色々ある。
顔さえある程度よければモデル扱いされるしモテもするんだろうけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20101227150908
読んでいて、絵が浮かぶ。でも、感情移入はいまいち。なんで? と考えてみたら「視点」という考えに行き着いた。小説に出てくるシーンを「どこから」見ているのかわからない。ふと「テレビの画面を見ている」と思ってみたら、確かにそう。と、納得した。テレビドラマは腐るほど見てる。ちょっとした手がかりから、どんなシーンなのかを想像するのはたやすい。登場人物の心情や身体機能内部に入ったところは「ナレーションが流れている」と思えばいい。
ちょっと前までは、こんな作品、1次通るのがやっとだったはず。でも、話の内容はスピーディーで面白いし、書き方の欠点を……というところまで考えて、いや、待てよ。「視点を登場人物に固定しろ」なんて誰が決めた? 画面を外から見ている視聴者の視点で、どこに不都合がある? 要は、読んでいて想像しやすければいい。
http://anond.hatelabo.jp/20101127215622
あてはまるのは6しかないアニメに興味のない人間だがイカ娘は大好きだ。
「けいおん」が嫌いすぎて夜も眠れないのだが最初に断っておくと「けいおん」のアニメはまったく見ていないし、原作も一巻を読んだだけなので、
以下は同じように「けいおん」もしくは萌えアニメの嫌いな人間が読んでちょっと溜飲を下げるぐらいしか価値のないゴミだということ言っておく。
「けいおん」の何が嫌いかと言って例えるなら町内の運動会をNikeが全面的にバックアップして、足型からあつらえたシューズやミリグラム単位で
軽量化したウエアを提供したということ。
そして選手たちのムカデ競争や玉入れなどを見ながら用具の効果や製品を使用している一流選手との関連性などを真剣に語っている人たちが気持ち悪い。
オリンピックやワールドカップでなくてもそれをやるのはせめて高校野球くらいからでしょ。
むしろ「(^ω^)ペロペロ」と萌えで片付けている人達のほうによっぽど好感が持てる。
原作を読んでまず思ったのは「この作品は共学の高校が舞台だったっけ」ということだった。
アニメ化にあたって女子高と特定されたようだが、すくなくとも読んだ範囲では作者は意図的にどちらか特定できない状態で作品を進めていたようだ。
つまり男子生徒や男教師が出てくる気配は微塵もないとしても主人公達のすぐ近くに男性の読者の視点が存在している可能性がありえということなのだ。
そして一巻の終わりの方で文化祭での初ライブの話があるのだが、この場面は舞台が共学か女子高かでは随分印象は違う。
共学であれば舞台でパンツ丸出しになった澪の気持ちに充分感情移入できる。しかしこれが女子高で同性だけに見られたのならショックは半分以下。
仮に父兄や他校の男子の前だとしても、日常で顔を付き合わせる異性でないと割り切りもできるだろうし、少なくとも同じ学校の男子生徒に見られた時の
ダメージには遠く及ばない。
アニメ化にあたって作品の一つの側面の可能性をばっさり切り捨てた制作会社が空気感を大切にしていますというのは多分悪い冗談なのだろう。
だいたいパンツ丸出しってなんだよ。漫画のその場面では構図になんの説得力もないし。
第一、初めてのライブで演奏の出来不出来や他人からの評価に落ち込まないでいられるってどんな天才たちですか。
逆にそこで落ち込んだり反省したりすることを描写をすれば、次のライブに向けて努力しようという流れになり、それは作品の世界とはそぐわないため
握りつぶすためのパンツでしょうか?。
とりあえず不愉快な気分にならないゆるい女子高生の世界としてはそれで十分だが、少なくとも限られた人間関係や事件や軽音部が舞台であるという
アニメ化によってそれらは解消したんでしょうか?。
でも、最初に戻るけど、例えそれらを解消して登場人物の行動に十分動機を持たせ、物語として隅々までつじつまを合わせ、なおかつ背景や設定を描きこんだ
原作では隠されていた登場人物の家族の問題やいじめや性の問題などが読み解けるようになって、まるで別の物語になるというのならともかく、結局のところ
女性が楽しむ男性向けエロゲとは http://togetter.com/li/58556より
主人公(男)や相手の女キャラやら、状況次第で感情移入先をこまめに入れ替えて楽しむもんだと思うんだけど、この人はそういう事をしない(できない)って事なの?
たとえば、主人公(男)が女を攻めてる時は主人公(男)に感情移入して、
攻められて相手女キャラがあえぎ声出してる時はその女キャラに感情移入するとか…
こんな感じで感情移入先を変幻自在に入れ替える事って普通にできるもんだよね?
こうやってこまめ感情移入先を入れ替える事で、まるで合わせ鏡でたくさん姿が映り続けるようにエロさもガツンと増して、興奮も高まるんだけど。
(そして、「こんな感じでエロゲをプレイしている自分」という神の視点を加える事で、さらなる高みを目指す事も出来る。後で落ち込むけど。)
かれこれ、初代ポケモングリーンをやったのが最初で最後だったから、今回ポケモンブラックをプレイしたのはもう12年ぶりくらいなんだろうか。
いろいろ感じたことは、ポケモンとは今までのRPGの集大成だということだ。
とりあえずエンディングまでは辿りついた。
まだまだ冒険は終わりではないらしい。。
これからは順不同で自由度の高い旅が用意されているみたい。
出会いを求め、伝承を辿り、新たな発見を求めて冒険がずっと続いていく。
近作のポケモンでコンピュータRPG史上初めて導入された画期的な要素ではないけれど、このエンディング後のパートが大きいのは特徴的だ。
一本道の必須パート+エンディング後(あるいはエンディングの前から)に自由なパート
例をあげれば、クリアした後も、エンディング後にいけるようになる隠しダンジョンや、クエストとよばれる小冒険を続けることでストーリーテリングの楽しさが去った後もゲームの面白さを維持できる。
もともと、自由なパートが置かれる以前でもPG(ここではドラクエに代表されるRPG)の魅力の1つは探索だった。
今回、ポケモンブラックホワイトでエンディングまでに巡ることが出来る町はマップにある町のたった3/4ほどだ。
もちろん、通信機能を使ったクエストも用意されている。
ドラクエでいえば3、FFでいえば5、自由度の高い育成要素を加えたゲームは面白い。
反面、キャラに自由度を持たせることは、人格を定義しにくくなる。
ドラマパートでは勇ましいセリフを言うけれど、戦闘シーンでのジョブは遊び人だとか、移動シーンでは鎧を着てるのに戦闘シーンでは魔法使いのローブを着ているとか。
どんなにポケモンを鍛えようと、どんなポケモンを育てようと、主人公の人格に違和感はない。
パーティメンバーに過去の設定をつけないという意味では、DQ3のルイーダの酒場システム(Wizのが古いしギルガメッシュの酒場というべきか)と同じのはずだが、ポケモンのほうが自然とキャラへ感情移入が出来る。
流石にそこは人間と獣の差、獣はペットを飼う感覚で従えることができるが、共に冒険する仲間にはそれぞれ世界にたった一つの冒険する理由が欲しい。
戦闘員と主人公を全く切り離し、戦闘員を非人間にすることで完璧な解決を図ってる。
(3)狭い世界
RPGにおける世界の広さは、スーパーファミコン時代が一番広かったと思われる。
主人公が住む世界が地球規模(船や空を飛んで一周できる)で、さらにもう1つ、あるいは二つ同じように地球規模の異世界が次元をまたいだり時空をまたいで存在し、同じように人の営みが用意されていた。
ところが、それ以降は世界の広がりはない。
むしろ、ある外界から隔たった特定地方を舞台にすることが増えてきた。
おそらく、僕らの住む現実世界のようにいろんな人がいて、いろんな思想、派閥が存在する世界の諸問題は、魔王を倒せば解決するような単純なものではないからだ。
狭い、人の繋がりの密な世界の温かさ、かといって冒険が不自由なわけではない。
世界が狭いからといって、すぐに退屈してしまうことはない。
僕が子供の頃に近所の廃屋や林を探索していたときには退屈さを感じなかったように。
(4)古きよきターン制
ポケモン廃人がパラメータからダメージを計算できるように、極めて厳格なルールで動いている。
パラメータと行動の結果がほとんど予想可能なまでにすることで、カードゲームのような戦略性が生まれている。
そこに、僅かに1つ2つ、(僅かであるのがミソだ)乱数で決まる要素を加えることで、興奮が高まる。
テーブルトークRPGから伝統的な古きよきターン制だ。
しばらく気付けなかったが、風来のシレンのようなダンジョンRPGに通じるものがある。
なにを、何回、どういう順番で、行うか、それをプレーヤーに考えさせる。
MP制でなくPP制にしたのもそのせいだと思う。
もちろん、これが対戦という状況においてさらに頭脳戦の楽しさとなるだろうことは想像に難くない、
(5)通信要素
思えば、初代ポケモンのグリーンとレッドの2バージョンを用意することで、通信なくしてコンプリートできない仕様にしたのは画期的だった。
最近だと、インターネットにより携帯機でなくとも通信は可能になったけれど、ネットワーク利用で面白さを倍増させることに関しては、これ以上のゲームはなさそうだ。
面白さを倍増と書いたが、累乗といっていいかもしれない。
ラブプラスがDSの特性を最大限生かしたゲームとか言う意見を聞いたけど、そんなレベルを遥かに上回る。
やりこみ要素が強いのに、廃人も初心者も、小学生も大きなお友達も、みんな楽しめる。
以上、近作のポケモンでゲーム史上画期的というようなシステムはない。
ただ、集大成だ。
そのクォリティが高すぎて、RPGというよりもポケモンという新しいジャンルだと言っていい。
しかし、おそらくこんないろんな要素を絶妙なバランスで詰め込むのは他社には出来ない芸当だったと思う。
どうせ子供向けだろとか、グラフィックのドットが粗いとか、そう思って見向きもしてないだろうけど、みんなポケモンやってみてくれ。
よく「映画で泣いた」という人がいる。
テレビの映像もあって「ぷw宣伝必死だなw」と、思ってしまう時もある。だって最近わさび食べたり小指ぶつけたりしないと泣かないもん。
でね、http://b.hatena.ne.jp/entry/www.youtube.com/watch?v=4qCbiCxBd2M YouTube - Out of Sight ここのブコメ見ていて思ったんだけど、結構泣いてる人いるのね。ブコメ上では。
この映像は10分もない短編映像で、10分で感情移入までして涙でモニターが歪んでるらしいのよ。マジなのだろうか。
その能力、僕にください。割と切実に。僕も女性から「付き合ってください」って言われたら3秒で泣いてみたいです。気持ち悪いですか。あ、ここでも泣いてみたい。
そういえばニコ動の感動系の動画で目から塩が、とか目からハイドロポンプが、とか言うけど、実際泣いてない人がいない、わけではないんだよな、と再確認。
「目からナイアガラの滝が~」なんて、涙流しながらコメントしてる人がいるかも知れない。
なんだか夢が広がります。
その感情、僕にください。割と切実に。
自意識が芽生えてしまった人間は、それまでの素朴な世界にいられなくなる。これは大いに問題だ。
たとえば自意識過剰。これは自意識が芽生えていない人間には起こらない。自意識が過剰になってしまうのは、自分のことを過剰に考え始めたからだ。
物語を物語として愉しむためには自意識は邪魔になってくる。現代人のような自意識が芽生えた人間は、どうしても物語をフィクションとして「客観視」してしまう。
物語は自分が入り込み感情移入することで物語としての魅力が十分に引き出せる。なのに自意識過剰な人間にとっては、物語は単なるフィクションの「お話」であり、突っ込みを入れたり「あの物語のパクりだ」とかあざ笑ったりする対象になってしまう。
自分はそれでいいと思っていたが、どうも最近はそのようなことに疲れ切ってしまった。
何らかの方法によって自意識から「一時的に」解放される方法はないのだろうか。
自意識から解放されれば、もっと物語を楽しめるようになるはずだ。少なくとも今のままでは、純粋に楽しんでいるとは言い難い。
2ちゃんねらーのような自意識過剰者が集まるコミュニティにいても満たされない。
彼らのように物語へ突っ込みをいれることに何の幸せも感じられない。他人をバカにして気分が良くなるはずはなかった。
もう一度あの純粋な世界に戻りたい。メタ視などせず、純粋に物語を、物語に漂う空気を感じられる世界を(こういう描写を冷静にしている自分がまたキモチワルイんだよな)
やはり薬か?
ある種の音は原始的な脳に働きかける効果があるとも聞いたことがある。ヘミシンクのようなものがいいのだろうか。
おそらく都会の人間達がリセットと呼ぶ行為が自意識から解放されるための方法なのだろう。でももっと深く、一定時間の間は完全に大脳皮質から解放されるような強力な方法はないものか・・・
似たような業務担当してるけど、相手を人間だと思うなと常々言ってる。録音音声を発するオモチャ(ファービー)だと思えと。
俺にも罵詈雑言は毎日一人あたり三桁規模で届くけど、「スライムのたいあたり」程度の感覚で返事してるよ。たまに懇切丁寧な要望や質問が来たら、レアなモンスターが現れた、みたいな感じで。
そういう相手はこちらに与えるストレスが非常に低いから出来るだけ長く相手をしていたいし(笑)感情移入もしやすいから、出来るだけたっぷり時間を掛けて相手するようにしてる。その分だけクズメールは後回しに出来るわけだしね。
そうでもしないと現場の人間が持たないし、会社というのは客をそういう風に扱いながら大きくなっていくもんだと思うようにしてる。
調査】草食系男子が増加 男性20代「恋愛をするのが面倒」58%、「SEXが面倒」24%★2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1282622588/
上記スレに文句ばっかり書いてる奴とか、女を叩いて喜んでる厨とか、男は独身に限るとか言ってる増田とかの心理って、http://2chcopipe.com/archives/51521166.html に書いてあるニートと同じなんだと思う。
毎日のように漫画・アニメ・ドラマ・ゲーム といった架空の人物・世界に感情移入して育ち、
『勉強だけが人生ではない』 『勉強だけ出来ても駄目だ』 『ガリ勉は社会で通用しない』
などとゆとり教育の甘い言葉に流されて勉学に対する努力を怠り、
その一方、ネット上では大企業・国家の方針を連日批判して悦に浸り、
ゲームやドラマで育んだ “特別でありたい” という願望を満足させ続ける毎日。
そうやって過ごしてきた人間が、就職活動という『現実』 を突きつけられてパニクる。
毎日大企業や国家の方針に提言してきたこの俺が上場もしていない企業に…
──ここで、この“現実と理想のギャップ” を受け入れることの出来なかった人間が、ニートと化す。
これは高学歴でも低学歴でも同様。持つ理想、置かれた境遇が違いはするが、
自己評価・現実に対する認識が甘過ぎた人間である事に変わりはない。
そんな彼らは口をそろえてこう言う。
『社会が悪い。政治が悪い。俺達が働 “け” ないのは俺達のせいではない』
身奇麗にする努力も、ステータスを上げる努力も、人を思いやれる気持ちを育むことも、何もしないで「かわいくて料理の上手な嫁」を誰かが「与えてくれる」のを待ってるだけ。