ニギ…ニギ…
上下関係考えたら当たり前だろ……
思えば低能先生がああなったのももとは俺がいじめすぎたからな気がする。
頭悪いくせに態度が大きく議論ごっこを挑んでいたからめちゃめちゃにいじめた。
そしたらあのスタイルへと変化した。
・X で裏垢作ってハメ撮り投稿する
・グレーな仕事に全力で振り切る
一見すると理解に苦しむような事に没頭している人が、最終的に一般人ではありえない金や経験を手にしてると思う。言いたいことは、人生謳歌したければ他人が引く事を全力でやれって事。
お前の指摘は「ここは美化になっていない」とか「もっとこうすれば美化する余地がある」ってことだけど、それじゃ反論にならないな
「部分Aが美化になってる」に対して「部分Bは美化になってない」と言っても、部分Aが美化だという主張の否定にはならないだろ?
すでにお前は反論が成立しないところまで後退してるんだよ
つまりコロンブスたちは物質的には豊かでもモノを知らない猿を教えて指導してあげる立場なわけだ
植民地支配を正当化するために当時から利用されてたのと同じ構図だよな?
そういう構図を楽しげに描くことが結果として美化になったってことだ
俺は美化になってる理由をこうやってはっきり説明してるだろ?お前はそれを否定できてないよな
わざわざお前が持ち出してきたピアノのシーンをあえて取り上げて美化になってる理由を説明してやったんだから、お前もちょっとは頭使えよ
実際にはまだ生きてるんだけど、自分の愛していた親友は多分死んで、もう戻ってこないんだろうと思う。
親友は発達障害だったらしい。大人になってからわかったそうだ。親友の様子が少しおかしい時期にわかって、誰にも話さずに薬を服用していたらしい。最初の頃は副作用で辛くて、それで、本当に無気力になってしまっていたんだと、コロナ禍、スーパーのカレー屋さんで向かい合ってた時に急に教えてくれた。多分その時に自分は「わかって良かったじゃん」「薬ってどんなの飲むの?」「楽になるなら本当に良かった」「これから元気になってね」みたいなことを伝えた。様子がおかしな時期の親友はいつも無表情で感情の起伏も少なく話しかけても気だるそうにしていて、少し怖かったから、原因がわかって対処もできているなら、ホッとした。「勉強してみるね」と言って帰った。実際本当に勉強した。本も読んだし、youtubeで動画もたくさんみた。親友の飲んでる薬は本当に、悪いものじゃないと思った。
親友とは大学が同じだった。多分、とても気が合っていたんだと思う。ふと、思い立った疑問を、親友に投げかけると想定していた10倍の言葉になって返ってくるのも、自分の何倍も何倍も時間を費やして言葉にしてくれるのも、愛おしかった。同性だけど、結婚できれば幸せだと思うほどだった。自分がもっと稼げたら養ってあげたいくらいだった。親友は頭が良くて優しい人だけれど働くのが苦手らしかったから。それでも本当にずっと遊んだ。夜、急に話したくなって電車に飛び乗ったこともたくさんあった。深夜のファミリーレストランで息が苦しくなるくらい爆笑した。楽しかった。本当に。親友と話している時間が世界で一番満ち足りていた。
親友は大人になってから発達障害だと分かった。私が愛していた親友の最高に大好きなところは、今はもう、薬に抑え込まれてしまった。もう、多分、二度と会えない。
一緒に出かけてもあんまり笑ってくれなくなったし、話しかけてもつまらなそうに返事をして、それだけになった。多分、自分の話にも、興味がないのだとわかるのだ。悪気がなく。それはもう、薬の作用なのだから仕方ないことだ。
親友は仕事がしやすくなったといった。それでも無気力は自覚してるようで平日は元気に軽くするを飲んで気分を上げて仕事をしているようだ。土日はその気分を上げる薬は飲まないので、会っている時は大体真顔でどこかをみている。この元気になる薬を飲み始めてから、余計に、会う時暗くなったと思う。たまに笑ってくれるけど、本当にたまにだ。飲み合わせを検索したけれどよくわからなかった。親友は、仕事ができればいいのだろう。その考えは正しいと思う。
親友は誘ったら断らない。今はまだ。自分以外と多分、ほとんど遊んでないと思う。本心はつまらないと思っているかもしれないけど、親友も、私と遊ばないと本格的に仕事しかなくなるとわかっていて、でも同時に、仕事しかしたくないのも本音なんじゃないだろうかと思うのだ。わからないけど。一緒にいても楽しそうじゃないから。
親友の飲んでる薬の名前を調べてみた。副作用はそんなに強くないと出てくる。それでも本当に全然違う人になってしまった。自分も、どんな気持ちでそばに居ていいのかわからない。離れたくない。笑ってくれなくても友達でいたい。でも、やっぱり寂しい。違う人の隣にいる気がする。
でも後半は疲れた顔をして、たまに真顔になっていた。疲れたから、一人で先に帰った。
親友は生きてる。
生きてるのに、死んだような気がする。
どうすればいいんだろう。
どうすればいいのかわからない。
さみしいだけだ。
つい最近父型の祖母が死んだ。子供のころから耳を患っており、音声を介した会話はできず、意思疎通には文字または手話が必要な人だった。
障碍を持っているがゆえに教育機会にも恵まれず、文字コミュニケーションをしても知能の遅れが感じられた。
子をなすことと家事・育児が彼女の成人後の人生の全てだった。彼女にとっては通常の人間が行う様々な所作が重労働であっただろうことは想像に難くない。
彼女は常人に追いつくための努力をしてそれらをこなしていた。そんな、尊敬に値する女性だった。
障碍をもつ祖母を娶った祖父はどのような人間かというと、田舎で運搬を行う低収入の肉体労働従事者であったらしい。彼らは出会い、4人の子を成した。そして祖父は4人目の子が15歳の時に事故で死んだとのことである。
そのなかの3番目の子が私の父であった。父の話によれば、彼が17歳の頃に祖父がトラック事故を起こしたらしい。即死ではなく、大腿部の切断を行った。
治療はうまくいかず。普段は見せないような痛みに耐えきれぬ泣き顔を時折見せては、子供らが見守る中息を引き取ったという。
祖父の存命の時から家庭は貧困状態にあった。学も財産もない人間が4人も子を成したら、それは大変であったろう。
貧しい家庭では教育よりも労働が優先された。長兄には教育が必要とのことで高校教育を受けさせたが、次男・三男坊に教育の猶予はなく中学卒業後肉体労働を課せられ日本全国方々に散った。末子は祖父の保険金で地元の高校に通うことができたという。
父は中学卒業後、身寄りのない関西に送られ、その後中部各地を転々とすることになったとのことだが詳しくは聞いていない。彼も、話さない。
長兄は家を継ぎ母と住み続け、その後末子は高卒だけあってよい企業の工場に勤め先が決まり家を出た。このあたりで次男は消息不明になったという。女性関係とのことだが詳しくは聞いていない。今や生死もわからない。
ところで母方の祖父母の話に移ろう。彼らは一般的な農家の生まれであり、裕福でも貧乏でもない育ちの人間であったが、どちらも体が弱かったため将来的に介護が必要となることが懸念されていた。両家余り物を押し付ける形で成立した婚姻であった。
そこで生まれたのが母である。母には個人としての意思は認められていなかった。なぜならば生まれながらの介護要員だからである。
その数年後、弟もできたようだが幼くして死んだ。弟が死に益々気力・体力を失った祖父母は母に未来の介護を切望するようになった。そのような母が他家に嫁ぐことなど許されない。
そこで紹介所を介して婿養子として選ばれたのが長子でもなく自身の家庭を築くほどの経済力も持たない、立場の弱い男である父であった。
母は歪んだ人間である。なぜなら介護が人生の全てであるから。人生に選択肢はなく、子供のころから祖父母の介護のために存在していた。友人関係も希薄に「されて」いた。
そのような都合のいい子しか知らない祖父母が父を婿養子として迎えたわけである。父の人間としての尊厳は最初からなかった。結婚の翌年私が生まれ、翌々年弟が生まれた。
時はすでに平成になっていた。世間体とは大変ありがたいもので、親戚づきあいを浅く保っている拡大家族においては昭和時代のようなあからさまな家庭内暴力は起こらなかった。
母の歪んだ奉仕心は、幸いにも夫や子にも向いていたため私はきちんとした公教育をうけることができていた。塾や習い事、玩具などへの投資は殆どなかったものの、私や弟も義務教育を周りの子供と同水準で享受することができた。制服も入学時に新調してもらえ、修学旅行も参加できたため、最貧層の子供よりは大変良くしてもらえた。父は祖父母から金銭を奪われ、労働のみを人生としていた。生活費との名目で稼ぎを家計に吸い取られていたようだ。
そんな時、父方の長兄が死んだ。事故死だった。未婚であり嫁子供はいないものの、その頃には父方の祖母は衰弱しており、介護を必要としていた。
そんな機会に自身の生活に限界を感じていた父は、なんと仕事をやめて離れた実家に帰ってしまったのである。
...
そこから家庭を顧みない介護生活編が延々と続き、父方の祖母は父の労働リソースを奪いつつ丁寧に介護されて穏やかに死んでいき、一方で父親が消えて崩壊した家庭が残ったのだが、書き疲れてしまった。