野菜運動瞑想を欠かしたせいで、または生まれつきで、あるいはどうにもならない苦境のせいで、こうなってしまったわたしたちは「メンヘラに会ったら助けようだなんて思わず全力で逃げろ」と言われるのがお似合いの身分だ。そしてその言葉が正しいことを当人が一番良く分かってる。でもどうしようもなく他人を傷付け苦しめる疫病神だからといって、当人がそれを喜んでいるとは限らない。むしろその逆の場合であることさえある。そういった人間に残された希望は、死ぬことしかない。みんな薄々気付いているはずだ。すべての人にとって、それが望ましいことだということを。でも、現状では死ぬためには高いハードルを越えなければならない。ロープとぶらさがり健康機、包丁、高いビル、列車、自動車、バイク。いずれも強い恐怖と闘わなければならない。死に損なうかもしれない。誰かを巻き込んでしまうかもしれない。わたしたちはまるでリボルバーを一丁与えられて、トリガーを引けないことを嘲笑され罵倒されている弱虫だ。「あいつからは全力で逃げろ」と言われる苦しさを無視しないで。そう対応されること自体は仕方がない。この世には、すべてを許してくれる「ママ」も「神様」もいやしない。わたしはもういい歳をした大人だ。ただ一方的にリソースをつぎ込まれていい子どもではない。むしろ、リソースを差し出す側でなければならない。だから、この人生を安らかに終えることを選ばせてほしい。内からの苦しみと、外からの非難から逃げさせてほしい。いったい何が悪いんだ。Win-Winじゃないか。他者を傷つけて、自分も苦しんで、そんな人生を続けろという方が残酷だ。心身の症状に薬や理学療法が適用されるように、人格や性格、認知、振る舞いのどうしようもない問題についても、安らかな人生の終わりという「治療」が適用されてほしい。