はてなキーワード: お別れ会とは
労力を出さないで利益だけ得るのは問題だが、子供が参加しないなら問題は無いと思う。
やってる国はあるらしいが、参加できない貧しい家庭からしたら親が設営を頑張るだけで無料で参加できる国は羨ましいらしい。
こっちはこっちで困る人は居るだろうが出来ないことは無い。
アメリカなんかではこんな感じで親の役割分担が出来てると聞く。
あとなんかあるかな。
小学生くらいの頃からメンヘラというか、心が弱い子にやたら好かれる。
こちらはそんなこと気にせず友達として一緒に遊んでたら、
あるとき急に相手の子が学校に来なくなって「『あなたがいないと学校に来ない』って言ってるの」と相手の親御さんや先生に言われたり、
あるいはいろいろすっとぼけて「ふだん◯◯ちゃんとどういうお話してるの〜?」と聞かれる。
他にも遊ぶ友達はたくさんいるから、そのうち忘れたらいつのまにか相手の子が転校することになった。
「へー」と思ってたら、お別れ会でもらったその子からの手紙には「大きらい」と書かれてた。意味が分からない。
中学・高校に上がっても同じで、席が近くて仲良くなった子が以下同文。
最後には「もう話しかけないで」と一方的に嫌われる。何もしてないのに。
最初は爽やかな学生っぽく自転車二人乗りとかして仲良くしてたのに、私が部活に忙しくなるほど
(人数が少ないので3年生がやるはずの部長職や会計職を2年生でやった)
妙に四六時中ベタベタしたがるので、単純に鬱陶しくて適当にあしらってたら大学を休みがちになってしまった。
様子を見に行ったら「僕がどれだけ君がいる場所にいたいと思ってるか知らないだろ」と病まれる。
「僕だけのものにしたいんじゃなくて、僕は君になりたい」と言われる。
意味が分からないので、意味がわからないとそのまま伝えるとますます病む。
プライドが高くて仕事ができる自慢とかしかしないので、つまらないし「もう会いたくない」と伝えると
めちゃめちゃストーカーされてロミオメールやロミオブログのURLを送りつけてくる。
周囲の人に「こんなことに巻き込んでごめんなさい」と謝って回っていたら
それがどう伝わったのか「本当に人を見下すのが好きなんだね」とディスられていまだ粘着されてる。
年少のPTA が一番期間が短く楽なので、皆が立候補してじゃんけんで役員奪い合いになった。
私は立候補出来なかった。
年中も同じく役員奪い合いだった。
年長になるとPTA 会長などの他の学年のPTA に指示を出すような中心になってしまうし、他の園のPTA会長との会議やプレゼントや記念品発注卒業アルバム制作や印刷発注お別れ会バザー運動会の後片付け入園式卒園式の準備や保護者代表挨拶など大変な仕事が多くなるので、皆年長役員を避けようとしてるのだなと思いながら立候補出来なかった。
年長の役員選出会は他の学年でやった人達は出席せず、もう十数名しか参加していなかった。
数人しか逃れられない、もうだめだ会長だけは嫌だとビクビクしていると、皆が立候補してあっという間に決まってしまった。
何と、ひょっとしたら今まで年長の役員を避けたくて立候補してたのだと思っていたお母様がたも皆普通にPTAをやりたくて立候補していたのか?
私は数名だけの役員を免れた親になったが、小学校では逃れられない気がするし、その時に未経験ってちょっと恥ずかしくない?大丈夫?と今からビクビクしている。
「卒業式で桜ノ雨」「お昼の放送でボカロ禁止」といった話題がネットに上がってから3年~5年、
ニコニコ動画におけるVOCALOID初期作品の『みくみくにしてあげる』や『メルト』からおよそ6年半。
青春の音楽=ボカロって層はまだ学生だろうけど、大学くらいでボカロに触れて楽しんだ人が教職に進んでクラス担任を受け持っていることはありえると思う。
すると生徒とくだけた話もするタイプの教師なら、ボカロ好きな生徒との会話を試みて
「先生が学生のころは〇〇Pを聴いてたんだよー」「そんなP知らなーい」「えっ」
といったシチュエーションがあるかもしれない。
でも私が中学校の頃はどんなに若い教師でも、私たち(のものと思っている)の娯楽にすり寄られるとウザいと感じた。
むしろ私たちだけがその娯楽の面白さを知ってればいいとさえ思っていたから、
冒頭で挙げたネタで出てきた「自分の好きなものを否定されて辛い」って感情は
否定してくる相手が同級生なら共感できるけど、教師だとできない。
モーニング娘。・嵐・浜崎あゆみ・宇多田ヒカル・aiko・椎名林檎・19・ポルノグラフィティ・Dragon Ash・BUMP OF CHICKENは私たちのもので、教師が入ってくるのを拒んでた。
「二宮くん可愛いよねー」より「私の1番は今でもかーくんなの!」という女性教師の方が誠実そうに見えた。
吹奏楽部が定期演奏会で『ザ☆ピ〜ス!』を下級生のダンス付きで披露したとき、飛び入りでダンスに参加した副顧問の男性教師にはかなり白けた。
一方で自身の思い入れのある曲・歌手・娯楽を紹介できる教師は、ちゃんと青春を謳歌して大人になったんだなと好印象だった。
『TSUNAMI』、『波乗りジョニー』の大ヒットで当時40代の教師たちがサザンオールスターズや桑田佳祐を熱く語った。おかげで男子に『マンピーのG★SPOT』が大流行した。
ドラマ『人にやさしく』でTHE BLUE HEARTSを知った子も多かった。体育教師は持久走の授業で『リンダリンダ』『TRAIN-TRAIN』をBGMに流して生徒が関心を示すと、どこか満足気だった。
一番印象に残ってるのは卒業式とは別にあった、教師のくだけた訓話と生徒の出し物がメインのお別れ会。
男子生徒のバンド演奏で2人の男性クラス担任がボーカルの子と並んで歌った、スピッツ『チェリー』。
『桜坂』は大ヒットしてたけど、後発の桜ソングはまだなくて桜ソング=卒業ソングというイメージもまだなかった時代。
それでも春と旅立ちのイメージで選ばれたんだと思う。
『チェリー』のCDリリースは96年。私たちは小4で、大流行してたJ-POPを主にテレビからどんどん吸収していた。
歌った先生たちは教員になったかならないか、でも『青い車』『ロビンソン』なら学生だった世代。
男子生徒たちは普段Dragon Ashを体をくねらせながらコピーしていたせいか『チェリー』だとかっこつけきれず、はにかむような顔を見せた。
先生たちは学生のころの気持ちに戻ったと言いながら、ノリノリで歌い終わったあと赤面してた。
お互いの照れがとても印象的だった。
これがスピッツではなく19だったら、あるいは尾崎豊だったら、生徒と教師が一緒につくった思い出としては今の私に強く残らなかったと思う。
当然、夢のなかの彼女はあの時のままだ。
僕は、彼女を好きになった覚えはない。好きな人は、別にいた。結果付き合わなかったけど。
最近の学生はお盛んらしいが、僕の通う中学は大して恋愛なんてなかった。付き合うと、すぐバレるからだ。ムラ、ではないが、一地方都市の恋愛事情なんてそんなもんだ。
箸が転んでもおかしいと言うように、そんな恋愛なんぞしなくとも、みな和気藹々としていて、しかし恥ずかしいモノは恥ずかしいとして、楽しかった。
思うに、人間が恋愛するにしても、生涯の伴侶()を求めるにしても、結局はこういう青春時代の延長線上にあるのではないか。言ってしまえば、憧憬。
話がそれた。
そう、夢のなかに彼女が出てきたんだ。後輩の。
僕と彼女は吹奏楽部の同じ楽器、同じパートを担当する関係だった。椅子も隣だ。
顧問が合奏中に話を脱線する度に向きあってニヤ付く程度には、すぐに打ち明けていたし、その程度のユルさを持った部活だった。当然コンクールでは大した成績が出るわけでもなく(といっても僕が最終学年のときは創部以来二番目にいい成績を収めたので、個人的にはハッピーエンドだ。終わってから、みんな笑顔だった。笑い泣き。)一般的な吹奏楽のイメージ―――文化系のなかの体育会系で、毎日夜遅くまで楽器を吹き鳴らして近所からクレームがくる―――なんていうところとは、違っていた。強かったのは、合唱部の方だ。こちらは、全国常連。気合の入り方が違う。文化祭の合唱コンクールでは、ひとりふたり増えたところで大した違いが出るわけでもないのに、合唱部の人数の多さが勝敗を決める、なんて技術教諭の担任が喧伝したものだ(もちろんそんなので勝敗は決まらなかったわけだ)
また話がそれた。
そう、彼女とはそういう間柄だ。
そういう間柄でしかなく、高校は親が転勤族で、僕が引っ越した都合もあって、それ以来連絡をとっていない。もう、彼女が名前を思い出すことはないだろう。事実、僕も、今朝その夢を見て目が覚めた後、名前が思い出せず、お別れ会でもらった色紙の名前を見て、彼女をはっきりと思い出した。彼女には、先輩からのメッセージをと、後輩に一通ずつ渡した手紙がある。彼女はそれを大事にとってあるだろうか?憶測の域をでないが、彼女なら、とっていてくれるはずだ。ちなみに、僕が中学生の頃は携帯電話というイロモノは高価過ぎてまだ学生が持つには早かった時期だ。とはいえ、じゃあポケベルかというと、それは遅すぎる。過渡期だった。ゆえに、中学時代の同窓とは今もほとんど連絡手段がない。連絡網はまだ家にあるが、繋がる期待よりも、「オメー誰だよ」というような至極もっともな反応が帰って来るだろう期待のほうが高い。すべきではない。ラグビー部の男の子が何年ぶりに電話をかけてお付き合いが始まるなどというのは、幻想でしかないのだ。生存バイアスである。
せいぜい庶民に許された道は、母校の技術教諭と体育教諭が結婚してヒューヒュー言われる程度が関の山。あれから10年経つが、今も結婚生活は順風満帆なのだろうか。新婚さんいらっしゃいに出るからとか言ってたが、ついぞ見なかった。うそつきめ。
またも話がそれた。これは宿痾なので、許して欲しい。
そう、彼女とは連絡が取れないのだ。取りようもない。
しかし、そんな彼女と10年ぶりに再開した。夢の中で。意味が分からない。もとより意味などないのかもしれないが。
ちなみにこれだけの情報をありありと書いているとバレるかもしれないけど、バレても構わない。僕としては、彼女の名前が後輩といえど、10年経っていたにしても忘れていたということに軽くショックを受けており、彼女とのあれこれを書きだしておきたかったのだ。
夢の中身は、あまりに意味不明すぎて、書きだす気にもなれない。若干甘美なときもあった。しかしその甘美なとき、周囲は津波に飲み込まれたビルの屋上に位置するマクドナルドの禁煙席であり、周囲には避難してきた人でごった返しているのだから、わけがわからない。夢の中なれど、友人が何人も飲み込まれた。というか知り合いで助かったのは彼女だけだ。まったくもってわけがわからない。これを見せる僕の脳みそは何を欲しているのだろう。目覚めたとき、僕のペニスは固くなっていた。しかし、悦楽に浸るような気分にもなれず、固くなったまま引き出しを漁って彼女の記憶を取り戻し、今こうして文を書いている。もう萎れた。
ちなみに、この情報で僕が誰かというのを特定するには難しすぎると思いますが、もし誰かわかった場合、生存報告の一種として受け止めてくれれば幸いです。
3.11、僕は生き延びました。みなさんはどうですか。同窓会に誘われる手段も残していませんが、みなさんが生きているなら、十分な果報です。
小学校低学年のころ、父の手帳を盗み見たことがある。なんとなく格好良いので、自分も欲しいと思っていた。
それで最初のページを見たら、僕に宛てて、
もし父が死んでも、泣いてはいけない。
と書いてあった。僕はそれを見て泣いた。思えばすぐに泣く子供だった。
それから十年もしないうちに、父は死んだ。
さすがに僕もそのころになると、服がうまく脱げなかったとか、女の子と一緒に遊んでいることをからかわれたとか、「コンボイ」と口にして「コンボイン?」などとまぜっ返されたくらいでは泣かないようになっていた。父が死んだくらいで涙など見せるわけにはいかないのだ。
葬儀はせず、火葬しただけ。父の友人とお別れ会をして、骨壷は持ち帰った。自分の部屋でベッドにもぐり込んで泣いた。
父はヘビースモーカーで、酒飲みで、博打うちだった。見栄っ張りで、家族より仲間を優先した。友人を助けるために海外に行って、しばらく帰ってこないようなこともあった。不倫もした。借金もあった。母との折り合いは最悪だった。
だからといって、父が嫌いなわけではなかった。口も手も早い、人生に挫折した教養ある皮肉屋で、稼ぎは少なく欠点も多かったが、僕以上に父を愛した人間がいただろうか、とさえ思うのだ。
あれからさらに十年ほど経つ。もうすぐ命日が来る。眠るように死んでいた父を見つけたあの日が。
子が親に先立つのは最大の親不孝と言われる。それはもっともだ。でも僕が言いたいのは——もう自分の父親に言うことはできないから——代わりに世のすべての父親に言いたいのは、勝ち逃げをしないでほしい、ということだ。
子供が、親をうち負かす機会を得ることのないまま親に死なれるということは、親が「越えられない壁」として、いつまでも立ちはだかるということに等しい。
だから、親は子供に勝ちを譲ってから死んでくれ。子供が十分な力を得る年頃になるまで死なないでくれ。
あなたの子供の代わりに僕が言っておく。