はてなキーワード: 森元とは
山下さんはJOC会長なんだし、組織委員の仕事をJOCが引き受ければいいし、引き受けきれないなら組織委員会から移ってもらえばいい
組織委員会の職員なんてほとんどが企業と東京都からの出向だろうし、移れと言われたら移るだろうし
森元の件で女性差別した事が無い人だけが森元を批判せよだと、まあ世の中良くならんので女性差別した事がある人も男性差別した人も批判して良いと思うよ。逆に差別した事ない人居る?いないよねえ。だけどみんな踏み絵が目の前に回ってきたら躊躇いなく踏むよね。なんかその空気嫌なんだよなあ。
新入社員の研修で「遅刻すると立たされちゃうよ」って車椅子の同期に言ってしまってなんて謝ったらいいか分からず適当に流した俺の方が森元よりも罪深い気がするんだが、それは俺がたいして立場の無い人間だし公の場じゃないからOKなのか?
https://mainichi.jp/articles/20210214/k00/00m/040/231000c
何周回っての話かもしれないけど、「女性」の地位をキープするために有能さをアピールするために「それはどうですか?」ってアピールする人は多そうな気がする。
クソ下層の社員からすると「んだよ、知らねーよ」と思っちゃうね。しかもその場で結論に達せない事もある。新しい話だったり、「たしかにこの議論出来てませんね」みたいな。
新しい話なら延びるけど、男は「じゃ、次回に」みたいにする傾向がある気もする。大抵叩き上げできた男は会議の掛け持ち経験があり、結論が出なくても「一回終わらせる」のが身に染みている奴もいる。
きちんと化粧をしてよく社会に調教されたわきまえてる女は男様が多少失礼なことを抜かしてもわきまえて許してくれるからな
わきまえた女を増やしたい森元はやっぱり正しいんだ
密室とか言ってるけど、ちゃんとメディアの前で「森元さんに指名された」って言ってたやん。
密室ってのは組織や偉いやつがコソコソ決めることやろ?違うんでないの?
んで、結局誰がなるの?候補者ザッと見たけど、誰もパッとしない。女性が多い気がするけど、女なら誰でもいいのか?って感じ。誰がなっても同じではないかい?
お前らは誰推し?
どこで解釈が分かれてるんだよ
というのを今回の森元の件で一層感じた。
女性蔑視ということで火がついた一件だが、発言の内容・意図を冷静に考察しようとする有識者が仮にいたとして、"森元は女性蔑視の差別主義者である"という論調で報道を展開するメディアからは無視あるいは擁護しているとして吊し上げられただろうと思う。
個人的にはメディアには中立でいて欲しいんだが、視聴率重視あるいはセンセーショナルさ重視によって論調に指向性が出したり、党派性を持つ一部のワイドショー的なメディアの存在がとても残念でならない。冷静な解説と中立な報道で、価値判断は受け取る側に委ねて欲しい。
お前はけっこういい線いってるから、皮肉のオフトゥンから出て、もうちょっと考えろ。
その通り、マスコミが謎に騒いで、ネットに拡散されたから騒ぎになったんだよ。
・マスコミが何を騒がすかを決定しているわけだが、その状態はどうなのか。
マスコミ自身もそれを知っていて権力者ヅラしているフシがある。
・ネットで拡散したせいで騒ぎが大きくなったのだが、その状態はどうなのか。
フェイクニュースは風評被害もそのせいだ。拡散は規制されるべきなのか。
グローバル化した社会において、それは、いつの間にか意味を失って空洞化した。
都市という箱があるのに、価値を生み出せないジレンマをバブル崩壊後に経験し、その後やがて
箱がなくても価値を生み出せることに気が付かないまま、箱のある日常が価値を生むと信じる時代がつづいた。
箱のなかにいることで感染が広がるコロナになって、狭苦しい箱のなかで3密回避を強いられ、ようやく都市という過密な箱の価値を見直し始めた。
満員電車に乗って、都心の高層ビルに通う価値がわからなくなってきた。
おそらく古今東西、都市というのは、本来、そういう閉塞的なものではなくて
外に開かれ、多様な価値が交錯する場所だっただろう。路地裏があり、道を外れれば新たな発見があった。
巨大だけども、同じ箱のなかで似たような人が似たようなことを考えている。
どこにいっても似たようなものを売っていて、郊外にイオンがある景色が同じだ。
何を売るか。その命題もまたモノからサービスへとテーマが移っていった時代に、あいまいになり
明確にとらえることを怠ってきた。ブランドとして売るべき価値をしっかりとらえるようになってきたのは
ここ10年の話。しかし、それでも「日本すげー」的なナルシシズムへの囚われから脱却できないどころか、ますますはまり込んでいる傾向がある。
かつての日本はプロダクトアウトの発想でモノを売れた。市場価値とグローバルスタンダードは自社が確立し、人々を自社製品をとりこにさせる意気込みがあった。
このマインドが亡霊のように世代に成功体験として引き継がれ、さまよい続けた結果、マーケットイン(あるいはゼロベース)から
スタートする設計思想がはぐくまれない世代が全世代に蔓延した。
明治期には世界とりわけ西洋文明に対する学びの動機付けは強烈なものであったが、それによる成功体験が財産となるにつれ
徐々に失われ、渋沢栄一の時代の渇望はもはや存在しない。世界で何が起ころうと関心がない。先進国でコロナワクチンを占有され、途上国は必要なインフラもリソースもなくあえいでいるというのに、オリンピック開催にまい進しようとしている姿は森元というより、日本社会自体の老害化を象徴している。
かりにもSDGsオリンピックを謳うのであれば、途上国へせめて超低温冷蔵庫の無償プレゼントくらいしてアピールしてやるべきだが、外務省の国際協力の実態としては
インフラ輸出などさまざまな分野においてここにきて、世界各地で中国にオセロの白黒をひっくり返されているのが実情だ。
端的にいって、日本の国際協力はニーズのつかみ方が根本的に間違っている。日本式ありき、であり、自分が思い描いた「日本すげー」「日本式」が売れることがとにかくプライド。
それがいかにも押しつけがましい。しかもそんな態度が煙たいのに本人気が付かない鈍感さがセットで。
それは無自覚なプロダクトアウトであり、状況の変化に鈍感でニーズを何も学ばない老害だ。
都市というのは、そういう老害のウイルスにあふれていて、都市にいればいるほど、人間がダメになる気がするほどだ。
コロナ危機というのは、幸いなことに、過密への忌避、都市への忌避を通じて、都市がこれまで生んできた価値への反省を呼び起こす、とてもいい機会になった。
郊外や地方、あるいは場所を選ばないグローバル社会のバックグラウンドとしての価値、ということだけではなくて、
何を価値創造するか、売るか、ということにも立ち止まって考える機会を与えたと思う。
また、東京という超過密な箱のなかで行われるオリンピックというイベントをめぐって、さまざまな欺瞞と矛盾が浮き彫りになった。
なにより浮き彫りになったのは、都市の箱の価値を無自覚に信じつづける自分たち自身、日本社会全体の老害化だったと個人的には思う。