音源流すだけでしょ
奨学金返して終わりじゃねえか?
凄いリアルな絵が飾ってあるだけ。
完成品を見ながらレタッチしてるから加工写真よりも更にリアルっぽく見えるだけ。
館長の個人的な出資の影響が見え隠れする若干気持ちに余裕のある題材の作品が多いだけ。
写実風景画の方向に進んでいる人もいれば、幻想風景画っぽい人もいて、想像よりも作品の幅が広いだけ。
エヴァのコスプレしてる人の写実画とか、子供の遊び風景っぽいのとか、そういう日本的な風景の絵もあって地域密着性みたいのも感じられるだけ。
昔の名画を現地行って別角度から描いたオマージュ作品や、写実を活かした哲学的な問いかけの作品もあって意外と飽きないだけ。
建物自体が一つのアートとして存在しながらも、落ち着いた雰囲気で導線もシンプルな回りやすい建築デザインになっているだけ。
企画展示はスマホサイトと連動していて各作品ごとに作家の細かい解説が見れるだけ。
本当にただそれだけの美術館でしょ。
別にわざわざ行くほどではないと思う。
延々と泣き続けてどうにもならないこと言う子供相手なら専業主婦でもぶちぎれるわ
最初はごめんね、と慰めていた母もだんだん苛立ってきて、じゃあ仕事辞めたらいいの?と叫んで机の上に山積みになった本や書類を床に叩きつけた。母も限界だったんだろう。今なら分かる。
メモ帳アプリの片隅で、四年前の下書きを発見した。せっかくだから供養のつもりでここに書き留めてみることにする。
ちなみに今ではこの状態が当たり前になったようで、過敏な反応はなくなった。しかし音楽に対する興味が大幅に減じたことは変わりがないように思う。そして何とも奇妙なことに、この文章を自分で書いた記憶がほとんどない。自己紹介が一致しているので、確かに自分が書いたのだろうが、それでもまるで他人が書いたかのような気持ち悪さが残る。思い返せば、記憶の健全性が感受性に影響を与えた結果なのだろうと思う。四十歳そこそこの年齢でここまで記憶が薄れるものなのかと、ただただ加齢を呪うばかりだ。
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数日前から、音楽に対する感受性が急激に変わってしまい、困惑している。
この変化をどう捉えるべきか自分でも分からないまま、こうして文章にしてみた。
まずは自分のことについて。30代後半、職業はIT系のエンジニアでほとんど在宅勤務をしている。趣味は映画やゲーム、そして音楽。いたって普通の生活を送っている。音楽に関して言えば、2歳から15歳までピアノを習っていたが、パソコンに夢中になってからは興味を失い、それ以降は真剣にピアノと向かい合うことはなくなってしまった。それでも音楽を聴くのは好きで、日常的にストリーミングで何かしらの音楽を流している。昔はCDを買っていたが、最近は好みのジャンルのMixやラジオを流すことが多くなった。
大抵の場合、それはドラマの挿入歌やお気に入りの曲、直前に聴いたものや何度も聴いたものだろう。自分もそうであり、特に違和感を感じたことはなかった。だが、ここ数日、全く異なる現象に見舞われている。
「覚えのない曲が流れ始め、懐かしさを感じる」のだ。
矛盾しているようだが言葉通りの意味だ。「覚えのない」というのは、音程やリズム、発音がぼんやりとわかる程度で、鼻歌を歌えるかどうかも怪しいレベルと思ってほしい。それでも、その鼻歌に対して「ああ、この感じ、昔に何度か聴いたことがあるような気がする」「何かのコンピレーションに入っていたかも?」という哀愁を伴う感傷的な心情が湧き上がる、なんとも奇妙な状態なのだ。
そして、とにかく次から次へとうるさくて仕方がないのだ。
あまりにうるさいのでいつものようにYouTubeで適当な音楽を流し始めたのだが、ここでも困ったことが起きた。
「初めて聴いたはずの曲に、懐かしさを感じる」のだ。
参考までにその時のURLを貼っておく
https://www.mixcloud.com/catalin-iovu/best-of-trip-hop-downtempo-hip-hop-instrumental-vol-2/
ほとんどすべての曲に対して、さっきの頭の中に現れる鼻歌と同じような感情が湧き上がるのだ。懐かしい(ような気がする)曲が続くので、自分の持っていたCDを丸ごとサンプリングしているのではないかと詳しく調べたりしたが、どうやらどんな曲に対しても起こっていることがわかった。
この出来事を境にして、音楽への向き合い方が激変してしまった。
自分は音楽ジャンルという枠のなかで創造される、音作りの多様さや新規性、奇妙さを楽しんでいた。それらがすべて「懐かしい」という感情に塗り潰されてしまい、素直に楽しめなくなってしまったのだ。
もしかするとこれは、加齢による感受性の変化で、誰にでも起こり得ることなのかもしれない。音楽への思い入れが強かった分、強い違和感を感じただけで、心配するようなことではないかもしれない。
とはいえ、できることなら元の感受性に戻りたいし、その方法が知りたいと思っている。
もし同じような経験をした方がいたら、話を聞かせてほしい。
いやコピペはどうでもいいんだけど
君はKadokawaやLineやJAXAなんかのエンジニア以上なの?
セキュリティーエンジニアとソフトウェアエンジニア(アプリケーションデベロッパー)とクラウドエンジニアとネットワークエンジニアの違いとかわかる?
わかるなら君はどのエンジニアなの?
これは戒めです。やらないぞ、という。
無心で絵や漫画を描いていたらTwitter(X)のフォロワーが気付いたら3000人になっていた。見ていただき感謝しかない。本当にありがとうございます。
仲良くない人に連絡を返すのが億劫なのでフォロワーに対して己のDMを開放していない。
が、Twitter(X)の仕様で此方がフォローしている人々からのDMをやめさせることはできないらしく、付き合いや流れでフォローを返した、いわゆる自分のファンというものを名乗ってくれている人からたまにDMがくる。
返すのは億劫だが返さないのもまた気持ち悪く、しかも私の絵を楽しんでくれているファンを蔑ろにもしたくないので自分が思うベストな丁寧さで返信を行う。
やりとりが続くと、私自体の人間の部分についても言及してくるようになる。
作品のここが好きです、からあなたのここが好きです、になっていく。
嘘つけ、何も知らないだろとは思わない。
私は多分世のインターネットで絵の投稿をやる人間の中でもかなり自己肯定が上手いタイプだ。
絵が褒められるのも自分の人間性が褒められるのも「そうなんですよね」と頷くことができる。冗談の範囲で。
この自己肯定力の高さの所以は自身の能力の高さではない。むしろ低い。かなり低い。絵だってかなり下手だし漫画だってくそつまらない。性格なんて下の下だ。毎日インターネットで誰かが喧嘩しているのを見ながらしか飯が食えない。意地悪で他人の役に立たない人間だ。
でも見てくれる人に対して「どうせ私なんてだめですよ」と表明するのは、事態を好転させたいなら無意味だと思っているのでやらない。
「どうせ誰も見てくれないんだ」という文字が大多数の人間に与える印象は、そのまま「この人は誰にも見てもらえないんだな」ということだ。
だから私は褒めてもらえるときはそれを肯定するし、自分が悪いと思っていて嫌われているであろうと思っても弱音は公開しない。
ということもあり、他人に見えている私は弱音吐かないし作品は自分の納得いくものを継続的にあげているし返信は丁寧だし、多分とても良い奴に映っている。であろうと思うので人間性に言及され、良い人と評価されてもそうでしょうねと思う。
長い付き合いな友だちのほとんどは私の弱さやくだらなさや悪さを知った上で長く付き合ってくれている。
その人たちは私の作品のことは知らない。ただ人間同士の付き合いでぶつかり合ったり支えあったりして構築させてもらった人間関係だ。
でも最近はみんな結婚や引越しなどをしてしまい精神的にも物理的にも遠くなってきてしまい、私は今大きく育ちつつある孤独心と戦っている。
そういう時にファンに裏で人間性まで褒めてもらえると、大部分が私が一生懸命作った性格の良さとはいえ、少しずつ弱音を開示すればこの人もたった1人のお友だち、恋人になってくれるのではないかと思ってしまう。
よかったらもっとお友だちや恋人になってくれませんか、と言ってしまいそうになる。
でもグロいよなーと思う。
私がこの人に特別な関係になって欲しいと思うのは私のことを傷つけなさそうだからだ。ファンだから。
もし傷つけてきたらかなりムカついてしまうと思うし私を否定しないというファンとしての心が無くなったなら不要だと判断してしまうと思う。
補足だがファンだからといって否定してはいけないと思っているわけではない。今やりとりしている人がそういう妄信的なタイプなのでそう書いた。
これまで構築してきた友だち関係と違ってその嫌な距離感がグロい。そんなものは良い関係性とは呼ばない。
なにが言いたいかというと、ファンは作品が好きなだけであって、そこから人間性まで知って好いて欲しい、と要求するのはグロいということ。
そして私は最近それをやりそうになっているので絶対にしないぞ、という戒め。
というか最近は孤独の膨らみにより一生一緒にいてくれる彼氏が欲しくなり過ぎてこんなこと悶々と考えてしまうんでしょうね。絵とかファンとかもう関係なく、グロいというよりキモい思考だ。あー。
おはようー
おはますー
まぶたをこしこしすると
睡眠の鬼があらわれて
雲がぱかんと弾けるみたいに
思考が散り散りになり
なにも考えられなくなりたい
睡眠の鬼は
よっこらしょと
尻尾をぶおんと振り回し
そのうちむにゃむにゃ眠るのですわ
b:id:hajakun の知能が低すぎる…