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新型コロナ 雑感 - id:deztec で 「自分が死ぬ前提だからこそ、経済停止には反対だ」への反論 に対して返答を頂いたので、一部に対してではありますが、再返答させていただきます。
死者が高齢者に集中することは既に判明しており、「死のリスクが均等でない」状況で、低リスクの者が多数決で「対策せず」と決めてしまうことの倫理的問題は、新型コロナに関して、確かに存在します。
その点は認めます。
まず、倫理的問題の存在自体については合意いただけたことを嬉しく思います。
ただ、それは確かに褒められたことではありませんが、「私たち」は長年、世界中の貧者を見捨ててきました。ハイリスク群を「自分とは関係ない」と見捨ててきたのです。飢えもマラリアも、命の危機であることにかわりはありません。
私は長年、国連WFPに寄付を続けています。日本人が収入の1割を提供すれば、日本人だけでも世界を飢えから解放できます。しかし自分も、5%を寄付するのがせいぜい。貯金は積み上がっているのに、収入の10%の寄付には、なかなか踏み切れない。
たかが「豊かな暮らし」のために、本当は助けられた他人の命を、どれだけ見捨ててきたのか。
私がこれを読んで連想したのは、哲学者のピーター・シンガーは、貧困と戦う団体に自身の収入の25%を寄付している、という話でした。(Wikipedia 情報ですが)彼が言うには、「小さな子どもが浅い池で溺れているとき、自分の新品の靴が犠牲になる程度のことをためらって子供を引き上げないのはよくない。これと同じ原理で、裕福な人々は貧しい人々に寄付をすべきであり、しないのは悪である」ということです。これは、deztecjp さんがおっしゃっている話と近いと思います。
この立場は理解できます。理解できますが、これは、いかにも原理主義的であると思います。
ここで、deztecjp さんが昔、ヴィーガニズムや反出生主義について書かれていた文章を引用します。
ヴィーガニズムや反出生主義に接すると「じゃあ死ぬしかないね」と反応する人が少なからずいるが、そうではない。これらの思想は、実践的には「悪を背負って生きろ。正義面して生きるのは欺瞞だ」という主張なのだと、私は認識している。
deztecjp さんが今おっしゃっていることは、まさにこれと同じ、「正義面して生きるのは欺瞞だ」という話にみえます。そういう立場から私が「倫理」という単語を使ったのが気に入らなかったのであれば、それは理解します(といったものの、適当な他の言葉が思い浮かばないのですが)。
けれども、そこで「身近な命が失われるのを避けたいと思う人」に向かって「そんなのは不合理だ」と突きつけるのは、ヴィーガニズムや反出生主義に「じゃあ死ぬしかないね」と言い放つのと、同じような行いに見えます。(実際、ピーター・シンガーについていえば、ヴィーガニズムも支持し、実践しているんですよね。原理主義的な立場を突き通すことのできる、稀有な人なのでしょう)
私は倫理という言葉を使ったけれども、今しているのは、政策決定の話です。「悪を背負って生きろ。正義面して生きるのは欺瞞だ」という個人の意識レベルの話と、政策決定レベルの話とには、大きな開きがあると思います。
いま経済封鎖なんて政策に支持が集まるのは、所詮、自分の命にも危険が及んでいると思うからに過ぎない。私はそう確信しています。今更、倫理によって経済的損失を甘受すると言い出すなど、二重に自らを偽り、己の冷酷から目をそらして「いい人のつもり」になるがごとき所業だと思います。
Twitterで、コロナ患者の治療に携わる医療従事者が、経済封鎖を訴えているところを見ます。彼ら彼女らの多くは、感染リスクに怯えながらも、自身の仕事を全うしており、私は彼ら彼女らに大きな敬意を表します。
医療従事者は、感染拡大が広がるほど、感染リスクに晒される可能性も高まります。では、彼ら彼女らが経済封鎖を訴えるのは、「自分の命にも危険が及んでいると思うから」に過ぎないのでしょうか? もちろん、直接的動機はそうかもしれませんが、ただ、それを言ったら自分の命を守るためにいちばん合理的な行動は、仕事を放棄して逃げ出すことです。でも、そうしていない。もちろん、職を失うリスクなどもあるかしれません。でも、彼ら彼女が逃げ出さない理由の大きな要素のひとつに、個人の持つ職業倫理があるのは、まず間違いないでしょう。
人々には、飢える人々のために寄付しないという利己的な面もあれば、職業倫理のために自分に降りかかる命のリスクを受け入れるという利他的な面もあります。人々の利己的な面のみを強調し、そのような利己的な面を敷衍することで、「たかがこの程度の数の命のために経済封鎖をするなんておかしい、それは己の日頃の冷酷さに目をそらしているだけ」という主張につなげるのは、「我々が日頃動物の屠殺をしたり、子供を生んだりといった、ヴィーガニズムや反出生主義に反する行いをしている。これらは殺人と大差ない罪なのだから、殺人の刑罰がこんなに重いなんておかしい」と訴えるのと同じような極論だと、私の目には映ります。
なにか自分に都合が悪いこと、直面するのがとても恐ろしいことが起こった時。私たちはそれに対峙するか、逃げるという選択肢を採ることができる。
たとえば自分が不祥事の当事者になった時に、周囲からの追及を逃れようとして、雲隠れしてしまうことも逃避の一種だ。
だが、どこにも逃げ場がなくなった時にはどうすればよいか。
自分自身を消せばいい。
自分自身の力で世界を変えることができないのなら、怖れの苦しみを逃れる手っ取り早い方法は、それを感じる意識を消すことだ。
どこにも逃げ場がなくなって、服毒自殺を図ったり、睡眠薬等のオーバードーズを起こすということは、自分自身の情動をやりくりするための戦略だ。それは魔術じみた子供だましに周囲からは見えるかもしれないが、本人にしてみれば、立派な戦略なのだ。
そんなことを言ってた哲学者がいなかったけか。サルトルだったと思うんだが。
La multiplicité des conduites émotionnelles
Suivant les formes prises par l'émotion, la transformation revêt des formes différentes : l’anéantissement des objets (et parfois de la conscience) pour la peur, l’uniformisation de la structure du monde pour la tristesse passive. Le moteur de l’évasion est l’impossibilité de confronter un objet dans le premier cas ou d’adapter les moyens face à la disparition d’une des conditions de l’action dans le second.
情動が採る形態によって、変容は異なる形態をおびる。怖れにたいして、対象の無化(時には意識の無化である)、受動的な悲観にたいして、世界の構造の画一化といったように。逃避を動機づけているのは、まず、対象に対峙できないこと。さらには、行動するための条件が無くなってしまった状況に適応する術を失ってしまうこと。
http://www.cnam.fr/servlet/com.univ.collaboratif.utils.LectureFichiergw?ID_FICHIER=1295877018192
哲学者「。。。。。」
志村けんが感染したからそれだけ感染が広がっているというのは間違い。
ただし、これをなぜ人間が間違えだと感じてしまったのかの説明は簡単にできる。
ここで隣に住んでいるおじさんに登場してもらおう。
志村けんと隣のおじさん、それぞれ新型コロナにかかる可能性はほぼ等しい。
あの哲学者を否定する人間はこの部分だけを切り取ってボコボコに叩きに行った。
なぜなら、志村けんと隣のおじさん、どちらも新型コロナにかかっていたとして、それだけでどれほど感染が広がっているかの判断はできないからだ。
ではここでもうひとり隣のおじさんに登場してもらう。
もし、この二人目の隣のおじさんが新型コロナにかかっていたとしたら、自分はどう感じるだろうか。
「自分の身の回りに二人もかかっているのだから、自分の周りにおいては(ここ重要!)感染が広がっているに違いない。」
そう感じることだろう。
どちらの隣のおじさんも、新型コロナにかかっているかもしれない可能性は全国民と等しいはずだ。
もしこれが宝くじなら、隣のおじさん二人が宝くじに当選したとしても自分が当選する確率に変化はない。
近い人間がかかればかかるほど、自分の周りににおいては(くどいけどここが重要!)蔓延していると考えることは論理的に正しいと言えるのだ。
そして問題は、この隣のおじさんを志村けんに置き換えてよいのかどうかという点にある。
芸能人というのは日々テレビに出続けることで、一般人に対して距離感を誤解させる存在だ。
あの哲学者は自分からが一方的に知っている芸能人に対してまるで隣のおじさんかのように距離感を誤解してしまったことで、自らの近い存在が感染した=それだけ身近に感染が迫っていると勘違いしてしまったのだ。
隣のおじさんが感染したと感じたときの自分の周りとは、おおよそ半径数キロの圏内である。
コロナ自体はクラスターというものが発生して感染を拡大させるものでもあるので、日本全体の発生率に比べて局地的な発生率に偏りが起こりやすいと言える。
たとえ隣のおじさんがふたりともコロナに感染していたからといって、それはあくまで局地的な話である。
その実に局地的な話を、日本全国規模にまで置き換えてしまったことで、自らの観測範囲を全体に置き換えるな!というつっこみが殺到したと言える。
どちらにしても自らの観測範囲を誤ってしまったことが原因なのだが、それをややこしくしたのが志村けんという国民の多数から一方的に知られる芸能人という存在だからだと言えよう。
まとめると、
・芸能人という特殊な距離感が、まるで自らの身近なことのように勘違いを誘発した
・自らの身近な観測範囲を全国規模に置き換えて数字の否定をしてしまった
ここでもう一つの勘違いを指摘するなら、志村けん一人の感染しかまだ確認されていないのに、それがあの界隈で連続するであろうと予測をしてしまったことも加えておきたい。
これは人間がデータの裏に規則性があるものと思い込むバイアスが原因なのでどうか責めないでやってほしい。
https://togetter.com/li/1485833
哲学者の森岡正博氏「超有名人の志村けんさんが新型コロナウイルスに感染する確率はどれくらいだと思う?感染拡大のペースは想像をはるかに越えている。桁違いの感染者数になっている。」
東京の人口が1000万人、コロナ陽性が200人だとすると200/1000万*100=0.002%
じゃあ、何人だったら志村けんが陽性であることが起こりえるかな
まだまだ足りない、10000で0.1%、10万で1%、全然起こりえない
まあ、10%だったら起こりえる?
志村けんがコロナ陽性になる確率が低いからもっと多いはずだという論理から導かれる実際の東京の感染者数は100万人ぐらいだな
東京やべーな
このあと東京の感染者数がすごいことになっても自分の間違いをみとめるブクマカはいないんだろうな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/Sukuitohananika/status/1242698846032953345
みんな冷静に計算してほしいけど、東京都の新コロナ感染者数は現在171人。東京から無作為に200人をピックアップしたときに、その中に超有名人の志村けん氏が入ってる確率ってどのくらいだと思う? 現在の感染拡大ペースは我々の想像をはるかに超えてるよ。桁違いの感染者数になってるよ。— 森岡正博 (@Sukuitohananika) March 25, 2020
問い:「1000万人の人口からX人を無作為にピックアップしたときに、全員が知っているある有名人YがそのX人の集団に含まれていることが理にかなっているためには、Xは何人でなければならないか計算せよ。」このときのXが東京都の感染者数の推定となる。統計強い人よろしくお願いします。— 森岡正博 (@Sukuitohananika) March 25, 2020
ホッテントリの100分de名著の動画を検索して、ラッセルの幸福論についての回を見た
ラッセルは自分の無意識と意識、自分と社会が矛盾ない状態であることが幸福である、と言ったそうだ
幸せには社会との・他者との関わりが必須だとして、積極的に関わっていくことが大事だと言っているようだ
自分の表層意識と無意識がズレてると鬱になるのは分かる、一致させるようにしていくことで幸せに近づくのは分かる
ラッセルは既に有名な哲学者で、自分の信じるものと社会のズレを合わせるべく、反戦活動をしたんだそうだ
話変わってうちの父、75も過ぎてなお社会、世間、他者に文句ばかりだ