はてなキーワード: 底辺校とは
2000年代末に偏差値40ぐらいのド田舎の高校(いわゆる底辺校)を出た人間だけど、はっきり言ってそのレベルですら推薦入試はかなり成績優秀じゃないと使えませんでした。
指定校推薦に至ってはそもそも枠自体がほとんどなかったです。地元のボーダーフリーの大学ですら自分の高校には枠を与えてくれませんでした。
ましてや早慶や日東駒専といった有名大学の枠なんて1つしかありませんでした(確か明治)。
指定校推薦を使える時点で高校のレベルはそれなりなんですよ。本当の底辺高校には指定校推薦はおろか推薦入試すら無理なので。
ついでに自分は頭が悪すぎたのと、地元の同級生から集団ストーカーされていたので進路特定防止のために推薦入試は絶対に無理でした。
どれくらい悪いのかといえば、模試も定期テストも280人中下から数えたほうが早いという感じでした。
結局センター利用で色々やってみたんですが、底辺校の底辺にふさわしいゴミスコア(6教科7科目で7割)を叩き出したので地元の定員割れしていたFランすら落ちましたね。
幸い「大学」と名の付くところには2つだけ引っかかったんですが、そこも偏差値が存在しないガチ底辺大学(文学部と産業社会学部)だったのでぺんぺん草も映えません。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE227KZ0S2A920C2000000/
公立高校で教師をやっている。うちの学校には外国籍の生徒が多数いて、外国籍者対象の入試がある。正直、大変なことは多い。各々日本語習得のレベルも違う子たちに教える先生達の苦労は大きいし、同様の入試制度を持つどの学校の話を聞いても、カリキュラム内外の日本語指導は十分とは言えない。本当に色んな課題とか見えない問題があって、各論で話さないといけないこと多々なんだけど、面倒なのでそれはしない。
ただ、ブコメの「日本語ができないのに高校に入れる必要はない」という意見を読んで、違和感が生じた。なぜか。
一つは単純な理由で、日本人であればどんなに勉強ができなくても、あるいはしなくても高校には入れるからだ(実際外国人も定員割れてるところは入れるけど)。外国人というだけで「日本語ができるようになってから」等と言われてしまうのはおかしい。それは差別以外の何物でもない。実際に生徒を見ていても、学習意欲のない日本人生徒よりも、日本語では劣るが学習意欲の高い外国人生徒の方が、高校という場には似つかわしいと感じるときだってある。
ただ、たしかに「高校入学のための日本語学校/試験」のような制度/体制ができれば理想的だという意見には同意する。とはいえ、その実現は遠い話のことのように思える。その間にも日本語はできないけど高校で勉強したい生徒はいなくならないんだし、とりあえずは今ある学校での日本語指導体制を整えた方がいいんじゃないか、というのが一点。
もう一つは、「まずは日本語だけ勉強しといてね」というのは意外に難しいことだからだ。当然ながら、言語は内容と結びついている。マックで働くのに必要な言語と学校の学習に必要な言語は違う。学校で教科を学びながら日本語を学ばないと、いつまでたっても学習で使う日本語は覚えられない。そして一般に、学習に必要な言語の方が習得には時間がかかると言われている。「まずは日本語を」とやってたら彼らはいい大人になってしまう。
ただ、全く日本語ができない状態だと授業どころではない。そりゃそうだ。なので、現状でも入学までに日本語学校に行くのはよくあるケースだったりする。それでも、その程度の語学力では高校での学習にはやはり不十分で、そのギャップを埋めるのは「学校で」行うのが一番効率がいい。本人の努力と周りのサポートは不可欠だが。
ちなみに、こんなニュースが出てるのは文科省が高校の日本語教育に梃入れしようとしてるからだろうと推測する。この2つ目の理由のようなことはJSLカリキュラムと言われて小中では既に実践されているところもある。高校もそれに続けというノリで、何だかなあと思う節もあるが、現実的にはこの方向性で行くしかないと思っている。
あと、最後に。ブコメを見てて「入試の枠として必要なのか」「割合を上げる必要はあるのか」という意見があったが、同程度日本語ができない外国人同士でも学力は違うので、全て底辺校や特定の学校に押し付けると生徒にとっても学校にとっても不幸なことになると思う。例えば勉強のできる子は学習に必要な概念も母語でわかるので、必要なのは主に訳語になるから日本語習得も早い。そういう子はある程度学力で学校を選べる方が有意義な教育を受けられるとは思う。
「高卒は人生終わり」、「Fラン大学なんて行っても意味がない」と言われ続けて、育った自分にとっては未知の世界である。
罪はないが、制服を水商売や反社風に着こなすファッションセンスに怯える毎日が続いている。
テレビで見る、ビッ◯ダディや、ノンフィクションに出てくるような訳あり家庭がほとんどだ。
テレビを見て複雑な家庭環境に驚いていたが、同じような家庭は多くある。
ヤンキーファッションに肯定的であったり、自分の育った環境とは全く違う価値観を持った人たちが多くいることがわかった。
ただ、彼らが不幸か、格差の下なのかと言えば、そうともいえない。