はてなキーワード: 生ける屍とは
「おい、増田。そこの自販機前で座ってる女の子。『スタポ』受給者だ」
2116年、「はてなスター保護法」(通称スタポ)が衆参両院賛成多数で可決された。
欧米諸国に遅れること5年、国家によるスターの給付がついに日本でも始まった。
星がなくとも生きてはいける。しかし、星がなければ穢れてしまう。
魂の穢れ。生ける屍。
「ごめんね、増田くん。私、互助会から出て行けって言われちゃった。もう、スター、貰えないね」
「何にもない私には無理だよ。頭悪いし、ミーハーだし。おまけに病気も完治しない。スター乞食になるしかないのかな」
握った手が震える。この手を握り返すことに意味はあるのだろうか。
「……スタポもある」
「スタポなんて貰ったら、もうおしまいだよ」
「それ、本気で言ってる?」
俺を見つめる彼女の目が、俺は嫌いだった。
何でもお見通しと言わんばかりの大きな瞳が嫌いだった。
彼女は俺の手を払い、俺の正面に立った。
「増田くんの、嘘つきさんさん太陽キラキラ。なんちゃって。星くーださいっ」
「……増田?」
iRingを起動し、虹彩認証を終わらせる。手を眼に近づける動作が最高にダサい。
俺ははてなにログインし、はてなスター管理センターにアクセスした。
「そのまさかだよ」
この街に、星につながる種はない。
それでもこの女性がここにいるのは、きっと彼女が元住民だからだろう。
「すいません」
そう言って、俺は無理やり彼女の腕をつかんでRingを確認する。
ほらね、やっぱりRingは外してない。
「気まぐれです。これをネタに『増田』で主語を大きくして煽り気味に書いて、星貰ってください。炎上スターですけどね」
さて、飯でも食いに行きますか。
駅に向かって歩き出す俺に、友人が後ろから声をかける。
「星なんて、なくても生きていけるのよ」
「そりゃそうだけど……」
「自己満よ。きったねぇ自己満。最高のオナニーよ。気分上々、はてな上場ってな」
「はぁ?」
星がなくとも生きてはいける。しかし、星がなければ穢れてしまう。
穢れた魂、星で癒して抱きしめて。
星くーださいっ!!
これが右にあるということは、日本が右傾化しているという意味である。単に右ではなく右上なのは、想像の斜め上を行くような右傾化であるということを示している。
日の丸を除くと、アルファベットが残る。これは二つの文字、IとZの組み合わせである。Iは「私」を意味しているが、Zは何か?映画ファンならすぐに分かるであろう。Zといえば、ゾンビである。つまり、「私はゾンビ」ということを意味している。つまり、このデザインを作った人はすでにゾンビ、すなわち、生ける屍であるということである。
あるいは、私=日本人と考えれば、既に日本人はゾンビ化しているということを世界に警告しているということになる。
追記:
白黒以外の色は、金と銀と赤である。これは「こがね」「しろがね」「あかがね」であり、金銀銅のメダルを表している。そして赤が日の丸も表していることから、日本が金や銀ではなくて、銅メダルに値するということを意味している。
公務員です。
どーーーしても働きたくないらしく主婦してるけど、そのかわりかなり無欲。
お金はほぼ必要としてなくて、月6万か7万かそのくらい生活費を渡しておけばそこからなんとかしてくれる。
お小遣いはお互い2万か3万くらい。
貯金はあんまできない。
俺はもうちょいお金ほしい。
でも、嫁はこれで充分らしい。
なんたる省エネ。
心底幸せなのかは知らん。
俺もまあ、田舎暮らしでだいぶ物欲も抜けて、よくはないけど、嫌で嫌でしょうがないってわけでもなくなってきた。
子供がうまれたらどうなるんだろうと思うけど、俺は公務員なので、劇的に給料があがることもなければ副業もできず。
60歳くらいになれば800万くらいまでは昇給するのかもしれなけど、50までくらいは、まあ600万もいかないかもしれん。
なんか、余裕はない生活だけど、これでいいって心底思えてるんかなあ、嫁は。
うーむ。
顕名でやっている自分のブログで書く元気がまだないので、リハビリを兼ねて、増田に書いてみるか。
私は40代前半のこの歳になって、いままでの人生の矛盾が一気に噴き出してきて、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
仕事も手につかなくなり、ニート同然の生活をして数年。貯金も底をつきはじめて、いよいよ自分の人生の方向性を決定しなければならないことになった。
二つほど選択肢はあるのだが、どちらも一長一短で、決め難い。
ここで、選択Aと選択Bとしておこうか。
いままでの自分なら、Bを迷わず選んでいただろうが、最近、加齢に伴う体力の衰えを実感し、また親もめっきり年老いていくのを見ると、ひるむ気持ちがある。
情けない話だが、それも正直なところ。
===
退屈な田舎で生まれて、自分と気の合う子供も大人も見つけられなかった。学校の成績だけはよかったが、なんで自分が生きているのか、その意味を見いだせなかった。学校行事も死ぬほど退屈だったし。同級生たちは成績のことで悩んでいたけど、あまり勉強しなくても成績のよかった私には彼らの気持ちを理解するのが難しかった。…そんなこんなで、ほとんど友人もいなかったね。
大学を卒業するときも、やりたいことが特になくて、たまたま内定が取れた大企業に入ったけど、もともとやりたいこともなかったから、すぐに辞めてしまった。その後、アルバイトを転々としながら、IT技術者となって飯が食えるようになったけど、IT技術者も別にやりたいことではなかった。というか、年齢を重ねるごとにつらくなっていった。受託開発の関係者間の調整の難しさは、本当に厳しいね。
ただ、私にはある種「趣味」といえるようなものがあって、それが自分が生きる気力の源になった。それについては具体的には言わないことにするけど、この「趣味」に私は29歳の時に出合った。この「趣味」に没頭している限り、私は生きているという感覚を味わうことができる。
===
私は、この半年間、諸事情でこの「趣味」に没頭できない状態にある。そのせいで最近の私はまるで生きる屍みたいになっている。上の選択Bは、この「趣味」に生きる選択肢だ。ただ、この「趣味」はカネばかりかかって、なかなかそれで飯が食えるかというと怪しい。それとは距離を置いて、無難な選択Aに生きるほうが合理的なのもわかっている。
===
…と書いてきてよくわかったけど、やっぱり私は選択Bをとるしかないね。選択Bで生きていけるかどうかはわからないけど、少なくとも選択Aをとれば、この先死ぬまで「生ける屍」状態が続くことははっきりしている。だったら、まだ可能性のあるBで行くしかない。
やれやれ…。選択Bをとるのはかなりいろいろ面倒くさい。自分が年を取ってきたことは認めざるを得ず、以前ほどのエネルギーもなくなってきている。でも、やるしかないんだろうね。いったん、一歩踏み出せばふたたび勇気や元気が湧いてくるかもしれない。そんな気がする。
(長すぎて続きが表示されなくなっていたので分けました。)
「死ねば?」
「何故ですか」
「だって生きていても楽しくないんでしょ?」
「大抵はそうですね」
「だったらなんで死なないの?」
「それはさっき言いましたよね」
「…人間生きるか死ぬかどっちかじゃない?早く死にたいんだよね?」
「どちらかと言えば」
「死ぬのは嫌なの?死にたいの?どっちなの?」
「じゃあなんで死なないの?どっちなの?わけわかんない」
「あの、一ついいですか?」
「なに?」
「あたりまえじゃん。死ぬか生きるかしか無いじゃん?他にあるの?」
「死ぬの反対は生きるじゃないですよ」
「じゃあなんなの?」
「生まれるです。」
「生まれる…」
「…死ぬ事の反対は生きるじゃないの?」
「そうです。"死ぬ"の反対は"生まれる"です。そもそも死ぬというのは出来事です。生きるというのは状態です。」
「え、なにそれ?」
「うん、学校で習ったよ」
「動詞の種類に、動作動詞と状態動詞というのがあったのを覚えていますか?」
「んーなんとなく」
「あれに近いです。つまり、死ぬというのは動作動詞です。生きるというのは正確には"生きている"という状態動詞です。」
「ほんとに?それあってる?」
「知りません。でも言わんとしてる事はわかりますか?」
「わかる。生まれるも、動作だしね。」
「そうです。死ぬと生きるという二つは対になるはずがないのです。生きるの反対は強いて言えば、死んでいる、でしょうか。」
「…それで何が言いたいの?」
「何が言いたいか」
「うん」
「私が言いたいのは、早く生を終えたい事と、今生きている事は両立するという事です。」
「え?両立?」
「おかしくありません」
「なんで?生きてるのに死にたいんでしょ?」
「そうですね」
「矛盾してるじゃん!」
「どこがですか?」
「どこがって、全部!」
「まず、生きているということ、の反対は、先ほど言ったように死んでいるということ」
「え?うん、そうだね」
「生きているのに死んでいる」
「なにそれ?」
「矛盾…っていうかわけわかんない」
「それが矛盾です。生きている事と対になっている死んでいるという状態が重なっている。これはどちらなのかわからない。矛盾しています。」
「そうだね、どっちなの?」
「だから矛盾しているのです。今言ってるのは生ける屍とか死んだように生きてるとかそういう話ではないですよ」
「それはわかってる!」
「では、死んだのに生まれた」
「死産?」
「いえ、出産のことではありません。言い直しましょう。死ぬ人が生を受ける」
「どういう意味?」
「ある人が、死ぬと同時に生を受けるってことです」
「生まれ変わるってこと?」
「転生の話ではありません」
「じゃあなに?どういう意味?」
「矛盾しているという事です。死んだのか生まれたのかどっちなのか」
「どっちなの?」
「ていうか普通間違える?」
「そういう話ではありません。」
「じゃあどういう話?」
「生きている人が死ぬ」
「うん」
「これは矛盾してませんよね」
「当たり前の事だよね。生きてないと死ねないし」
「そうです。」
「何が言いたいの?」
「わかんないって!」
「生を終えたいという思うのは、生きていないと出来ません」
「うん、それはそうだね」
「ですから、生きているという状態と、早く生を終えたいという気持ちは矛盾しないのです」
「私が死なない理由は先ほど言いましたよね?」
「うん、聞いた。親がどうとか」
「では、理想としてはなるべく早く生を終えたいというのも覚えてますか?」
「覚えてるよ。早くないけどね。」
「私は今、生きてますよね?」
「目の前にいるのが幽霊じゃなければね?」
「わかってるし」
「ではもう一度聞きます。私がなるべく早く生を終えたいけれど、今生きているということは矛盾しますか?」
「…んっと、君の場合は、親が生きている間は生きたいんだよね?親が死んだ後死にたいんだよね?だから今生きているのは生きたいから生きてるんじゃないの?」
「生きたい、ですか?」
「違います」
「え、なんで?死にたいなら死ぬでしょ?親が死ぬまでは生きたいから生きてる。間違ってなくない?」
「間違っています」
「どこが!」
「はあ?」
「生きようと思って生きているわけではありません。」
「じゃあ死ねばいいじゃん!」
「死のうとも思いません」
「わけわかんない!じゃあなんで生きてるの?」
「生まれたから?」
「生まれたから生きてるって、なにそれ?」
「生まれたって死ぬひとはいるでしょ?」
「います」
「それは自然じゃないってこと?」
「どっちだよ!生まれたから生きているのが自然で、死ぬのも自然って」
「どちらも自然です。ですから、その場合の死は、事故死であったり病死であったり自然死であったりします」
「全然わかんない」
「私は今生きてますよね?」
「さっき聞いたし言った!!」
「そう、それが自然です。今私が生きている事というのは、この世に生を受けて、それを維持している。自然の状態です。そこに私の意思はありません。」
「でもご飯食べたり寝たりするよね?」
「します」
「それは生きたいからじゃないの?」
「違います」
「じゃあなんで?」
「あたりまえじゃん!」
「生きたいからではありません」
「だーかーらー、お腹がすいてご飯を食べるってことは生きたいって事にならない?」
「なりません」
「なんで?」
「食べるよもちろん」
「生きたいですか?」
「私は生きたいよ?」
「では、食事をとる時に生きたいって思いますか?」
「…思わないけど」
「生きるために食事をとると毎回考えて食べてますか?」
「…食べてない」
「では、生きるために食事をとりますか?」
「そりゃそうだよ」
「考えてもいないのに?」
「考えなくてもご飯食べる事は生きるためなの!」
「本当ですか?」
「当たり前じゃん」
「え?」
「生きるためには食事をとる事が必要だと、後から教えられただけではないのですか?」
「そりゃー教わったよ?でも教わらなくても生きるためにご飯は食べるよ」
「本当ですか?」
「お腹がすく」
「そう、生きるためとか知ってなくてもお腹はすくでしょ?じゃあご飯食べるよ」
「そうだよ、お腹がすくからご飯は食べる。それが生きるためになる」
「生きるためかどうか教わっていなくても、お腹がすくからご飯を食べる」
「そうそう」
「そうだよ?」
「…ごめん、わけわかんない」
「例えば、ですよ。例えば、あなたは生きるためには食事が必要だという事を知らないとする」
「うん。知ってるけどね」
「例えです。」
「たとえね、たとえ」
「そう、例えです。例えば、あなたは生命維持のための食事の必要性を知らない。しかしながら、腹は空く。当然、食事をとりますよね?」
「うん」
「では、あなたが食事をとった事は、生きるためではないですよね?」
「でもあなたは生きるために食事が必要だという事を知りませんよ?」
「知らないけど、知らなくても生きるためになってるよ」
「生きるためになっている。」
「うん」
「私自身?」
「そうです。あなた自身は、生きるために、と思って食事をとりましたか?」
「ええっと、私はその時点では知らないんだよね?じゃあ思ってはいない。でも実際はそう。」
「そうですよね。食事をとる事は生きるためになっている。でもあなたにその意思はない」
「そう、なるね。」
「話を戻していいですか?」
「ごめん、何の話だったっけ?」
「違います」
「じゃあなんなの?」
「また自然…」
「言い換えましょうか?では、私が今生きているのは、私が生きたいという意思を持ち続けてようやく維持している状態ではなく、私が何も考えないところで勝手に生きてしまっているのです。」
「でもご飯食べないと生きていけないよ?ご飯食べないの?」
「食べます」
「じゃあ生きたいからご飯食べるんでしょ?勝手に生きてるなら勝手に食べるの?」
「生きたいから食べたいんでしょ?」
「腹が減るってことは生きたいって事じゃん?」
「そうかも知れません」
「でしょ?」
「でも、死にたくても腹は減ります」
「じゃあ食べなきゃいいじゃん」
「その時が来れば食べません」
「今は生きたいってこと?」
「違います」
「だってご飯たべるんでしょ?」
「私が食事をとるのは、生きるためではありません。腹が減るから食事をとるのです。先ほどの例え話覚えてますか?生きるという意思を持って食事をとるのではなく、腹が空いたから食事をとるだけなのです」
「そんなの屁理屈だよ!だってご飯食べることが生きるためになるって知ってるじゃん?」
「知ってます」
「じゃあ生きるためになってるじゃん。死にたいなら生きるためになる事を避けるじゃん」
「私は今は死ぬ事は怖いので避けています」
「じゃあ生きるために食べるんでしょ?」
「違います」
「いいですか」
「なに!」
「私の住んでいる日本では、そして私の今の環境では、幸か不幸か、食事に困る事はありません。」
「そうかも知れません」
「そうだよ多分」
「そう、食事に困る事は無いのです。そして、また幸か不幸か、私は病に冒されてもいません」
「そうなの?」
「はい」
「そうは見えないけど…」
「そうなんです。つまり、今現在私は、死の局面には晒されておりません」
「知ってる。私もそうだし」
「そうですよね。」
「うん」
「そう、そういった状況において、生命を維持する事は、果たして困難でしょうか?」
「んー、ちゃんとご飯食べて、寝て、運動していれば大丈夫なんじゃない?」
「そうですよね。」
「そう思うけど?」
「では、私の環境において、食事と睡眠と運動は阻害されるでしょうか?」
「されるの?貧乏なの?」
「されません。」
「そうだよね」
「では、私がただ生きるだけというのは難しいと思いますか」
「ただ生きるだけ?わりと簡単なんじゃない?」
「わりと簡単です」
「そうでしょ」
「では、私がただ生きるためだけに、生きてやる!!という強い意思は必要だと思いますか?」
「ただ生きるだけなら、なんとなく生きていけるんじゃない?」
「生きていけます」
「そうだよね?」
「つまり、私は生きたいという意思を働かせて生きているわけではなく、腹が減れば食事をとり、眠くなれば睡眠をとり、体を動かしたければ運動をし、ただなんとなく自然に生きているのです。」
「なんか、怠けてるね…」
「そうかもしれません」
「…」
「私は今ただなんとなく生きています。そして、なるべく早く生を終える事を望んでいます。ただし、それ以上に私が死んで親や妹が悲しむ事を恐れています。それらは順序はあったとしても、矛盾はありません。」
日本は確実にダメになるだろう。関東以北は原発の影響で、今楽観視されている以上に無茶苦茶になると思う。今後10年20年以上はろくでもない土地としてあり続けるのではないだろうか。北海道の方はよく知らないけど、少なくとも東北、関東あたりまでは水俣病や枯葉剤、チェルノブイリと同様に、長く険しい道を辿ると思う。影響が目の当たりにされない今だからこそ楽観視されているだけで。
そんな細かいことは抜きにしても、日本という国には我々20代以下は誰も期待していないだろうし、今後は生ける屍として実際の死ぬ日を待つ他はないだろう。
私は普通の会社員で、そこそこ普通の、ブラックとは言えるか言えないか微妙なラインの会社につとめて3年になるけれど、辞めたくてしようがない。日本の会社には未来がない。日本というマーケットにも未来がない。そんな気がする。これが、昔で言う753現象の杞憂であって欲しいとせつに願う。
実際はどうだろうか。日本の社会は50代以上の社会である。50代以上の50代以上による、50代以上のためにある社会である。20代の私は、50代以上のために働いている。50代以上が住みよい社会を作るために働いている。それも実際は、現実が見えていない50代以上の意見に従って、なんとか現状維持を、50代以上の、高度成長期からバブル期に実現した夢の灯火を消さないための努力を、行わされているような気がする。日本ではイノベーションが起こらない。それは、若者が実権を握っていないから。高度成長期にたくさんのイノベーションがここ日本においてでも起こり得たのは、若い世代が多数存在したからだと思う。若者が多数派である、ということは、若者の意見も取り入れざるを得ない市場が存在するということになる。今の多数派は老人である。老人には先が見えているのだろうか。新しい技術を理解できるのだろうか。受け入れることが出来るのであろうか。老人が老人同士で老人のご機嫌取りに奔走している間に日本は良くて斜陽、没落、マーケットも存在意義も、ゴミクズのように消え失せてしまうだろう。どこかが日本に取って代わるということは無いと思う。日本の築いてきたポジションも今の状況も特殊だから、日本という国が第一線にいた事すらそのうち忘れ去られるだろう。
どうすればいい?海外に逃げるか。海外で何が出来る?その前に、英語ができるか。ほとんどの人間が出来ない。その上で、付加価値もない。日本の企業は専門職を除いて、一般社員に付加価値は付けない。少なくとも、外国では通用しない、日本というムラ社会での掟に従う術しか教えない。外資とか商社とか、外国とバンバン渡り合ってる人もまた別だろうけど、大多数の、一般企業に勤めている、なんの価値もない、どこにでもいるような、大多数のただの大卒の一般社員は、行く宛を見失った。今の新卒就職前線はその煽りを直で受けてるんじゃないか。無価値であるということの。
さあどうする。
http://anond.hatelabo.jp/20070221185657
知的障害者を知的障害者だから社会から隔離すべきなんて話を聞かされたら、それが本気か否かにかかわらず、そのひとを軽蔑する。しかし、自分のIQはたぶん高くないだろうから、そのひとを白眼視するのにそれを根拠にすることはできない。
「お前らの頭の中身も五十歩百歩だろうが」
だから、こういう風に思うことはできない。ただ感情的になってふざけたやつだと、こころのうちで罵倒することしかできない。まあ、それはいい。とにかく、この鍵括弧の中身には心底腹が立ったのだ。それだけじゃなく「十分賢い人を連れてこれば「健常者」も障害者同然」という意図も気に入らない。しょうもない差別をする人間と、とくに悪いことをしたわけでもない障害者を五十歩百歩だとは自分は思わない。もっと愚かだと思う。いや、同じ軸線上には存在していない。だから「より」でも「もっと」でもなくただ愚かだ。ひたすら愚かだ。そう思うことしかできない。自分は差別に荷担する気は一切ない、しかしそれは自分が「頭のよい人間からみれば障害者と区別がつかないくらいの馬鹿ではないから」ではない。この感覚が本当によくわからない。賢きものをいくらかつくりだして、それ以外は皆誤差みたいなものなんだから仲良くしなさいとでも言うつもりなんだろうか。賢きものは賢いから差別をしないんだろうか。嘘だろう。少なくともこのネタばらしのようなものを読んだかぎり、世界のすべてを見下すことができるだけの根拠を書き連ねているだけにしか見えない。障害者も平均的な人間とやらも馬鹿にしてはいないか。差別的に感じられるのはおれだけか。おれだけなのか。
「もちろん、こうした見解をひとたび口に出せば暴言としか受け止められない。」
これも気になった。これは誰にとっての暴言なんだろうか。平均的な人間にとってか、それとも障害者も含んでいるのか。自分には含んでいるように感じられた。しかし、それは妄想だろう。差別の悲劇的な状況を「告発」しているんだから、そんなことはありえるはずがない。ちょっと文章の構成がまずいだけだ。だけど、
「天に唾でしかないこんな暴論を支持する者は、自分自身が『頭の不自由な人』だ」
こんなことを言っているのだ。知的障害者は『頭の不自由な人』なのか。なに? これはあれなの知的障害の柔らかい表現の仕方なのか? これを侮蔑的に感じる自分はおかしいのか? 頭の不自由 知的障害でぐぐると2ちゃんねるの過去ログばかりがひっかかりやがる。それとも差別主義者を差別するのは構わないというのか。
そもそも何を告発したんだ。「頭のいい人から見ればお前らも話にならんほど知能が低いんだよ」という事実を認識させることが差別的な人間を批判することになるだなんて本気で思っているのか。馬鹿を馬鹿が差別するなと言いたいのか。馬鹿が馬鹿を差別しているといいたいのか。これで告発だなんて馬鹿にしている。何の構造が理解できるというのだ。それで何が変わるというのだ。ちっともわからない。高学歴の人間がこれほど噛み砕いて説明してくれてもわからないのだから、きっと自分は救い難い馬鹿なのだろう。自分が何に怒っているのかすらわかっていないのだ。なんて滑稽。道化にもなれない。
IQなんてどうでもいい、現状を描きたかっただけ、自分のIQが高いかどうかわかるはずがない、フィクションかもしれない。そんなことを言っておきながら、つまらない煽りにのせられて自分のIQは高いだとか旧帝の院卒などと属性を詳らかにして煽り返す。それなのに増田で書きやがるのだ。これは他人の成りすましか。そうなのかもな、これはフィクションかもしれない。そしておれの怒りも創作だ。ちくしょう。すべてがネタになる。泣きたくなる。ここには何もない、あるのはひとのようなものだ。あるいは生ける屍。