台湾地震発生のニュースを見て、いてもたってもいられなくなったんだ。
そもそも僕は必要以上に給与を貰いすぎなのだ。額は年齢平均程度だけれども共働きだし2人とも浪費癖もない。好きな時に外食して、たまにタクシーに乗ったりしても、口座には毎月5万程度は貯金できる。
将来困ったらそのときはそのとき。そんな心配より今困っている人を助けるべき。
有意義に使うよ。
そう言う僕を妻は止めなかった。
ただ「昔はお互いお金がありませんでしたね」と微笑んだ。
大学生の頃に付き合ってからもう12年ほど。社会人になって就いたプログラマの職は手取りで14万だった。
結婚記念日に何が欲しい、と聞くと、首飾りを欲しがった。小さなダイヤの、首飾り。
珍しいな、と思いつつ、そういえば今までほとんどアクセサリなど買ってあげたこともなかったな。マルイで買った数千円程度の首飾りの他には結婚指輪くらいだ。
今まで我慢させていたのだろうな。
やや反省して、いいよ、と言い、週末に銀座のブランドショップで気にいるものを買ってあげた。
もっと稼がなきゃな。
米山知事が“買春”報道で辞職した。しかしあれは本当に“買春”だったのか。決まった相手とお金を払って(もらって)肉体関係を結ぶという意味ではあれは“愛人”ではなかったのか。そしてそういう関係の女でも、知事当選におめでとうとメールが来れば愛人が本命になってもおかしくない。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男ならそう思ってもおかしくない。たとえお金を払っていても、彼女がそれをもらってくれて逢瀬を重ねてくれるなら、それはいくらかでも自分のことを気にしてくれている、少なくとも拒まれてないと思ってもしようがないではないか。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男とはそういうものだ。そういう関係の中で、針の穴に糸を通すような希望を持って、彼女がいつか自分のことを愛してくれるのではないかと思うことは、やむをえないというよりそうならざるをえない。人並みの青春を過ごし同世代の女性と愛を紡ぎ体を交わしてきたような恋愛健常者にはわかるまい。私は彼がどのような想いで彼女に三万円渡していたかと想像すると胸が詰まる。ほんのわずかな時間。体だけの関係。それでも彼女が喜んでくれるなら金も払う。彼女の笑顔が見れるなら、彼女のぬくもりが感じられるなら、それが全てなのだ。心無い人は言う。今まで人生生きてきて金を払うことでしか女性と関係を築けないのは人として大事な何かが欠けているからだ、と。おそらくその指摘は正しい。だからどうだというのだ。人生を成り直すことなどできない。青春時代をやり直すことなどできはしない。お金を払わなければ女性に振り向いてもらえない男になってしまったら、それはそのまま生きていかなければならないのだ。そういう人間に、いわば不具者に、一生女のぬくもりもキスの味も自分だけに向けられる笑顔も知らずに生きてそして死ねというのか。自分の金で好きな女に金を渡して何が悪い。たとえそれが商売女であってもだ。まして今回はしろうとである。出会い系サイトで知り合ったと言うが、彼にとってはまさしく“出会い”だったのであろう。相手ははじめから金を要求しいわばワリキリだ。そりゃ払うさ。それでぬくもりが手に入れられるなら払うさ。相手では成人女性である。何が悪い。売春防止法?だから売買春じゃないって言ってるだろ。恋愛不具者にとってはお金を払うことが唯一の手段なのだ。恋愛健常者はそれを奪うのか。責めるのか。ひどいじゃないか。お前らは幸せなんだろう。なんで不具者にやさしくしてやれんのだ。女と交わる方法を知らない男にとって、女に(肉体的にも精神的にも)受け入れてもらうことがどれほどの救いになるかわからんのか。わからんのだろうな。きっと恋愛健常者どもは自分の幸せを当たり前と思い、そして他人も当たり前に手に入れてると思い、それができないものを劣ったものとして嘲笑し一時の享楽にしてそしてすぐ忘れてしまうのだろうな。彼は人生を棒に振ったのだぞ。スーパーエリートの彼があのような行為でしか女性を関係を持てなかったのだとしたら、自業自得などととても言えない。しかし市井の人々には理解してもらえぬのだろうな。私はそれが悲しい。
記者やそれに準ずるような職業の人が、二人っきりで話す機会を避けよう的な話に懸念を述べていて、それもセクハラ許さんぞ!イナゴたちに批判されている。
オフレコだと言って実は録音していました。それをテレビやらなにやらで放送されましたじゃ、今後誰も記者と話をしようとする人間がいなくなると。その懸念は全くその通りだと思う。
自分はあまり得意ではないが、そうやって人間的な付き合いをしているうちに話す気になるみたいな『腹を割る』コミュニケーションは今後は難しくなるだろう。
交差点の信号待ちで自分のほうが前になって横断歩道を渡った先で曲がったらパトカーも後から曲がってきた
そしてまた通り過ぎていったと思ったら斜め前で停車
降りた警察官がこっちに走ってくる
と思っていたらすぐ横を歩いていた人が歩道の片隅に連れて行かれた
その後運転していた人も降りてこっちに駆け足で向かってくる
車置いて二人も来て職質なんてそんな危ない人だったかな?
そう思って振り向いたらバンザイポーズして身体検査みたいなことしてた
職質されてた人の容姿は目を覆うくらいに髪は長め
俯き気味でカバンを持って歩いてた
おどおど系のオタクって感じがした
引きこもりコミュ障からすれば何のおかしさもない普通なスタイルだ
それだけでパトカー降りて走って駆けつけるほどの職質に合うなら引きこもりは家を出てはいけないってことだろう
辛い世の中だ
財務省の偉い人がセクハラしたと騒ぎになってるけど、そもそも公務員とマスコミが非公式な取材として会食ってどういうことなの?
とすると割り勘?
日本自動車販売協会連合会(以下、自販連)は、月別・年別の新車販売台数を統計として発表しています。自販連は車種を項目としては販売台数は発表していないため、各ブランド車(トヨタのクラウンやカローラ、SUBARUのレガシィ等)をセダンとし、2015~2017年の販売台数を見てみました。トヨタのクラウンやカローラは販売台数が減少しており、プリウス等は2016年は上昇していますが、2017年は一転減少しています販売台数トップ50のブランド車しか見れないのですが、新聞の報道等を見ていても全体として減少している傾向にあるようです。
セダンは、今後の社会においても必要なのでしょうか。過去、セダン型の車が新車販売台数のランキングで席巻していた時代もあると思います。それはおそらく、自動車の用途が、家族の外出くらいにしか考えられておらず、家族の形態も核家族がほとんどだった時代でしょう。ただ現在は、サーフィンやゴルフ等のスポーツを楽しんだり、遠出せずに近場のスーパーに行くため等、人々の自動車の用途や家族の在り方が多様になったことで、セダン型の自動車がその目的に適わなくなってきたのでしょう。
最近では、都心に住む若い人は車自体に興味を持たなくなりました。都心に住まなくても交通網が発達しているし、シェアリングカーといったサービスも増えています。普通のサラリーマンであれば週末にしか乗る必要がないので、レンタカーを借りた方が、自動車重量税といった税金を払う必要がないので、昔からその方が合理的だったかもしれません。それでも昔の人が車を求めたのは、それが一種のステータスであったからですよね。ただ、今の若い人は車に対して社会的なステータスは感じていません。カーセンサーといった中古車取引サービスが成熟しており、車自体の値段も多様化しているので、車を持っているから「裕福だ」、「すごい」という発想には至らないですよね。
それでは、今後セダンはどのように生き延びていくべきでしょうか。私は、自動車メーカーはセダンを社会的ステータスを表すシンボルにブランディングすべきだと思っています。昔は、ポルシェやフェラーリといったメーカーの車を持っている事自体がステータスでした。ただ、今度は車型だけでその所有者のステータスを表すようにしていかないといけないと思います。スポーツカーのように走りが好きでもない、4人も車に乗せる必要がない、でもコンパクトカーは嫌だという層にアプローチしていく必要があるのではないでしょうか。そうする事で、セダンの寿命を延ばしてく事ができると思います。
多くの公用車は未だにセダンが用いられています。英国の王室などを見ていても、彼らが乗っている車はセダンです。セダンが、社会的に上位のステータスを表すシンボルとしての基礎は出来上がっているので、あとはどのように強化するかが大事になります。
当分動きそうになかったし、再開しても人口密度すごそうだったので、近所のバーガー屋で1時間以上つぶして駅のホームに行った。
電車は少し前に動き出していて、人は多かったけど思ったほどじゃない。
入ってきた特急もかなり空いてて、これなら意外と楽に帰れるなと思った……
プレミアムカー(有料車両)の扉は開かず、それを知らずに並ぶ人は大勢。
その結果、隣の自分が並ぶ車両にかなりの人が移動し、車内はぎゅうぎゅう。
当然、自分が乗る車両の中から隣のプレミアムカーに入ることもできず、家畜として運ばれる気分で帰宅した。
目的地に到着し、やっとの思いで車両から降りてプレミアムカーを確認すると誰も乗ってないの。
利用を中止してるの。
プレミアムカーは立ち乗りを想定した作りになってないだろうから、吊革なんてないだろうけど、あの密度だったら一般車両なんて、他人に体重かけるしか身体を支えられなくて危険度半端ないわ。断然プレミアムカーで立っとく方がまし。
なんとなく、災害の時に不平等だからという理由で、支援物資の毛布を配給しなかった事例を思い出しました。
満員の車内の遠くから、見知らぬ爺さんが見知らぬ婆さんを延々と説教してる声が聞こえていたのが、個人的に地獄みが高かったポイントです。(2人は恐らく赤の他人)