はてなキーワード: FJとは
hokusyu、toled、Apeman、D_Amon、tikani_nemuru_M、y_arim、amamako…
彼らは、はてなの空気を支配し、はてなという小さな村の中で行われるネットバトルの頂点に君臨していた。
ここはてな村では、「はてサ」こそが掟であり、常にネットバトルの中心にあり、ネットバトラー達の倒すべき敵だった。
はてサは、人々に憎まれ、愛されていた。
一方で、我々の愛したはてサとは決して戦火を交えず、しかし、もう一つの頂点として君臨する者達がいた。
それは、自らが絶対に正しい知識と正義を持ち、それを体現しているという自負である。
モヒカンとはてサは、自らの正義を信じ、敵対するあらゆる人間を攻撃して来た。
超長文をダイアリーに投稿し、あらゆる異論に反論し続け、メタブックマークをバベルの塔のように積み上げる。
驚異的な粘着力が、敵対する全ての対象を討ち滅ぼし、はてな村から敵を消し去っていった。
やがて、彼らの自負が、彼らの論理をはてなの掟にまで伸し上げる結果とまでなったのだ。
だが何故、2つの全く異なる集団が、はてなの頂点に君臨し、互いに戦火を交えることが無かったのか。
まるでbotが喋っているかのような非人間的な態度で、「私はあなたに共感しますが」と箇条書きにするのだ。
モヒカンには心情に踏み込まない。
あるコードの記述ミスを指摘するコンパイラのように、淡々と間違いを指摘して、去って行く。
それはもはやbotなのか、人間なのかすら判別できない存在であり、はてなに残る都市伝説だった。
一方で、はてサの支配する掟の中では、より弱者へ共感を示している側が正義だった。
弱者へ思いを馳せること、抑圧者である自らを自省すること、それらをウェブ上で表現すること。
はてな村に流れ込んだ2つの源流、fjと、テキストサイトのうち、前者はモヒカンが受け継ぎ、後者ははてサが受け継いだ。
はてサはテキストサイトのごとく、自らの自意識をダイアリー上で表現していた。
どれだけ自らが弱者の現状に思い悩んでいるのか、どれだけ強者として自省しているのか、その自意識を、はてなダイアリー上で開陳し、
はてなダイアリーにマイノリティ当事者が居たのなら、彼/彼女のマイノリティとしての心情を理解して、
トリアージが「さくさく」と表現されていれば、オノマトペで心が傷付く人々が居るのではないかと弱者に思いを馳せていく。
従って、はてサとの闘いは、自陣こそが本当の弱者の擁護者であるという立場を得るための闘いだった。
はてサとは『弱者に共感する人格の一貫性』によって担保されており、もしも、はてサが言葉が滑らし弱者を蔑視したなら、彼ははてサとして終わるのだ。
こうして、はてサの敵対者は、はてサが弱者を蔑視する瞬間を狙い撃つ。
ダイアリーに自意識的長文を書き連ね、メタブックマークタワーを積み重ね、自らが弱者に値することをはてな村で表現していく。
はてな村においてはてサは掟であり、自陣と敵陣を分かつ者である。
死ねばいいのに、これはひどい、脳の失敗、頭が悪い、魂が悪い、国語の成績が悪そう、プーックスクスクス…
はてサの敵対者が書き連ねた言葉は、一顧だにされず、蹴り飛ばされる。
その徹底的な共感の姿勢と、敵陣への圧倒的な嘲笑こそが「はてサ」だった。
だが、はてサは死んだ。
最早はてなに、はてサの掟は存在せず、ホットエントリーには、痛いニュースやアルファルファが乱舞して、ブックマークはヤフコメと大差ないコメントが立ち並ぶ。
我々の愛したはてサは死んだのだ。
はてサの強み、驚異的なメタブ粘着力や、超長文による物量攻撃は、Twitterでは存在することも出来なかった。
文章は140文字に制限され、粘着的なReplyはワンクリックのブロックで終了する。
そして、はてブにTwitter連携が設置された時、はてサが支配したはてな村は、Twitterの波に呑まれてしまった。
"/"で弱者属性をbioに並び立てる当事者系弱者ツイッタラー。
それら市民を冷笑し、圧倒的強者として立ち続ける悪質クラスタ。
hokusyuも、有村先生も、今ではただのツイッタラーでしかない。
我々の愛したはてサはもう、居ないのだ。
フェイスブック使ってないんでわからないが(だって実名丸出しで殴りあうのなんてfj.*でこりたからね。ちなみにfj.*で議論の途中に記事キャンセルのコントロールメッセージ出して逃亡したら、5年は粘着されるし、馬鹿のレッテルはfj.*が滅び去った今でもはがれない)togetterでも魚拓を取るという行為はみかける。消す人が一定数いるんだろう。そしてそれを問題視する人も一定数いる。
でも、増田で魚拓を取るというのは、勝ち負けにこだわるのとはちょっと違うんだな。だって負けた議論でも、間抜けなことを言ったり勘違いしてて後で恥ずかしくなっても、おれは消さないもん。通信回線を通して公衆の目に晒した記録を、後からコソコソ消すなんてカッチョ悪い。そんなことしたらカラオケ屋で「あのとき僕はああだった」って歌えなくなっちゃうじゃねえか。
それと露悪を良しとする増田の一員としてあまり言いたくないが、議論の道筋をはっきりさせておきたい、どういう流れで議論されたか後で見る人が困らないようにしたい、という気持ちもちょっぴりある。
以上おれの記事http://anond.hatelabo.jp/20130202233708への反応http://anond.hatelabo.jp/20130203083137 (魚拓http://megalodon.jp/2013-0203-1112-43/anond.hatelabo.jp/20130203083137 )について書きました。クソ面倒くせえな実際。
と
はどちらも真だと思うが、両者の関係がおれには理解できない(発言者の社会的地位を考慮しないということは、発言に至る過程を考えないということとイコールではない)、したがって元増田の「モヒカン思考は限界」には賛成できない。
モヒカン族の聖地たるfj.*では、発言に至る経緯を考えず単純に罵倒に走ると脊椎反射であるとして非常に軽んじられたと記憶している。
脊椎反射をくりかえすポスターは、「馬鹿」「うそつき」などと指摘されたり、かわいそうな人のような扱いを受けたりしていた。
このことから、増田が指摘するところの「発言の経緯を考えず、ズレた意見や実現不能な原則論に終始する」という問題は、fj.news.usageを再活性化させ、すべてのモヒカンどもをそこにぶち込むことで解決すべきである、と提案したい。
そこでは日夜実名所属丸出しでガチの罵りあいが行われ、発言者の知性が疑われ、蟲毒にも似たモヒカンの濃縮が行われる。そしてfj.news.usageを這い出してきたモヒカンのエリートは、「発言に至る経緯を充分に把握した上で、発言者の社会的地位を考慮せず意見の内容だけに注目する」という反論不能の怪物となってネットに君臨するであろう。
べつに後発の発想だとも思わないし、前からあったから優先されるべきとも思っていない。
ただ、先住民という言葉の定義にもよるが、1990年代中頃のfj.news.usageあたりを見る限りにおいては、junet世代はおおむね「馬鹿に馬鹿と言う」のを良しとしている、というかより正確には「馬鹿は馬鹿と言われてもしかたない」という姿勢であったように思う。馬鹿を擁護するポスターはたいていインターネットサービスプロバイダーから投稿していたから、後発のユーザーと言っていいのではないか。
つまりネットの先住民は凶暴で近づくのはベリー危険だった。うっかり「半角カナ」とでも言ってしまおうものなら大変なことになった。ふつうに投稿しても、その投稿者が認知心理学者だってだけで「認知心理学なんて、インチキ科学だと私は思っています」などとばっさりやられていた(fj.sci.math大論争)。時間があり調べ物が得意であげあしを取るのに優れた者だけが生き残る、すごく理不尽な不毛の荒野だった。
問題は、「馬鹿に馬鹿と言ってはいけない」という合意が全然広まっていないことであり、馬鹿に馬鹿と言うのを良しとする連中がまだまだ一杯生き残っていることであり、彼らはおそらく一生主張を変えないであろうということだ。
といろいろ書いて見たが結局のところhttp://anond.hatelabo.jp/20120515130704の
どうでもいいアラをつくのが好きなんだよ。fj.*出身だし。
社内の誰も、インターネットを知らない。パソコン通信もやっていない。
ああ悪かった、JUNETなんて君は知らないかもな。CompuServeくらいはしっているかい?
Niftyのフォーラムやfj、ニュースグループが社会に与える影響について誰も語れない。
Macintoshは知るわけない。
自宅にキューハチもない。ワープロ専用機さえ持っていない人もいる。
写真屋にそそのかされて生れた赤ん坊の写真付き年賀状を送ってくる同僚はいる。
おかしいことじゃない。普通の人たちだ。本当に彼らは普通なんだ。
彼らは、仕事とプライベートを切り分けている、立派な人たちだ。
でも、やっぱり俺の生きていきたい世界は、ここじゃないんだ。
あの頃の彼は語っていた。とても熱く語っていたよ、
僕は技術に疎かった。言っていることはよく分らなかった。
だから言葉は間違っているかもしれない。彼が生きていたくない世界から本当に逃げられたのかは分らない。
僕が生れたのは恵まれた家庭ではなく、親もパソコンを買ってくれなかった。
そんな意味の分らないものを買ってくれる酔狂な親が羨ましかった。
パソコンが何なのか理解できる親がどれほどいただろう。
彼は子供の頃からパソコン(昔はマイコンと呼んでいたかもしれないけれど)でプログラムを組んで遊んでいたらしい。
解説をしてくれたけれど、何を言っているのか分らなかったよ。
幼い彼はとても神々しいことをしているように見えた。マンガに出てくるコンピュータはすごいものだったから。
あのMacintoshは100万と言ったか200万といったか。
パソコンくらい買った方がいいと言われてエプソンの一番安いものを買ったけど埃をかぶっていたっけな。
通信も金が掛かりすぎた。テレホーダイ?まともな人間は使えなかったよ。あんなもの使ってたのはどんな人達だろうね。
目新しいものを見つけると買ってきて、前に使っていたものはゴミだと捨てるんだ。
そして、まだそれを使っている人々を冷笑するんだ。彼らは普通の人だととても嬉しそうに語りながら。
今なら分るが、ネットにいくらでもいる手合いだ。自称「ギーク」のキモヲタだ。殻に閉じこもったヒキコモリと同じだよ。
彼は今でもテクノロジーに見果てぬ夢を見て、Twitterの力を信じ
Facebookによってもたらされたかもしれない革命に熱狂し
自分たちだけは特別な情報を知っていると。普通の人達は哀れだと。
今でもゲイツやジョブズの一挙手一投足に胸躍らせ、西和彦や孫正義の言葉に胸ときめかせているのかな。
本当にそれが続けられているならいいけど。
僕も新しいものは嫌いじゃないけど。
自称ギーク達はMSやAppleやgoogleやFacebookやTwitterを作った人達とは何が違うのだろう?
実は全く変わらないのだろうか?まるで彼らがそう信じているように?
悔しくてひきずってるわけじゃない。「こいつ何度見ても痛いなwww痛すぎるwwww」ってニヤニヤしながら眺めるのが好きなんだ。そのおれの楽しみの種を消しやがったから不満に思ってる。おれは悪趣味な粘着なんだよ。
それと、あまりに古い例で通じなかったら申し訳ないんだけど、この人、fj.*のlalaさんを20倍くらい頭悪くした感じだよね。「この程度に攻撃的な人はいくらでもいる」と言うけど、モテ非モテ論争とか男が女がみたいなのを読む限りでは、いきなりアホだのカスだの罵倒する人はいないように思う。連休明けの人と(同一人物認定はしないまでも)同じタイプの人じゃないかな、と推定するのはさほど無理があるようには思えない。