はてなキーワード: 理学療法とは
→理学療法。
身体に障害のある人に、基本的動作能力の回復をするためにいろんなことをする。運動をさせたり、物理的にいろいろと施す。運動としては治療や体操、物理的方法としては電気療法、マッサージ、温熱などがある。 日常の動作などを改善するための指導や、社会的な動作で困らないように、福祉用具の選定や住宅改修・環境調整、在宅ケア等も含む。近年では、障害を防ぐための生活習慣病の予防、コントロール、障害の予防も理学療法の対象となっている。対処療法だけでなく、予防もまた守備範囲になったわけだ。
理学療法士は、障害・後遺症のある部位に注目し、基本動作能力の回復のために行われ、反復運動が多い。一方、作業療法士の行うリハビリである作業療法は、その次の段階である社会復帰に向けて行われるものである。
野菜運動瞑想を欠かしたせいで、または生まれつきで、あるいはどうにもならない苦境のせいで、こうなってしまったわたしたちは「メンヘラに会ったら助けようだなんて思わず全力で逃げろ」と言われるのがお似合いの身分だ。そしてその言葉が正しいことを当人が一番良く分かってる。でもどうしようもなく他人を傷付け苦しめる疫病神だからといって、当人がそれを喜んでいるとは限らない。むしろその逆の場合であることさえある。そういった人間に残された希望は、死ぬことしかない。みんな薄々気付いているはずだ。すべての人にとって、それが望ましいことだということを。でも、現状では死ぬためには高いハードルを越えなければならない。ロープとぶらさがり健康機、包丁、高いビル、列車、自動車、バイク。いずれも強い恐怖と闘わなければならない。死に損なうかもしれない。誰かを巻き込んでしまうかもしれない。わたしたちはまるでリボルバーを一丁与えられて、トリガーを引けないことを嘲笑され罵倒されている弱虫だ。「あいつからは全力で逃げろ」と言われる苦しさを無視しないで。そう対応されること自体は仕方がない。この世には、すべてを許してくれる「ママ」も「神様」もいやしない。わたしはもういい歳をした大人だ。ただ一方的にリソースをつぎ込まれていい子どもではない。むしろ、リソースを差し出す側でなければならない。だから、この人生を安らかに終えることを選ばせてほしい。内からの苦しみと、外からの非難から逃げさせてほしい。いったい何が悪いんだ。Win-Winじゃないか。他者を傷つけて、自分も苦しんで、そんな人生を続けろという方が残酷だ。心身の症状に薬や理学療法が適用されるように、人格や性格、認知、振る舞いのどうしようもない問題についても、安らかな人生の終わりという「治療」が適用されてほしい。
前川喜平・前文部科学事務次官が加計学園の獣医学部に博士課程が設置されていないからけしからん!と怒っているので、
近年の新設された大学において大学院はいつ設置されたか調べてみた。
新設が非常に多いので結論から言うと、非常に数が多いため一部しか調べられなかったが、
調べた限りでは大学新設と同時に大学院が設置されているところはなかった。
新設された4年後に設置されるかといったら、そうでもない大学もあるし、そもも未設置の大学も多い。
また『短期大学』が『4年生大学』に転換したところが多いため、新設大学が多いように感じる。
【参考情報】 新設大学等の情報:文部科学省
■21年度開設
千葉県立保健医療大学 ⇒ 未設置
弘前医療福祉大学 ⇒ 未設置
日本赤十字秋田看護大学 ⇒ 平成23年度設置 ※大学院設置基準第14条特例の実施 (短大卒業者向け?)
東都医療大学 ⇒ 未設置
こども教育宝仙大学 ⇒ 未設置
びわこ学院大学 ⇒ 未設置
■22年度開設
東北文教大学 ⇒ 未設置
横浜美術大学 ⇒ 未設置
■23年度開設
日本映画大学 ⇒ 未設置
京都華頂大学 ⇒ 未設置
宝塚医療大学 ⇒ 未設置
<追記>
指摘を受けて追記。
・北海道医療大学 ⇒同時に設置
2013年 リハビリテーション科学部(理学療法学科/作業療法学科)開設
2013年 大学院リハビリテーション科学研究科リハビリテーション科学専攻修士課程開設
■私立獣医学部に関しての大学院設置状況
同条件である私立大学の獣医学部で確認した所、基本的に大学と院は同時設置されておらず、
博士課程に関しても後年に設置されている。
同時設置しなければならないと言う法律や規則が無い以上、後年に大学院が設置されても問題ないかと思われる
大学は届出設置制度である以上、大学設置時に大学院(修士、博士)もまた設置しなければならない、
という規定が無い以上、前川氏の「博士課程もないのに先端研究ができるわけがない」という発言には
認可してはいけないという根拠は薄いと思われる
・酪農学園大学 ⇒11年後設置
http://www.rakuno.ac.jp/outline/about/development.html
学部 1964年(昭和39年)設置
大学院 1975年(昭和50年)設置
※博士課程 1981年(昭和56年)設置
・北里大学 ⇒4年後設置
https://www.kitasato-u.ac.jp/jp/about/overview/history.html
学部 1966年(昭和41年)設置
大学院 1970年(昭和45年)設置
※博士課程 1972年(昭和47年)設置
・麻布大学 ⇒7年後設置
https://www.azabu-u.ac.jp/about/history.html
学部 1950年(昭和25年)設置
大学院 1957年(昭和32年)設置 (院設置のみ?)
※修士課程 1960年(昭和35年)設置
※博士課程 1962年(昭和37年)設置
・日本獣医生命科学大学 ⇒歴史が古すぎるため参考。修士/博士同時設置
http://www.nvlu.ac.jp/universityguidance/002.html/
1881年(明治14年)設置 (日本最初の私立獣医学校・獣医学校)
大学 1949年(昭和24年) 設立 大学院 1962年(昭和37年)設置
※博士課程 1962年(昭和37年)設置
・日本大学 ⇒設置時期不明
院設置時期の記載が見当たらない
そろそろ文系と体育会系を別に区分けする必要があると思うんだ。
文系は、論文発表や美術工芸、文化財など多岐に渡るけど、体育会系は体力勝負のガテン系一本でしょ。
文系は、選ばずとも中間管理職になれるけど、体育会系はなれても店長職が限界でしょ。
文系は、公務員や民間大手に就職できるけど、体育会系はブルーカラー職しかなれないじゃん。
文系でも体育教師がいてそういう人は理学療法とか社会労士とかの資格持ちだけど、体育会系は無資格で未経験者大歓迎の求人に何の疑いもなく飛びつくでしょ
文系と体育会系は別々に切り離して論じるべき。ホワイトカラーとブルーカラーくらい違う。最近ブラック企業どうので喚き散らしてたり名前が挙がってる奴は会社含め体育会系だから。
救急を取る病院がまだまだ少なかった頃。
地域の基幹病院は県立病院。救急車で30分。救急対応も今ひとつ。
地域に「住民のための」新しい病院への欲求が高まった頃、200床程度の規模でその病院は開院した。
何もない開院したての病院。外来の棚の中は空っぽ。買ったばかりの備品は全てダンボールの中。事務も看護もみんな初対面。場所によっては、誰かが梱包をあけて棚に備品を並べてくれていたりするけれど、どれもビニールがかかったまま。洗面台の水は妙にシンナー臭い。
新しい病院を立ち上げる仕事は楽しい。医師の派遣元にも十分な人手はいないので、みんな交代で出張。
新しい病院。新しい町。医局の引継ぎノートには、新しく作った約束処方、備品のありか、地元に詳しい事務の名前や電場番号、近所のコンビニの場所などが記載されていく。遊びに行くにもどこにいっていいのか分からないから、医局の冷蔵庫には魚肉ソーセージと酒の瓶。毎晩野郎ばっかりの飲み会。
立ち上げ当初は、食事も宿泊も全て病院内。3食病院食は、2週間もすると飽きてくる。もっと身体に悪いものが食べたくなって、医局に周辺の出前リストがそろう頃には、外来にもだんだんと患者さんが増えてくる。
まず集まるのは、「主訴:腰痛」の整形外科の患者さん。理学療法室の常連を徐々に増やして、高血圧の人、咳のひどい人などを外科に紹介して、外来の人数はだんだんと増えていく。
そのうち、軽症の交通外傷の患者さんが救急車でやってくる。病院にも、若い患者さんが増える。もともとの設立の動機は「地元のための」病院。病棟はきれいで、居丈高な公立病院を反面教師に、時間外でも笑顔で診察。
開院2年目。待合室には若い人が増え、活気を帯びてくる。外科、内科とも常勤のドクターが増える。スタッフの数が充実すると、皆もっと高度なことがやりたくなる。
「24時間救急を取ろう」「研修医を育てよう」スタッフが若ければ、気合だけで施設が充実する。病院で行えることはだんだんと高度になって、救急車の数も増えていく。
「あの病院はよくやってくれる」。地域の信頼が集まると、もっと若い患者さんが通院するようになる。
病院は忙しくなる。患者さんの年齢層が変化して、皮膚科や耳鼻科といった、若い患者さんが得意な科も充実してくる。
眼科が入ると、病院の経営は一気に好転する。白内障の手術の得意な眼科医は、内科医3人分の収益を一人で稼ぎ出す。黒字科が増えることで、病院にはもっと大規模な設備が導入される。
「カテ室を作ろう」。開院8年目。常勤できてくれる循環器のドクターも決まり、循環器外来が始まる。患者さんの数はますます増え、救急外来にも救急車の音が毎日鳴り響く。
雲行きが怪しくなるのは10年目頃。10年もすると、町にも高齢者の数は増えてくる。救急外来に来る患者さんも、外傷や脳出血、急性腹症といった年齢層の若い救急患者だけでなく、転倒による大腿骨骨折、近所の老健からの誤嚥性肺炎の紹介といった人が目立つ。
病棟の業務は変わる。夜間に不隠になる患者さんが増え、重症患者のための個室は、いつのまにか不隠部屋に。重症の患者さんは大部屋。徘徊老人は個室。不隠の強い高齢者はなかなか退院しないから、若い患者さんの個室への移動希望はかなわなくなる。
「あの病院はうるさい」「いつも廊下で叫び声が聞こえる」。病院へのクレームが増える。
「四肢抑制」「不隠時セレネース静注」、今までは書かれることのなかった指示が指示簿に当たり前のように記載されるようになった頃、日中のナースルームは不隠の強い高齢者であふれ返り、医者は叫んで暴れる年寄りの相手をしながらカルテを書く。かつてラクテックがぶら下がっていた点滴台には、経管栄養のバッグが目立つ。PNツインもまだ棚に置いてあるけれど、滅菌期限寸前でほこりをかぶったまま。中心静脈栄養なんて、もう半年ぐらい処方してない。
病院が止めを刺されたのは、近所に新しい老健が出来てから。「○○病院がすぐそば」を宣伝文句にして人を集めたその施設は、嘱託の医者が帰る5時以降になると患者をどんどん連れてくる。少しでも熱が上がると、「うちでは見られません」「入院させてください」の一点張り。
もともと「24時間、患者さんを断ることはしません」との宣言を出していた施設。開院して12年、それでも気合で守ってきたそんな宣言は、病院とは縁もゆかりもない業者に美味しく利用される。外来には車椅子に拘束衣で来院する年寄りが増え、以前から通院していた若い人は外来からいなくなる。
夜中によく来る喘息のお姉さんに「今度、午前中の私の外来に来てください」とお願いしたことがある。「私は○○病院にかかっているので、ここはちょっと…」と、マスコミによく出る施設の名前を出された。
市民のための病院。市民に見放された病院。ここはいつのまにか賎民のための病院に変わっていた。
病棟はもはや、行き場のない高齢者でいっぱい。若い人の肺炎や喘息といった病気は外来で何とか診るしかない。病棟業務は連日の転院先探し。患者さんもご家族も、「一生ここにいさせてください」と願う人がほとんど。やっとの思いで転院させても、2週間もすると37度の発熱で救急車で帰ってくる。もう二度と転院に応じるものか、という決意を持って。
手術の症例も減った。病棟ナースにも離職者が相次ぐ頃、引き上げた医師にも後任が決まらなくなり、病院は慢性期疾患を細々と診るだけの施設へと変貌した。
地域の若い人たちはもっと新しい病院へ。
「あの病院に行くと死ぬ」。こんな評判が地元に立つ頃、病院は死に体になった。
間違ったことはしていないつもりだった。より高度な医療サービス。より簡単なアクセス。地域の医療需要に応えつづけた結果、病院は地域から見放された。
より広い需要に応えたい。より高度な医療をしたい。患者さんのための医療をしたい。力をつけようと努力し、進化を続けた結果、「強い」病院にはより弱い立場の患者、慢性疾患の末期の人、行き場のない高齢者が集中するようになった。
90年代に救急外来を一生懸命やっていた民間病院の大半は老人病院化し、急性期疾患を搬送する救急車は、以前は急患を断っていた市立病院や日赤病院に集まるようになった。そして現在、そうした病院すらもだんだんとベッドが回らなくなり、一昔前なら救急車が素通りしていた大学病院にも、寝たきりの高齢者が搬送されるようになっている。
恐竜絶滅寸前の時代。爬虫類全盛期、さまざまな大きさの恐竜が覇を競い合った後、気候の変化とともに体の大きな恐竜しか生き残れなくなった状況。市中病院が高機能化し、救急外来を充実させて「恐竜」化する一方、「恐竜」化した大手市中病院は、進化の果てに絶滅しそう。
その影で数を増やしているのは、小さな哺乳動物。小規模病院。老健業者。元気がなくなる恐竜達を尻目に、誕生したばかりの哺乳類はきれいな施設、専門特化した医療技術を武器にその勢力を増している。
時代は変わる。恐竜が闊歩していた時代は去ったあとは、小型ですばしこい哺乳動物の時代が来る。医療の無駄は減り、効率のいい医療、効率のいい経営が実現できるようになる。
問題なのは「恐竜」クラスの力がないとどうしようもない患者さんはいつの時代にも存在することで、哺乳動物を目指した施設は、最初からそうした人を相手にする意思は無い。
主役の交代は、すでに小児科、産科の領域では確実に進行している。産科のいない市は、もはや珍しくなくなった。
恐竜だって絶滅したくて進化したわけじゃない。医者だって絶滅する恐竜と心中したくはない。結果として哺乳類が生まれ、「食べられない」患者は見捨てられる。
誰かが悪くてこうなったというわけではないと思う。