横道にそれるけどさ。
酒は付き合いで飲みがあるだろ、車も移動にはないと辛いことも多々ある。
やめろと言われればやめられるって尚更何のために吸ってるのやら…。
それやってると際限なく言及する対象が増えていくがいかがか。
さっき知った。
愛したはてなモノリスは帰らない。
はてなブックマーク - 2014年7月1日に「はてなアルバム」「はてなココ/ハッピィ」「はてなモノリス」を終了します - はてなの日記 - 機能変更、お知らせなど
つかこれ、おれずっと使ってなかったはずだから別に不便はないが、
サービスインしたころ使いまくって、最近放置してる人は終了自体知らないんじゃないかな。
終了メールとか通知とかきたんだろうか、スパムフォルダ行ってたのかな?
まあデータ取り出したい旨の問い合わせたら個別対応してくれるかなとは思うけど。
なんつうの、
今現在アクティブに使ってないとサービス終了を見逃してなおかつデータ取り損なうっての、
やばいよね。
特に記録系の。
嗜好品なんてみんなそうじゃねえの。
そういうのはまず部署によるんだよ。
切手をくすねる額よりチェックに費用がかかっても、チェックはすべき。
そうでないと、どんどん酷くなるから。
症状はかなり深刻で、無気力、無感動。明らかな記憶力、判断力の低下もあり、学校でも私生活でもありえないミスを連発した。
感情抑制も効かなくなっていて、外部からのストレスに過敏に反応していた。この辺りは無感動と矛盾するように思われるかもしれないが、面白いもの美しいものには感動できないが他人からの指示や指摘といったストレスだけは過剰に負担に感じてしまうという最悪の状態だった。そして一番酷かったのが言葉を発そうと口を開いても声が出るまで時間がかかり、ようやく話し始めても語尾まで言葉が続かないこと。語尾に辿り着くまでに言葉が思いつかなくなることもあるし、話しているつもりなのだが声量がどんどん下がり声が出なくなってしまうパターンもあった。一歩間違えば失声症になっていたのかもしれない。
私はうつを直すのに薬を使うことに強い抵抗があり、カウンセリングだけを受け続けていた。本当は薬に頼るべきだったのかもしれないけれど今となっては何が最良だったのかは分からない。カウンセリング治療だけにしようと決めた時点で、心療内科に通うのを辞めてしまったのでこの話は治療方法や通院の参考にはならないと思う。
カウンセリングでは具体的にどんな話をしていたのか、正直あまり記憶にない。当時の記憶力が低下していたことも原因の一つかもしれないが、思い出したくない心理も働いているように思う。断片的な記憶だが、とりとめのない私の話をカウンセラーさんが聞いてくれて、一つづつ何が辛いのかを整理していった。何か直接の原因を解決する、というよりは、受け止め方を変えるアドバイスを受けていたと思う。あとは弱い自分やダメな自分を受け止めて自己否定をしないこと、とかね。とりとめのない話を聞いてくれるというのはとても重要で、普段悶々と頭の中を巡っている思考を言葉としてアウトプットし受け止めてもらうプロセスは、症状の緩和にとても役立ったと思う。ただ、話したいとき、話したくないときがあって、せっかくの予約をドタキャンなんてこともあったりした。当時は先生にご迷惑をおかけした。
カウンセリングだけでなく、本当に偶然の良い巡り合わせの重なりで、一年弱で随分明るくなった。まず明らかに記憶力、判断力が改善した。
以前であれば、自分が直前に話した内容すらも忘れる有様だったのが治り、言葉も力強く発せるようになった。言葉がはっきり発声できることを自覚したときには本当に嬉しかった。趣味や進路のことにも随分積極的に関われるようになったし、今まで否定的に受け止めていたことを受け流したり、肯定的に捉えられるようになっていた。今までは人に言えなかった悩みを言語化して周りに話せるようになったことで周囲の理解も得られ、カウンセリング通いを卒業した。高校2年の冬のことだった。
うつは治る病気だ。うつの渦中と健康な状態では、本当にものの考え方も行動力も違ってくる。無気力や無感動という症状だけの場合、一見怠け者だの仮病だのと思われがちだ。しかしうつを拗らせてしまうと本当に重い症状が出てくる。記憶力判断力の低下と発話の不自由にはかなり苦しんだ。軽度うつの方にはそうなる前に病院にかかることをオススメしたい。そして周囲の方々もうつの人を甘えと言わず、暖かい目で治療を見守ってあげてほしい。
私はその後も時々、軽度のうつのような症状を発することを数年置きに繰り返し、正直完治したとは言えないのかもしれないし、元々あまり現代社会に馴染めていない側面もある。他のうつ患者の方にも再発に悩んでいる方も多いだろう。私は現在、かなりうつ傾向に近づいてしまっていて、焦りと不安を感じている。
うつは治る、だか繰り返しやすい病でもある。カウンセリングはあれ以来かかっていないが、久しぶりに通いもう一度自分を見つめ直そうか。
社会に完全に適合することに対しては既に諦めのような感情があるが、上手く社会と折り合って生きて行くためにどうすればいいのか模索を続けよう。うつを経験し、今も抱える私の自分語りを最後まで読んでくれた方がいたらありがとう。そして、もしうつに苦しむ方が居たら、どうか焦らず、ゆっくり、うつと生きて行く方法を考えていこう。
そういう男のほうがよく女を引っ掛けにいくからだろう。
男のほうが引っ掛けに来なければ、女が引っ掛かることもない。
釣りをしない奴の手元に魚が飛び込んでくることはないんだから。
というわけで、「なぜ女性はこんな男にばかり引っかかるのだろう」と思っている
ゲームやらない日も多々ありますが、これからも楽しくゲームをしていきたいと思っています。
ちゃんぽんは野菜たっぷりラーメンなので、大丈夫かなーって思ったんですが、そうでもないですかね?
自炊にしても、パスタ茹でてていためるだけ、焼きそばいためるだけ、うどん茹でるだけみたいな、お手軽料理?しか食べてないのが実情です。
野菜ジュースも飲んでません。
どうしても、お腹いっぱいになれば何でもいいや、といった感じで炭水化物とお肉ばっかり食べてしまいます。
いっとき、プチトマトを常備してたんですが、気づいたら辞めてしまいました。
どうしても、食事の優先度が低いんですよねえ。三食食べるようになっただけましというと変ですが、
鳥マジかっこいいわー。
鳥のように飛んでみたいわー。
鳥の飛び方を見ていたらあることに気づいた。
鳥が低空飛行のときのように羽をピンと伸ばしながら舞っている姿が、
本当にトップクラスの人間はくだらない悪事はやらないのだろうけど
天才型ではなく一般人でプログラマになるくらいだと、小さな悪事よりも好奇心がまさるくらいの人間の方が向いてるんじゃないかな
ふつうは、金が増えた所で偶然と思って済ませるか、あ、と思っても悪いことだしーで終わってしまう
けど終わってしまうような人は一般人レベルではプログラマに向いてないんだろうね
上げてる人間は「そんなことわかってて」上げてるんだし。
燃えて欲しいんだろうけど割りといい話になっとんぞ
柔道の危険性はデータを持って示されているが、武道は柔道を含んだままいまだ必修として続いている。
たとえ必修でなくても部活動としての柔道は変わることなく続いていくだろう。
しかし、柔道と言うのはデータを示されるまでもなく、それどころか部活動としてやるものとしても危険すぎる競技である。
主にそれは、近代までに日本で発展した人を打ち倒すための技術を競技化したものを指し、剣道を筆頭に、柔道、空手道、弓道、居合道、合気道、相撲道などを含む。
武道は、特に二つのカテゴリーに別れ、一つは演舞を持って競い合うもの、相手を敵とせずに的もしくは協力者を持って自分の技術を示し合う競技である。これには弓道や居合道、剣道や柔道の型などが含まれる。
もう一つは実際に敵を相手とし技を仕掛ける格闘技に類する競技である。剣道、柔道、空手、相撲などが含まれる。
前者の安全性は比較的高いものである。当然武器の目指す先が人ではない、もしくは打ち倒す目的ではないため、人を打ち倒すための技術を用いても危険性は低い。
一方で後者の危険性は高い。人を打ち倒す技術を人を打ち倒すために使うため、当然のことである。
後者の中で、柔道と相撲は主要武道の中でも特に危険な競技である。
その理由は、この二つの競技にはプロテクターが存在していない、ということに尽きる。
剣道であれば、慣れ親しんだ防具が思い浮かぶことだろう。
空手は、生徒であれば直接殴りあうフルコンタクト式ならプロテクターは必須であるし、寸止めであってもプロテクターをつけるのが普通だ。
武道でなくとも同じ格闘技のアマチュアボクシングは、ヘッドギアと大きなグローブの義務がある。
一方で、柔道と相撲にはプロテクターと呼べるものは存在しない。申し訳程度、柔道にはたたみがあるだけである。
しかし、中学高校で一般的な、スプリングの入っていない、床に敷いた畳と言うものは当然硬く、危険性が大きい。
締め技関節技等の制限が行われたとはいえ、戦前から一切変わらない安全基準で行われるスポーツと言って良い。
敵の攻撃から体を守るのは基本的に自らの習得した防御技術だけと言う競技だ。
ところが、その柔道、相撲の部活で競い合うのは、お互いに未熟な児童生徒学生たちである。
運動で体が熱くなり、試合や乱捕りで敵対すれば興奮し、普段よりも無茶な状態で無茶な技をかけることが多くなる。
プロテクターが存在しない柔道や相撲は、失敗した時に守ってくれるものは何一つなく、その時点で怪我が確定するといって良い。
柔道は投げ技で、相手の体を畳みにたたきつける打撃を行い、関節技で骨を痛め、締め技で意識を奪う競技。
相撲は張り手で叩き、投げ技で土にたたきつけ、押し出して土俵から落とす競技。
体験的な話で不正確だが、中学高校の柔道の試合では、1つの大会で必ず1人以上のけが人を目撃する。
大相撲で怪我をしていない力士だけでとった場所が近年存在しただろうか。
考慮すべき安全と言うものが、武道の伝統という言葉で覆い隠されている。
剣道は竹刀を作り、防具を作った。空手はプロテクターを取り入れた。柔道は本来着ていた防具を脱ぎ捨てて、身を危険に晒した。相撲は裸である。
当然プロやオリンピックといったレベルのものを変えるべきではないかもしれない。
しかし、そのアマチュアもしくは学校レベルの段階において有効に使えるプロテクターを考案すべきだ。
将来的に(諸々の問題を解決した上で)原発0になるのは素晴らしい事だと思うが現在の声のでかい『反原発』と一緒にされたくない、のと似てる。
白状しよう。
うろ覚えだが、50 円玉と 10 円玉を含んで、ある条件を満たした金額を投入して返却レバーを押すと、何故か 10 円玉の分だけ 100 円になって戻ってくるというバグ。微妙に違うかもしれないが、確かそんな感じ。
俺はそれがバグなのではないかと思った。様々な組み合わせを確かめ、条件を満たすとジュースを買わないで返却するだけでも、お金が増えることに気づいたんだ。
次に、同じメーカーの同種の自販機では再現するのではないか?と考えた。悪巧みでつるんでいた友人らと深夜に同種の自販機を探して試したらなんと全部再現してしまった。
大量の小銭を持ち込んで、その作業を繰り返したら、一晩で高校生の俺らにはとんでもない金額になった。
一ヶ月ほどでその種類の自販機が全部入れ替わって無くなった。きっとバグに気づいたんだと思う。
やまわけしたあと、最後にみんなでびっくりドンキーにハンバーグを食べに行った。うまかった。みんな貧乏な家の出身で、めったにそんなもの食べてなかったから。
今なら、あれは反社会的な行動だったと常識では思うけど、本心を言うと未だに反省していない。
お金が儲かるというのは貧乏な自分らにとって必然的に有利なことで、罪悪感があったとしても「金が必要だから」という気持ちが大きかった。
でもそれよりも、どこかそういう仕組みに気づいた喜びが大きかった。誰も知らない仕組みに自分が気づいたっていう喜びの方が。それを使って、なんかしてやったっていう達成感の方が。
あの自販機のことを思い出すと、ユーザーはどんな想定外のこともするという前提で、デバックやエラー処理をしなければならないと、強くそう思う。
今は、他社のサービスでバグを見つけても、開発を助けたいという本心から報告を送るだけだ。でも、仕組みに自分が気づいたという喜びはなくならない。きっとこの喜びがなかったら、プログラミングを自然に身に付けることもなかっただろう。