2019-08-07

安楽死希望だ。

野菜運動瞑想を欠かしたせいで、または生まれつきで、あるいはどうにもならない苦境のせいで、こうなってしまったわたしたちは「メンヘラに会ったら助けようだなんて思わず全力で逃げろ」と言われるのがお似合いの身分だ。そしてその言葉が正しいことを当人が一番良く分かってる。でもどうしようもなく他人を傷付け苦しめる疫病神からといって、当人がそれを喜んでいるとは限らない。むしろその逆の場合であることさえある。そういった人間に残された希望は、死ぬことしかない。みんな薄々気付いているはずだ。すべての人にとって、それが望ましいことだということを。でも、現状では死ぬためには高いハードルを越えなければならない。ロープとぶらさがり健康機、包丁、高いビル列車自動車バイク。いずれも強い恐怖と闘わなければならない。死に損なうかもしれない。誰かを巻き込んでしまうかもしれない。わたしたちはまるでリボルバーを一丁与えられて、トリガーを引けないことを嘲笑され罵倒されている弱虫だ。「あいからは全力で逃げろ」と言われる苦しさを無視しないで。そう対応されること自体は仕方がない。この世には、すべてを許してくれる「ママ」も「神様」もいやしない。わたしはもういい歳をした大人だ。ただ一方的リソースをつぎ込まれていい子どもではない。むしろリソース差し出す側でなければならない。だから、この人生を安らかに終えることを選ばせてほしい。内からの苦しみと、外から非難から逃げさせてほしい。いったい何が悪いんだ。Win-Winじゃないか他者を傷つけて、自分も苦しんで、そんな人生を続けろという方が残酷だ。心身の症状に薬や理学療法適用されるように、人格性格認知、振る舞いのどうしようもない問題についても、安らかな人生の終わりという「治療」が適用されてほしい。

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