「だいしゅき」として創業されたが、その後発展して持株会社「だいしゅきホールディングス」を新たに設立して「だいしゅき」はその完全子会社という形におさまるんだけど、何年か経って「だいしゅきホールディングス」が「だいしゅき」を完全吸収合併して同時に「だいしゅき」に商号変更みたいな糞ややこしいムーブ、日本企業よくやらかすよね。あれが嫌いです。モヤシとシイタケの次に嫌いです
😷 口隠して顔隠さず
スポーツとして成立している格闘技はあってもいいんじゃないか?
アマチュアレスリングとかフェンシングとか柔道とかテコンドーとか。
プロ格闘技興行(エンターテインメント)として成立している格闘技は、残念ながら特定の種目がなくなっても困らないし、栄華盛衰も激しい。
スポンサーがついてくれる限りは続けられる。
一回の興行が中止になったら路頭に迷うだなんてのはバクチに等しい。
👕🌞柔軟仕上げ剤かな
今、ニュージーランドでは、市中感染抑制のため、同居している人以外とは、屋外でも 2m の間隔を取ることが要請されています。屋内ならなおさらで、会議も席を空けて座っています。日本で、満員電車から市中感染が爆発していないのが不思議ですが、その秘訣を真剣に分けてもらいたいところです。— レイ@毎日がロードムービー T30 K12 🚘📷🎹💻🏥🇳🇿🇯🇵🇺🇳🏳️🌈 (@wagonthe3rd) March 24, 2020
誰か教えてあげて
( 2 ) おいでよ どうぶつの森
どうぶつの森とは、2001年に 1 作目を発売したゲームのシリーズである。マリオやポケモンのような動物を殺すことを楽しむゲームとは違い、動物の世界で人間が暮らすことをコンセプトにしたゲームである。この作品において、動物と対等に生活を送っている以上、動物差別などとはほど遠いゲームのように思われる。現に、愛護団体から、どうぶつの森が批判を受けているという話を聞くことはできない。どうぶつの森は、主人公以外はほとんどが哺乳類の動物が生息している空間であり、その空間で、釣りをしたり、昆虫を採集したりする。また、採集したものをスーパーに売って報酬として金銭を得ることや博物館に展示することができる。動物と共存する姿にだけフォーカスすれば、批判される対象というよりもむしろ推奨される存在にも感じられるだろう。しかし、ここにも人間至上主義的な側面を見ることができる。それは大きく 2 つの側面から述べられる。 1 つ目は動物のなかの区別が存在すること、 2 つ目は動物社会で生活するといわれながらも、生きている社会が人間社会であることだ。 1 つ目は前述したように動物の中に階層を作り出している点である。どうぶつの森では、主人公以外全員キャラクターが動物であるため、虫や魚を売る相手も博物館に動物を公開する相手も必然的に動物になる。動物のなかでも、魚や昆虫は搾取される側で、権利を迫害される。そして、哺乳類をはじめとする動物は、この世界では搾取する側なのである。どうぶつの森では、作中に主人公以外人間が存在しないため、他の作品よりも動物間の階層が色濃く読み取ることができるのだ。本来は、動物間において殺害や自由の拘束が権利侵害にあたるのかというと明確ではない。野生のなかで相手を殺す状況は自然であるからである。しかし、この場合は適用できると言えるだろう。その理由にもなり得るのが二つ目の論点である。それは、どうぶつの森という題名からは、ほど遠いほど、生活空間が人間社会なことだ。例えば、取引には通貨が用いられ、娯楽として博物館や釣りが存在する。動物と共存する社会象が、自然ではなく、人間社会であることは人間中心のステレオタイプが存在すると言えよう。人間が自然のなかで生活をするのではなく、人間の生きている世界に動物が存在するということであるからだ。
ただ、上述したとおり、この作品に対する動物愛護方面からの批判は加えられてこなかった。以上の観点から、この理由として、動物愛護者の立場でもステレオタイプに動物の種類に対する差異を認められており、かつ人間社会と野生社会の関係を対等として認識していないということが言える。毛皮をとることや、戦わせることをはじめとしたシンガーの原則を受け入れながらも、そこには人間を中心とする明確な意識が存在する。
マリオ、ポケモンのような明らかな人間至上主義とどうぶつの森のそれは、大きく社会的な見られ方が異なっている。ゲームのコンセプトの違いが存在していることは自明であるとしても、そのほかに、発売時期が関係していると考えることができる。動物愛護の社会的風潮が広がったため、動物軽視的な発想が明らかに反映されているゲームを制作者側は作りづらかったという側面である。現に2002年から CERO という非営利団体が結成され、対象年齢を決めることを業務としている。この一年前に発売されたどうぶつの森は、年齢制限が設けられるかもしれない状況下で制作がされていたのである。この制限が設けられたことにより、例えばこの 2 年後に発売されたモンスターハンターは、対象年齢が15歳と設定された。ゲームに対する社会の変化は、暴力性、性的、反社会的表現という倫理的な諸問題の中には、動物愛護についての社会風潮も存在しただろう。それには、以下のことが理由に挙げられる。近世における動物愛護関係法令の移り変わりでは、1973年に「動物の保護及び管理に関する法律」として、保護動物の虐待・遺棄の禁止、動物愛護思想の普及啓発、動物による人間への危険の防止が法令化され、1999年には「動物の愛護及び管理に関する法律」として、以上に加えて、愛護動物の虐待・遺棄の防止、動物取扱業に対する規制が追加されたのだ。同時期に発売されたゲームに上述したモンスターハンターがあること、また、動物軽視が顕著なゲームシリーズが続いていることから、社会の変容にゲームが必ずしも対応するわけではない。それはゲームのアンタッチャブルな特性によるものだ。それでも、どうぶつの森は社会的に批判されない作品であり、もちろん時代背景を踏まえても批判されない前提で制作されたものだと考えられるが、根本的には動物軽視の視点が含まれている。これは、社会において、動物愛護の風潮が高まりステレオタイプが変化したにもかかわらず、深層的に根付いたまま存在していると言えよう。また、長年変化せずにシリーズ化する作品からもステレオタイプが再生産され維持されていることが認識できるだろう。
みんなこんな気持ち悪いゲームに夢中になってたのか。これに対して批判の声がひとつも出てこない日本社会の前時代性やばすぎるだろ。狸にでも化かされてるのかな
後の種付けおじさんである
なんだろ?って調べてみたら、日本じゃ事件にさえならない、よく起きてるやつじゃん。
イイ子を産むんだよー👶💖
元増田です。
会社で禁止されるのは、立場の問題もあって女性側が言われることに抵抗できないから。
一つ勉強になったね!
セクハラという概念が適用できても、一般社会ではセクハラにはなりません。
そんな適用事例はないんです。だからあの太田弁護士が「環境型セクハラのようなもの」と言ったが為に批判されたのです。
ハラスメント行為は企業などの団体内部でしか発生しません。なぜならハラスメントは労働問題だからです。
これを一般社会に適用し始めたらどうなるか、想像すればわかります。
コンビニで女性店員に「君、可愛いね」と言っただけでセクハラになるのであれば、訴えればいいのですよ。
そんなの、しかしあり得ません。
「おっぱい見せて」なら迷惑行為で逮捕もできるでしょう。しかしセクハラはそうではありません。
ハラスメント行為はあくまで労働環境にしか存在しないからです。
性的言動はたしかに慎むべきではあります。でも無制限にそれを適用し始めたら、「あれは不快に思った」だけならば、どんな言葉でも訴訟起こせてしまいます。そうなったら無茶苦茶ですよ?
会社は利害関係、権力勾配、支配関係等があり、同じ職場にいなければならないのだから、不当な扱いはセクハラなど認めていいはずはありませんが、一般社会はもっと緩やかなものです。見たくないなら見なければいい、ということが十分通用するわけです。
あの人嫌だな、とおもったら近づかなければいい。
任天堂は前から批判されてるぞ。はてなーはいい加減洗脳から覚めろ
なぜ米国で『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が反人種差別主義のシンボル的存在になったのか? 「マリオは金と女のために戦うがソニックは違う」 | ロケットニュース24 https://rocketnews24.com/2017/08/19/941141/
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なぜ、彼がソニックを選んだのかというと、ソニックは反体制のヒーローで、いつも全体主義体制に反抗してきたからなのだとか。全体主義とは、個人の利益よりも全体の利益を優先させる政治体制のことで、ナチズムやファシズムもこれに相当する。
また、彼はTwitterで「スーパーマリオは金と女のために戦うが、ソニックは正義のために立ち上がるんだ」ともコメント。ソニックは反人種差別主義を訴えるキャラクターとして、まさに適役だったのだ。
「マリオもキモイ」から始まる【お気持ち】論争 - Togetter https://togetter.com/li/1314208
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Sophia @studentFem_N
マリオもキモい。マリオみたいなおっさんとピーチみたいな若くて綺麗な女がくっつく展開、小学生の頃からキモい無理と思ってた。男キャラはブサイクなおっさんばっかに加えていくらでもバリエーションあるのに、女キャラはほぼピーチとデイジーくらいで、特徴は「若くて綺麗」なだけ。
マリオにみられるメディアとしてのゲームの再考 https://keiolaw.org/wp/wp-content/uploads/2019/06/173-197_%E8%8A%A6%E7%94%B0%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8A%A0%E6%B0%8F%E3%83%BB%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E9%9B%85%E5%BF%97%E6%B0%8F%E3%83%BB%E9%87%91%E6%9D%B1%E7%86%99%E6%B0%8F%E3%83%BB%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%9D%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E%E6%B0%8F%E3%83%BB%E8%97%A4%E6%9E%9D%E6%9C%89%E5%92%B2%E6%B0%8F.pdf
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1 はじめに
マリオの世界において、主人公がマリオで、姫がピーチという図式は変容していない。それと同時に、敵は人間でないという図式も同じく変容していない。マリオは道中で、キノコを具現化しているクリボーや、亀を象徴するノコノコを殺してゴールへと目指す。そしてボス戦では巨大な亀の怪獣を思わせるクッパを退治する。他にも「敵キャラ」と示すことのできるものは、花や魚などのように必ずしも人間のキャラクターでないことを共通項として述べることができる。同じキャラクターにはそれぞれに差異がない「アイコン化された」動物を殺すことで物語が進むのである。ゲームにおいて、マリオはキャラクターを一匹踏み殺すごとにコインという形で報酬をうけ、それが百コイン貯まるとライフが 1 つ増えるという仕組みを採用している。抽象化していえば、人間が動物を殺すことは正当化されているというより、むしろ推奨されているのである。ここには動物に対して、なにか絶対的な根拠を持たずに敵視し迫害するといった人間の種差別的な側面が明確に現れていると述べることが可能であろう。動物は人間により搾取される存在であり、人間は、当たり前のこととしてそれを教授する。現代において、動物差別をはじめとする種差別は、非難の対象になり得る。例えば、各国は、日本の伝統的な捕鯨猟に対して難色を示し、駅前では動物愛護をうたって募金活動をする集団も珍しくはない。つまり、現代の社会のなかで、動物の権利という論争は、珍しいものでなく、社会に広く浸透した論点なのである。しかし、マリオの世界観において、動物愛護派の目線から作品が提示されたことはない。構図は変化しないのである。それはどのような理由によるものなのか、社会とゲームはどのような関係性を持っているのかということについて本論では考察する。
お前がママになるんだよ