「外部性」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 外部性とは

2013-01-26

軽減税率にも擁護論はある

軽減税率にも擁護論はある

はいっても推進派にとって残念ながら、逆進性の改善によるものではない。

軽減税率の逆進性改善有効性の低さは折り紙つきで、費用にぜんぜん見合わないというのは多くの研究で一致するところである

軽減税率に対する擁護論

の3点から来る。

ラムゼイルール ~ 贅沢品に軽減税率適用すべし

需要価格弾力性が高い財ほど低い税率、需要価格弾力性が低い財ほど高い税率をかけることが社会厚生上のぞましいというルール

簡単にいえば、値段が上がっても購入する量を減らせない生活必需品ほど高い税率をかけるべきというもの

すると、税金をかけることによる人々の財の購入計画に与える歪みを小さくできるので、税による社会厚生の損失も小さくできる。

まり「こっちの商品は税金が高いから買うのをやめて不本意だけどあっちの税金の低い商品にするか」といった税の存在によって人々の判断が歪むのを極力防げるということ。

自家生産から市場での購入への変更促進 ~ クリーニングレストラン、理髪店に軽減税率適用すべし

クリーニングなど自分で作業可能なサービスや、自分生産可能な財の税率が高くなると、

クリーニング店に持っていくのをやめて自分洗濯を済ませてしまおうとする人が出てくる。

しかし、クリーニング店でまとめやった方が分業による効率化が働くため社会全体ではのぞましい。

そこで、クリーニングのような自家生産可能な財・サービスに関しては軽減税率適用し、分業を促進すべきということになる。

まり、やろうと思えば自分で出来てしまうような、市場での購入の必需性の低い財・サービス軽減税率をかけるべきということ。

クリーニング以外にもレストランや、近頃ではセルフヘアーカッターの売れ行きが伸びていることなどからすると理髪店・美容院などもこれに入る。

正の技術外部性 ~ 教育医薬品エコカー新聞軽減税率適用すべし

誰かが消費を増やせば、それが市場を通じることなく(消費を増やしたことで誰かの給料が上がって景気が良くなって・・・といったものなどではなく)別の人のメリットになるのであれば、

そのような財・サービスに関しては軽減税率適用し、消費を促した方がのぞましいというもの

具体例を挙げれば、マスク軽減税率にすれば咳をして風邪ウイルスをまき散らす人が減って他の人も助かるね、といったもの

教育医薬品エコカー省エネ製品などが代表例。日本新聞協会新聞軽減税率にするべきと言うのも、この点から合理性がある可能性がある。

まとめると

贅沢品やレストランエコカー省エネテレビ軽減税率をかけろという、おそらく軽減税率の信奉者が受け入れらない結論が出てくる。

逆進性対策は別の形でやりましょう。

ところで

不公平"感"をどうするかが大切?合理性に欠けるものゴリ押しされることに対して不満"感"を抱く人も多いってことですよ。

逆進性がほとんど改善しないものを逆進性対策としてやられて、実際の生活改善しないのに不公平"感"が小さくなったね良かったね、とされては生活に困りきってしまう人もいる。

それに、やってから問題が噴出すれば手のひら返しで文句を言いたくなるのが人間の性。一時のアンケートで近視眼的に決めるより、合理性を重視した方が長期的には納得度高まるものなんです。

から政府審議会を重ねに重ねて政策の合理性を高める努力をしてるいるわけよ、世論はこうだからこうしますみたいな手抜きのお仕事をするのではなく。

今の人気が高い政策をただ選ぶのではなく、合理性の高い政策は何かに熟議を重ね、そうした合理性の高い政策への納得度を高めるように説明を尽くすのも政府仕事

http://anond.hatelabo.jp/20130123154647

2012-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20120906225527

そして1払えば2もらえるという信頼がもうないんだよ。1払って1もらえれば上出来だと思われている

根拠もなくそう思い込む人にはもう、かけて意味ある言葉はないんじゃないかな。あるいは、金勘定だけでは損得が判断できず、保険としての機能外部性の影響も考慮しないとならないことなどを一から教える?そこまで親切な暇人いないでしょ。

http://anond.hatelabo.jp/20120906155039

それが嫌で自分で備えを行おうとすると、返ってきたお金の何倍もの額が必要になる。

この書き方は卑怯だな。

正確には

「それが嫌で自分で備えを行おうとすると、帰ってきたお金の何倍もの額が必要になる人も発生する。」

だろ。

みんながみんな何倍もの額が必要になるわけじゃない。

低所得者ほど社会保障コストベネフィットは高いから、社会保障費がきつくて生活がもうやっていけないとか言う層は間違いなく「帰ってきたお金の何倍もの額が必要になる人」に該当する。

というか、外部性の塊みたいな分野だから自分で備えた方が得になる人なんてほとんどいない。よほどの高所得者で備えが不必要な人たちくらいだ。

少子高齢化が進んでいるのに経済成長を前提とした社会保障システムは本当に大丈夫なの? 際限なく負担が増えていくんじゃないの?」という疑問には全く答えていないよね。

少子高齢化が進んでも、ある程度以降は高齢世代数/勤労世代数は頭打ちになって、その後は減っていく。際限なく負担が増えていくことなんてあり得ない。

そして、社会保障が多くの人にとって得なのは高齢世代数/勤労世代数がピークになる頃も含めてだ。

今までは1払えば10もらえていた(現金が、というだけではなく保険機能なども含めて)のが、最近では3しかもらえなくなっており、将来はそれが2まで減りそうだ、ということ。

上の世代が羨ましい・ズルいという批判はもっともでその差を縮小するような政策(年金マクロスライドデフレでも適用するなど)を希望するのはいいが、社会保障のものを否定しては上の世代も自分も損するだけ。

結局、答え方は変わらない。

2012-07-04

http://h.hatena.ne.jp/Midas/299885539896409703

完全雇用になり予備労働力としての失業者がいなくなれば、皆が敬遠するしごとの給料が上がってやってもいいかなと思う人が出てくる。それできれいに世の中が回る。そんな仕事に高い金がかけられないとするなら、そんな仕事はもともと世の中にとって必要でなかったのだ。(ごみ収集のように外部性の大きな仕事は国の関与が必要となるけれど、基本的な話は変わらない。)

利潤の源が資本家による労働者から搾取であるという発想の、マルクス脳には理解できないだろうけど。雇用を含めて自由意志による取引は(貧困に追い詰められてやむなく、という場合も含め)、売り手買い手のお互いにメリットがないと発生しないという普通の発想を持っている人には簡単なことであるのに。

2011-02-21

とあるゼミ論文注意:(再整理)

※あくまで「とあるゼミ」について。 他は存じあげません。 教えて下さい。 お願いします

とりあえず、伝えたいことを要点としてまとめる。

研究テーマを決めたあとで調査結果からテーマの全てを導こうとすると痛い目をみる ― 『疑問に思う→考察→調査→考察』 の流れについて
研究テーマに「娯楽コンテンツ」は意外と難易度が高い ― 考察のしがいがある

 ものすごく簡単に論文について

論文とは「問い」である。(率直な疑問をテーマにしてこそ良い論文になりやすい。)

論文には以下の構成がある。※この日記は序論の「問題」と「研究目的」に対する考察(PLAN)でしかない。

序論

問題と研究目的研究方法の提示、用語の定義を述べる必要がある。

本論

研究結果とその考察研究限界問題点を述べる必要がある。

参考文献

引用文献だけではなく、使えそうで読んだ(参考にした)本を述べる。

 研究テーマについて

※ここでは、自由に論文テーマを決められるとする。

近年、娯楽コンテンツテーマにする流れがとあるゼミ内であったようなので、注意点を述べる。

自分で決められるからといって「好きなのでテーマにしてみました。」程度では[ぬるい]。

これは、社会的背景に迫らなければ動機以上に有意義なテーマにならない、ということである

疑問に思う(QUESTION)→「考察(PLAN)」→調査(DO)→考察(CHECK)→発表(PRESENTATION)の流れでは「PLAN」に該当するプロセスで基本だが、大抵の大学生多忙を理由にして調査への過度な期待をして失敗を繰り返しているという意味で最重要プロセスでもあると考える。

失敗の例として具体的には「自分研究がなにをいいたいのかがわからなくなる。」といったものがある。

 そこで、対策として社会的背景へ迫るPLANの例として娯楽に対する考察を以下に提示する。

・娯楽コンテンツは虚構的である。つまり、それ自身に本質的価値はない。

そもそも、娯楽の意義を知らなければならない。無論、娯楽はストレス(抑圧)発散のためにある。

社会的ストレスとは労働といった規範に関連するもの。学生学業社会的ストレスになる。

池田信夫マルクス引用によると

知識の外部性最初に指摘したのはマルクスだった、といえば牽強付会に聞こえるかもしれないが、彼は労働についての断章と呼ばれる『資本論』の草稿(経済学批判要綱)で次のように書いている

自然機械をつくらない。それは人間頭脳や手の生み出した器官であり、知識の力が対象化されたものだ。固定資本の発展は、社会的知識がどれほど生産の直接的な手段になり、社会的な生活の条件がどれほど一般的知性によってコントロールされて生産適応しているかを示している。

これはネグリハートが『帝国』で、マルクスが「非物質労働」を視野に収めていたことを示す証拠として引用した文章だ。これに続く部分で、マルクス社会的知性が科学技術による生産の条件だとものべている。そしておもしろいことに、こうした社会的知性は生産だけではなく消費によっても生まれると説いている

池田信夫 blog : マルクスソーシャルメディア - ライブドアブログhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51671941.html

知識の外部性社会的知性、一般的知性 というものがあることがわかる。

おそらく書籍を読解していく上で【知性やイデオロギー】等の違う言い回しで多くの似た概念に出くわすと思う。※注意は必要だが、以降は「規範」として解説する。

私たちは幼少より社会的規範市場的な規範を様々なものを通して学ぶ。

娯楽も例外ではない。例えば、女の子はおままごとを通して家庭の内部規範を、男の子ロボットヒーローおもちゃで外部規範を学んでいく。

娯楽コンテンツとは労働社会規範)によるストレスを消費(市場規範)で発散するモノであるといえる。また、娯楽をする条件が労働によるストレスならば、娯楽自体には焦点がなく、娯楽がストレス発散することにしか効用(と消費者の動機)を持たない虚構であることがわかる。

ここから、「娯楽コンテンツは虚構的である。つまり、それ自身に本質的価値はない。」ということがはっきりわかった。

また、労働に関連として以下を引用する

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意思を持つ人間従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業社会職場が求めるものを満たすために、人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。

  • 生産物はなくて時間を売ること-仕事のペースを時計に合わせること-定められた間隔で食事をし、睡眠をとること-同じ単純作業を一日中再現なく繰り返すこと

これらのどれ一つとして人間自然本能はなかった(もちろん、今でもそうではない)。したがって「従業員」という概念が—また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ—永遠真実という揺るぎないものに根ざしていると思いこむのは危険である

経営未来」に従業員の未来を見る - アンカテhttp://d.hatena.ne.jp/essa/20080310/p1

「従業員」という一見当たり前の概念についても長い歴史で観ればつい最近確立された規範であり、社会問題を伴う。

つまり、「娯楽という概念」にも労働を代表する外部の概念が抑圧・弊害や規範として間接的に関わってくるため、視野を広めて(ここでは労働キーワードに)考察をすることが重要ということである

(※今回は閲覧できるようにwebソースしましたが、実際はキーワードに関する書籍を読解し、参考・引用してください。)

娯楽コンテンツについて調査するならば、調査対象においての労働観(学業観)、社会観、消費観を知る必要があるだろう。

これは研究テーマの外部にある要素をキーワードにして迫る方がテーマ本質は見やすい、ということである

むしろ、引用するしないに関わらず参考文献範囲を研究テーマの外側まで広げていかなければ、根源的な問いに対する調査の切り口が見いだせない。

娯楽コンテンツ研究テーマした場合は袋小路に入ることになる。

しかし、研究テーマの外部の考察をすれば必ず研究に活きてくる。まず発表に際して学生間での質問に引けをとることはなくなる。

一見言わなくても分かると思われることも、しっかりと問題の本質、動機、仮定、構造の説明ができるかどうかは別問題ということである

なにより真剣研究することは学生として正しいし、好きなことを真剣に考えることは充足感を伴うので楽しい

2011-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20110216165623

今回は日記の反応を見て思い浮かんだことを述べていきます

(そもそも私は「鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』(文藝春秋)」を踏まえてこの日記を描いています。)

まず、先日の日記(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」に対して

意図に反して論文に対する、あり方や手法という点で反響してしまった

というのが全体的に見て思ったことです

論文のあり方については多様でいいと思うので、ここでは問題としません。

前回の日記も「テーマの意義」についてでしたので、テーマを決めた時の「どこまで問題点着眼点を絞るのか」に対する考察しかありませんでした。(問題と目的(序文)、手法、結果考察(本文)、今後の課題、といった論文段取りの全ての「前提」としてテーマを取り巻く要素から研究意義」を考察しただけです。要するに自分テーマのみを考えるだけでは社会的な前提や研究意義にはならない可能性が高い、あえてテーマの外部にあるであろう要素から迫る方がテーマ本質は見やすい、ということでした。)

無論、このことは研究に対してのモチベーション維持に関係するだけではなく、実際に調査をする上での注意点や考察を書く上での前提になりえます

また、よくありがちな「結局何が言いたかったのかがわからなくなる」のを防ぐ役割があると思います。

論点がブレないための論文の前提としての考察に、引用が多すぎることは、深く考えるだけ無駄でしょう。

今回、論文を書く上で問題だと思ったのは「引用の多さが恥に思える」点です

 この考え方の背景には、論文を書く上での前提が「前人未踏であることによる自分らしさ」となっているということだと思います。

なるほど、たしか自分の考えを誰の考えも前提とせずに書けることは素晴らしいと思います。そんなことをしてのける天才になってみたいものです

しかし、私は賢い人が論文を書くのではなく、疑問に思った人が論文を書くべきだと思います。

それに、仮に体裁を気にして、できるかぎり自分で考えた結果を主張をしたものの、「それって〇〇といってること同じだよね、どう違うの?」なんて聞かれたら(○○について知っていても、知らなくても)終了してしまうようなシビア世界でもあります

未踏であることは前提ではありますが、自分らしくあることに前人がいてはいけないということはないと思います。

というのも、時代によって物事のあり方は変化していくので様々な観点での検証の余地がでてくるものだからです

例えば、「既存の手法を別の目的転用する」というブリコラージュという手法もあります。(横井軍平さん風に言うと枯れた技術の水平思考ですね。)

「こんな考え方が認知されているんだから最新の研究である、私のテーマでも適用してみます。」は研究の観点的に未踏なのです

ところで、内田樹自分らしさについてこんなことを言っています。

自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである

階層化する社会について (内田樹研究室)(http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php)

また、欲望とは他者の欲望の模倣であるとする「欲望の三角形」というルネ・ジラール理論もあります

つまり、「○○好きな自分」は別の「○○好きな誰か」たちを模倣し、複合した結果になります

模倣したことを恥ずかしく思うよりは、模倣することによって何か一つでも自分の観点に自分だけの結論が見いだせるならば、

それだけで素晴らしいことではないでしょうか。

そのプロセスを隠すかどうかは、正直馬鹿しい事のようにさえ思えます

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕を研究にして発表してよ!」http://masuda.livedoor.biz/archives/51603662.html

まとめサイト考察に関する批判をいだだきました

・読者にとっても作り手にとってもクソの役にも立たない研究ってくだらない

→あくまで、役に立つか、ではな真剣な問いがあるかで研究は考えるべきだと思います。好きだからでは駄目です。役に立つかどうかは考え方で決まります

・読者を楽しませようとする=読者にないもの提供するという一面は当たり前だけどラノベ萌えに限った話じゃなくすべて外部性

セカイ系というジャンルに言及出来ていない点で不完全でしたセカイ系というジャンル考察定義を踏まえるとラノベ萌え包含する範疇です

引用したかっただけ・文脈で引っ張らずに個別に切り貼りしてんじゃねー

→少しでも「女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置)」であることをまず認識して欲しかったという点で細かな引用しました引用があまりにも細部に及んだ場合拡大解釈に繋がりかねないことは度外視しています。web以外で探せるならば文脈で引用ができますね。その点で浅はかな引用した。ただし、書籍引用デリダの読解(「ハイデガーニーチェを読解したものの」デリダの読解)はフェミニズムという点でデリダの中で一貫していると本人が発言した書籍内にもありましたので問題ない部分です

モテない男は女性性の代償行為としてラノベを読む。代償行為はラノベに限った話ではないが、じゃあラノベを取り上げるのはなぜか。どう違うのか。どう意味が、時代性が。

マクロ社会を語りたいの? 現代オタク内面を切り分けたいの?

→まさに批判された指摘部分に焦点を当てて意義を捉え、調査すべきですね。つまりマクロ現代社会の延長としてのオタク内面を切り分けていくべきだと思います。

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

2010-10-03

けいおん!!にみる、物語の構成

もしくは、いかにして物語るために構成を必要とし、また必要としなくなったか。

けいおん!!には物語が無く、その構成とはつまり、ついに物語ることを止めてなお作品であり得ることを示した」

この言説は、正しくもありまた正しくもない。

つまり、どの時点と比較して、何と比較してという点を明らかにしていないから矛盾が生じうる。

けいおん!!は、一見して非常に判りやすい成長の物語だ。

まず第一話にて平沢唯ギターを弾いている。それに合わせて主人公達が楽器を持って登校する。

これは前作からの繋ぎであると同時に、その成長を感じさせる。練習は新歓ライブのためのモノだ。

そして最終話は(番外編と銘打たれているが)、中野梓がまたギターを弾いている。

練習は新歓ライブのためのモノだ。それに合わせて主人公達は、楽器を持たず下校する。

非常に明確な代替わりの話であり、また、その前段の担任宅への訪問もそれを連想させる。

つまり、主人公達は居なくなるわけでも、物語が終わるわけでもなく、続いている。

写真を見る山中さわ子学校に居続けるし、その彼女もまた高校生だった過去がある。

そして、当時のメンバーが訪ねてくる。

主人公達の話の枠外にも時系列存在し、続いているという強烈なメッセージでもある。

さて、ではなぜこれを物語が無いと言って正当性があると言えるか。

演劇、特に高校演劇では顕著だが、ストーリーテリングにはいくつかの手法が確立されている。

  • 1つ目は、あるストーリーに沿って話を進める手法。
  • 2つ目は、ストーリーが動くように、外部性を導入する手法。
  • 3つ目は、外部性のみで、そこに何が起こるかを描き出す手法。

簡単に説明すれば、

  • 1つめは高校演劇ありがちな「描くために無理矢理進める手法」と言える。
    • 「わあ、素敵な水族館ね。あれ、あそこで人が倒れている?」などが典型例だ。
  • 2つめは一般的な演劇にある「描くために必然性リアルさを感じさせる手法」と言える。
    • 高校生2枚お願いします」「何時の回ですか?」などの外部の人との対話が典型例だ。
  • 3つめは劇作家の調整方法とも言える。
    • 小さな居酒屋のような、無関係の人物の会話が生じやすい場面と時間を設定するのが典型例だ。

これらは誤解を恐れずに平たく言えば「日常には何も起こらない」と言っていることと等しい。

会話劇であって会話が無ければそれは劇ではない。そう言っているわけだ。

ごく当たり前と言える。

(何もない日常を描く場合、大抵それは通常でない人たちを集めた3つめの手法であることが多い。

 たとえば究極超人あ〜るの何もない日など)

そう言う意味で、

何もストーリーが無く(日常を描くのみ)、

ストーリーを動かす外部性が無く(イベントは起こるが日常を進める要因ではなく)、

外部性のみで描き出すわけでも無く(場面と場所は設定されているが、起こるのは日常)、

そこにはストーリーテリング存在しないと言ってしまっても良い。

ここまで敢えて触れなかったが、「テーマ」もしくは「観客の感情を揺らすなにか」が演劇には必須であるとされている。

「何が主題なのか」「喜怒哀楽のどれを意図したモノなのか」が必要であると言われている。

サザエさんドラえもんは、その環境(場面、キャラクタ)から何かを伝えようとしている。

(これは演劇屋さんによって言うことが違うので、酷く難しい問題ではある。「何を伝えたいか」と言い換えても良い)

ではボーイミーツガールでもなく、社会批判でもなく、人間の愚かさを示すわけでも、爽快感意図したモノでもなく

けいおん!!」は何を伝えたいのか。

成長と代替わりをずっと行おうとすることから何を伝えるか。

写真が記録の代名詞として何度も登場することから、そして色味を変えて何度も描き出すことから、それは「郷愁」だと言える。

いや、それは「同調」でも良いかも知れない。「憧憬」かも知れない。

「期待」かも知れないし、「絶望」かも知れない。

そう、過去があり未来がある「高校生活」というある時間と場所を切り出した作品なのだ。

その意味で、そこには物語はない。

外部性はなく、主張も見えない。

高校というシステムの永続性を描き出して、何も起こらない。

しかしそのままの意味でそこには物語がある。

高校という枠の外にも時間軸があり、写真時間を止めてもそれは切り出した一部であるという明確なメッセージがある。

つまり、一般的な過去の「こうすれば何かを相手に伝えられる」という手法からは逸脱した作品である。

そしてまた、日常生活を丁寧に描くことでそこに思い出と永続性と一時的な時間を同時に表現している。

始まりと終わりがある物語ではなく、始まりも終わりもない物語ですらない。

始まりも終わりも無い桜高軽音部を枠として、その枠の始まりから終わりまでを丁寧に描いた作品。

伝えるために手法を必要としていない、より原初の演劇

それこそが「けいおん!!」に物語がない理由であり、また物語である理由でもある。

2010-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20100429082158

そもそも基礎研究は国費でやるのが常識、なんて書いてある経済学って何の流派なんだろう

ネオリベでは考えられない理屈だしケインジアン的発想でもなさそうだし

脈略を知らないまま書いてるのだが、基礎研究は国費でというのは流派もなにも、ただの外部性の話だから経済学的には普通の考えだと思うよ。

ただ保守派の人たちは外部性の否定というか、なんとか外部性市場への取り込みの可能性を探ろうとする傾向はあるが。

2009-11-08

タバコ増税こそ「弱者いじめ」じゃね?

生まれて以来この方タバコを1度たりとも口にしたことがない非喫煙家である一方、一部匂いが好きなタバコがあったりする(一部臭いが大嫌いなものもあり)私は、今話題になっているタバコ増税は完全に他人事モードなわけですが、気になることが1つ。

鳩山政権政権前はもちろん政権をとってからも、「小泉政権負の遺産」とやらを非難して、「弱者に優しい政治」を志向しているらしいんですが、タバコ増税って思いっき弱者低所得者)を直撃すると思うんですが、政権ポリシー的にどうなんでしょう?

きちんとした統計データを見たことはないんですが、所得額と喫煙率に強い負の相関がある(=貧乏人ほど喫煙率が高い)ことは、おそらくそれなりに社会経験のある人なら、ほとんどの人が体感的に理解していることだと思います。

で、喫煙低所得者にとっては、1箱あたり300円近いタバコ増税をされると、消費税を10%に上げるよりも、打撃がありそうな気がするんですが、消費税には逆進性があると散々消費税増税を非難していた人たちは、タバコ増税を非難しないんでしょうか?

いや、私としても、負の外部性健康悪化による損失、受動喫煙など)を内部化(価格に反映させる)するという方向性については賛成ではあるんですよ。

ただ、大幅に増税すればより価格弾力性の強い(=値上がりに敏感な)低所得者の消費が(高所得者に比べて相対的に)大きく減るから逆進性はむしろ弱まるとか、そんなわけねーだろって思うわけですよ。

だってタバコって嗜好品といえば聞こえがいいですけど、別の一面では間違いなく薬物依存症ですよ、依存症。一説によると、ヘロインなどの薬物よりも依存性が強いらしいですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87

もちろん増税によってタバコの値段が倍になれば、多少は消費量は減ると思います。が、上記の強い依存税を考慮すると、せいぜい消費量が3/4くらいになって消費額が1.5倍(3/4×2)くらいになって、平均で月間5000円くらいの負担増、消費量の減少分を加味すると月間7000円近い負担増になりそうです。

※平均的な喫煙者は1日1箱(20本)くらい吸うらしいので

 ①300円×1箱×30日=9000円

 ②600円×3/4箱×30日=13500円

 ③300円×3/4箱×30日=6750円

まあ、他人事なんで私はどうでもいいんですけど。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん