はてなキーワード: scansnap SV600とは
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?