はてなキーワード: ザジとは
→みなさんいろいろコメントしてくれてありがとうございます。自己肯定感が高いわけじゃないのでは?というのはそうかも。puppintsさんのコメントにある「自分が一番かわいい人」って表現のほうが適切かもしれません。言われてみたらそんな感じ。
うまく説明できないままただ毎日すごくイライラしてしまっている自分が情けないのでここで吐き出して今後はあまり気にしない様にしたい。
自己肯定感が高すぎる後輩(♀25歳)が私にとってはうざすぎてつらい。
この後輩はそんなに悪い子ではない。別に気遣いができないとかでもなくてむしろたいていのことは普通の人よりいろいろ気が利く。決してお姫様的なふるまいをしてるというわけじゃないし上下関係とかも最低限は踏まえてる。ため口をきいたりはするが一応上の人間を立てるということは知ってる。積極的にいろんな提案をするし、営業の際にも物怖じせずはきはきしゃべるので結構お客受けもよい。多分部署の他の人間は彼女のことが嫌いとかは全くなさそう。
ただ私だけがつらい。
この後輩のそばにいるといちいち一つ一つの言動がカンにさわる。全く悪いことではないはずなのだが、自己肯定感が高すぎる。この後輩、自分の考えが正しいってことを全く疑わない。すごい当たり前のように他人にお願いして、それが断られると疑ってない。受け入れられる前提でべらべら話す。自分が思った通りになってない時は相手が間違っていると自然に考えて、そのように発言してしまう。自分の要望は優先的に対応されると信じて疑わない。さっき気遣いはあるって書いたんだけど、それはそれはあくまで頼んでなくても手伝いをしたりとかそういう話である。多分そういうことをやってるから相手が自分のお願いも聞いてくれるのが当然みたいな考え。
営業に行って、相手が自分の要求に応じてくれるのであれば、その範囲内ではいろんな気遣いを見せる。職場でも、自分の要求したことをやってくれる場合は猫なで声でアヂガドブゴザジバズーみたいな声を出したりする。一方で自分が誰かに頼みごとをしてる時に、その人がすぐに自分の頼んだことをやってくれてないとたとえ課長や先輩であっても「私が頼んだ〇〇がまだなんですけど?」とか平気で言う。あと、あいうえお順がおかしなExcelを送ってきて、問題があるから直そうとしたり実際に直したりすると「これ、私の送ったファイルの通りに出力してくてます?」とかいう。後とにかく作業中で机の上にいろいろ拡げてると「これ出しっぱなしになってますよ」と声をかけてくることが多い。 些細なことでもいちいち口出ししてくる。普通そこは遠慮するし、自分の仕事と関係ないことについて気にしすぎじゃない?そういう声掛けを他人にやってもいい、それでも相手は気分を害さないと思ってるのかな。私なんかが何か言ったら相手嫌がるんじゃないっていつも気にしながら会話してる私には理解できない。こわい。
そういう時に事情を話して「これはこういう理由で君の分はもう少し後だ」とか「こうした方が良いから直すよ」と言うと露骨に声色が変わる。普段すごい高い声でしゃべってるから低い声になるとすぐわかる。そういう風に露骨に態度変えても自分の立場はまずくないって思ってるのがまた自己肯定感高すぎでしょって怖くなる。
一つ一つはほんとどうでもいいことなんだけど、積み重なってくるとかなりうざい。とにかく自分押し付けてくるからうざい。自分受け入れられないとすぐ不愉快になるからうざい。そもそもお前のその自己肯定感の高さが、自尊心ミニマムな私にはほんまにしんどい。コミュニケーションが何でも直球すぎて怖い。 近寄られるだけで嫌だなって思うようになってきてしまった。
でも私の方が立場上だし、自尊心がないのは私の個人的な事情であるから、仕事内容に関する態度的なことについて、こういう言葉遣いはやめたほうがいいとか言ったときにこの後輩が納得できなかった場合は、セクハラとかマンスプレイニングとか言われるだけだろう。そして、この後輩、絶対に理解してくれない自信がある。だからただただイライラして我慢してる。
親にめちゃくちゃ甘や、愛されて育ってきたんだろうな。すげえ無邪気なだけだ。自分が愛されるのが当然だと思ってるだけっぽい。低学歴でセンター試験で50%も取れないくらい勉強とかは全くできないんだけど、営業やるならこういう人間のほうが絶対に強そうだ。私のような人間は営業なんかやるべきじゃなかったのかもしれない。
自分で書いてて結論出てきたけど、闇(ぼっち)属性の私が光(ウエイ)属性の人間に嫉妬してるだけだなこれ。そう思ってとりあえず納得しておかないと、どうせ他のやつは誰も彼女が問題とか思ってないんだし、私一人だけ悶々としてるだけ損だ。そういうことにしてこの後輩のことは私と違った人種と割り切って納得して気にしないようにしようそうしよう。
http://wezz-y.com/archives/49668
これを読んで思ったのは確かに、今の中高生は「不幸自慢」より「幸せ自慢」ばかりするなって思った。
俺が中高生だった頃って、とにかく周りのものが暗かった。民主政権、14歳の母、赤ちゃんポスト、リーマンショック、学校裏サイト、京田辺警察官殺害事件、秋葉原連続通り魔事件。ネットを見れば俺らの世代はゆとり世代だから出来が悪いやら、もう暗いものばっか。明るいものなんて一つもない。音楽も会いたいやら、失恋やら、雪の華がどうのこうのでくらいものばっか。そうなると、やっぱ皮肉というでもなしに自分は出来が悪いんだとなって嘆く。嘆くと周りも嘆く。そうやって傷を舐め合うのがネットの役目よ。
でも、今って全体的に幸せなんだと思う。いや、決して皮肉ではなくて。
経済はいい感じになってきて、殺人事件が起こったり過労死が起こってもマスコミはそれよりも政治のニュースを流して、ネットなんかインスタやらfacebookやらで幸せをアピールしてさ。一番思うのはやっぱ若者向けの曲。バカしたけどいつもそばにいてくれたおまえやら、失恋したけどいつものように接してくれる仲間たちや、親に感謝やら、前前前世からなんたらやら、ウェルカムトゥザジャパリパーやら、けものフレンズでMステ久しぶりに見たけどビックリしちゃうぐらい前向きで励まされる曲が多い。
そうなるとやっぱり、明るいものばっかり触れるようになるんじゃないのって若干思った。
よく「嘘松さん」とかいって夢女子のツイートが晒し上げに合うけど、あれもあれで幸せの印なんだと思うわけよ。なんでって周りが幸せに生きてんのに自分は落ち込んだ人生出会ってはならないと思える、ポジティブな思考だと思うわけ。
このエネルギッシュなスピード社会、事象の地平面をなぞるような理解が
当然のごとく横行し、脂ギッシュなまでにエネルゲイアが横溢している。
.
こと文筆業においてもそれは例外ではなかったのだ!
本来文章のぷろふぇっしょなるである彼らの失権ぶりには目に余るものがある。
そこの君はハンプティダンプティよろしく
と捲し立てるかもしれない。まあ卑近な例としてはそれが筆頭か。
もっともそれは氷山の一角に過ぎなくて根底にあるのは理解力の欠如なんだわ。
underlying lack of comprehension skillsだから。
.
なぜ理解力が不足してしまうかそのメカニズムを解き明かし説き起こさねばならん。
.
簡単に言うとスピード社会に人々が慣れてないということになる。
普段はスローなんだけど締め切りが迫った時だけ焦る。それが悪弊な。悪風は良風を駆逐する。
生活にメリハリつけるのは良いことだけど、メリの気持ちでハリに当たるから付いていけなくなる。
.
ではどうすれば良いのか?今こそ梁山泊を。
OJT(オンザジョブトレーニング)でやっつけ仕事を撤廃することだね。
仕事の疲れをクールダウンさせるクールビズタイムを儲ける。クールなサムライジャポンとして。
仕事に限ったことじゃないが、やる時は全力投球で、休む時はぐでたまの如く。
ハリの時は張り切ってやるはりはり漬けの張り子ちゃんの職習慣を君に。
.
この未来化計画のコア、いわゆる核(god)、別の言葉で目玉は、
冒頭に触れたるように数理的思考力の涵養、言語的読解力の醸成である。
.
言うなれば、コロボックルのコロニーか、はたまたボルボックスの群体のような軍隊。
そんな軍隊の規律正しい集団生活をイメージしてみるとよい。じゃがポックルなんて贅沢できねえ!
.
その結果、世界の、はたまた読書の色鮮やかさ(ビビッドネス)が全く違ってくる。
此をば古人は語りけむ。 眼 光 紙 背 に 徹 す る。
妻が技術書を持って帰ってきた。
妻はウェブエンジニア、とは名ばかりのなんちゃってエンジニアである。
素人の俺が見てもわかるほどのナメた姿勢で、先進的な技術を学ぼうともしないし、仕事を受けるのも積極的だはないようだ。
学生の頃はむしろしっかり者に見えていたから、その変化に最初は戸惑った。
俺が彼女に遅れること一年、社会人になり、仕事の感覚を身につけていくと、彼女の仕事に対する姿勢が気になりだした。
そんな彼女に、俺はこの先生きのこるには〜といったことを何度も言った。
生業としてその職業を選び、携わる以上、情報収集から訓練まで常日頃からことなうべきだと。
でも、その度、喧嘩になった。
妻は、本当は仕事は続けたくない、でも、稼ぐ必要があるからと言った。
話がそこに至るに及び、養えるほど稼ぎのない俺は沈黙した。
遅れて社会に出た俺は去年ようやく彼女の年収を超えた程度。養うにはまだかかる。
なんとかという人が書いた本の訳本らしい。
アサラーと呼ばれる歳に差し掛かった彼女の小さな変化だと思った。
俺は嬉しくなった。いよいよやる気になったんだと思った。
でも違った。聞いたところ、彼女は上司に読むよう指示されたのだった。
経緯を聞いてすぐに不安になった。その上司の考え方が危険過ぎた。
その上司曰く、仕事は実戦であり、家での学習が訓練であるという。だから、闘いの準備は家でして来いと。
建前ではあるが、仕事のトレーニングは仕事の中でこそ行なわれるべきだろう。
なにも手取り足取り教えるというものでもないはずだ。定期的にチェックし、アドバイスを与えるだけでいい。
次に、仕事に対する動機付けが人によって異なることを無視している。
妻は稼ぐために働いている。動機はパートタイマーと大差なく、世界を変えたいとか、社会を良くしたいとまでは考えていない。彼女は春と秋の旅行を楽しみにしている。
そして、一番驚いたのは指示内容だ。
曰く、
“この本を読み、学べ(ここまではいい)。それに従い、働け。
本の内容や、私の指示を無視しても構わない。
ただし、上司である私の指示に従わない以上、上司として責任は取らない。“
これはチームをまとめながら、仕事をする人間の言うことだろうか? 俺はこの上司を否定する。
妻の上司は、自らの価値観を強いているに過ぎない。期待しているのは自分のような人間、または自分のように働く機械なのだ。
妻の姿勢に問題がないとは言わないが、前のめりでないだけでやることはやってるはずだ(なんだかんだで少しずつでも昇給してるし)。
優秀なプレーヤーが優れたマネージャーになるとは限らないと言うが、これがその典型なのではないかと想像する。
協働者として敬い、彼らの仕事に対する動機付けを理解し、その上に教育があるべきだ。そしてその上に実地がある(もちろん理想は、だけれど)。
妻の上司は、それらを否定し、読む本すらも強要し、紋切り型のエンジニアを作ろうとしている。
それを騙しすかしするための小狡さも、フォローするためのマインドシップももっていない。
かつて、その上司のチームにいた女性が、方針についていけなくて退職したと聞いた。
上司は、その女性の姿勢やスキルが足りてなかったと言っていたらしいが、実際は違うだろう。
その女性は、自分の人生を選択し、上司の機械になることを拒否したにすぎない。
妻には、姿勢について改善すべき点はあるが、それは自主的に行われるべきだと思う。言いはするが強いるものではない。
彼女は彼女の人生の中で、職業を選び、働く理由があってそこにいる。仕事は人生の一部だ。
彼女の会社が潰れそうでも、堪えて働くのか、さっさと辞めるのかは本人の選択だ。
俺は妻に、転職先を調べておくべきだと言った。
チーム運営で最も悩む点は、多様な人間の背景と目的を可能な限り成果に向けしめ、ミッションを達成することだと思うが、彼女の上司は機械化することで悩みをないことにしている。そんなところにいるべきではないと。
武士ってよく分からない。
戦う人なのか単なる行政官なのか。
なつきさんの親戚には自衛官に警察官、消防士、救急と「公僕」が多い。
だけど、戦う、に関しては、
なつきさんちで語り継がれる戦いは「防衛」戦である。
拡大は商売によってなされた。
戦って名を上げ、領土を拡張するという武士のもう一側面はなつきさんちでは劣勢だ。
だから、東大→アメリカ留学という道で「名を上げる」ルートの評価は微妙な位置にある。
人工知能に注入されたのが、拡張を目指す知識欲なのは示唆的だ。
◆
その中でもっともそうした「縁」を体現するのはなつきの曾祖母だが、
この「縁」がくせ者だと思う。
戦うことと縁には考えればすぐ分かるように固有の緊張関係がある。
ゆえに平時には縁が強調され、
戦うは非常時に押し込められる。
だが、名を上げる、には「競争」が必須であるように、
戦うは非日常に封じ込め切れるものではない。
サマーウォーズを観ていての一番のひっかかりは、
曾祖母が掲げる「負けない(戦う)」と「つながり」の矛盾を映画が解ききれていない気がしたことだ。
縁にはレイヤーがいくつもある。
黒電話で活躍する曾祖母のネットワークは、平和と危機のコントラストの中では機能するが、
恒常的な闘争状態ではどうだろうか。
こうして、戦う、との矛盾が最小限の、
一致団結したつながりとして親族が浮かび上がる。
だが、親族には血による縦のラインとは別に、
婚姻によって拡大する側面も存在する。
この婚姻の困難を、主人公が引き受ける。
婿ドノは他人なのだ。
他人を親族に引き受けるために、曾祖母さえ約束(契約)の形をとらざるをえない。
◆
曾祖母は、負けない、と、つながりに加えて、
飢えない(食べる)も示すが、
これもうまく掘り下げられてる気はしなかった。
戦うと縁の矛盾は、婿ドノの困難に関しては、
戦ってる人はかっこいい!(恋愛)というモメントで解消されるのだけど、
それは、悪くはない。
でも、戦ってる人はかっこいい(cool!)って感じで、
戦いに必要な数が動員されるのは(分かっててもグッとくるだけに)なんだかなあ。
セカイ系?
サマーウォーズの中で訪れる危機は、
セカイ系でしょうがないって気にさせもするけど・・・
親族は中間項たりえてない気がする。
◆
映画の観始めに考えていたのは、
戦うと縁とかではなく、
エンドレスエイトが終わった時の実況のまとめスレはさらにすごい。
皆が、キター、っていうことは、確実に目眩がするぐらいの心の打ち震えをもたらす。
グッとくる。
映画の中の、コイ!、も同じな。
ただ、この量的な過剰さが「溢れる」ことによる感動は、
AAが崩れて、いくらスクロールしてもパチパチやキターが続くのはなかなか圧巻。
だけど、同じ理屈でいくと、
映画館のスクリーンにこの種の「過剰さ」による感動は向くのかという疑問がわく。
このグッとくる感じは、映画の「細部」がもたらす「豊かさ」とは違うと思う。
定義はしない方がよいだろうけど、
人はこの二者を別物として感じると思う。
記号としてのモノは溢れていても風景はない。
(細野さんらしい)
初め「家」に見えたものが増殖して「城」とか、あっと驚く瞬間はあるけど。
記号としてのモノの、数量的な過剰さ。
画面を「文字」が溢れて埋めるんだから。
戦う、と、つながり、と数量的なものを、
戦ってる人はかっこいいからつながる(恋愛&数量的なcool)以外で見せてほしかった。
見逃してるだけなら教えて。
◆
以下過剰書き的に
・アニメで横にパンするってすごくない?
受けるというかザッツザジャパニーズアニメ!って感じにもてはやされそう。
船て
・止めて、が世界の話と個人レベルをつないでて、セカイ系な感じ。
・公僕が、より大きなおおやけのためにルールを無視するあたりも好き。
・やっぱ、おばあちゃんが何を望んでるのか、
伝統か、負けないことか、勝利か、飢えないことか、つながりか、
明確でないことがダメなとこな気がする。
そのせいで、各人の心理が論理的でない。
そこを、グッとくる、「情」で押し流してる。
・ただ、曾祖母が「生きてる」こと、
人が生きて死ぬことの中には、
そんな矛盾とか織り込められてる気もするが、
半ば死んだ英雄、神話にしてしまっている気がした。