はてなキーワード: 冥土とは
通り抜けるにはセルフレジ、またはレジを通らないといけないから逆走は出来ない。
そんなことする奴いないと思っていた。
荷物を袋につめていると、急に一緒に来ていた母に引っ張られた。
「どいて!どいて!」と叫んでいる方向をみると、じじいがカートを押していた。
1人しか通れない、会計後の人しか通れない道を堂々と逆走してきた。カートを杖代わりに歩いてた。
「通路塞いでんじゃねぇ!」と怒鳴られた。
母が言うには、じじいが叫ぶよりも前に私を引っ張ってどかしたらしい。
「叫ばれた子かわいそう」という周囲の空気を一身に受け、いたたまれなくなった。
じじいはつぶやきながら歩いていった。
母は「たった数歩の道なんだけど、歩くの辛いんだろうね。でも自分で買いに来て偉いわ~」という
「あー、これが老害ってやつか。年上が偉いとか思い込んでそう。
ネットでの注文が出来ないから買い物きてるんだな、あー!カワイソウ!!!」
と考えてた。無償の愛を与えてくれた母よ、あなたが聖母でしたか!!
とりあえず、じじい。お願いです。逆走だけはやめてください。
https://anond.hatelabo.jp/20170626192037
こんばんは、id:sugimurasaburo さんからIDコールをいただきました。ありがとうございます。船橋海神(id:cj3029412)です。本職はねこちゃんの保護、趣味はブログで嘆くこと、在野で中世古文(特に助詞助動詞)研究を行っております。キャッチフレーズは「(´;ω;`)」「でかいです」。将棋も大の好物です。
以下は私の私淑する大野晋先生およびその決定的名著/集大成であらせられますところの(敬語の誤用)「岩波古語辞典増補版」(2016/1/12補訂版第23刷)に依ります。
よろしくお願いします。
(A)~(D)は上の引用解説を便宜的に分類した符号。【訳】は私のもの(一部、戯れ)です。
元増田氏の理解(「加藤一二三という男がいたそうだ」)(「伝聞の過去」になるんじゃないだろうか?)とは少うし違いますけれど、私も第一感、失礼…というか、そんなに遠い昔の話だっけ、という印象です。端的にいえばアホバカクズ受信料払わねえぞと申し上げています。
(ちょっと一休みしましょう)ちなみに、この日記に私が付けたタイトル「強いんだっけ」の「け」がそうです。「けり」の「り」が落ちました。
米長邦雄永世棋聖くらいでしょう。米長先生が戯れに「加藤一二三という男、ありけり」とおっしゃる、これはありえます。「君たちは知らないだろうが、私もいま思い出したのだが、加藤一二三という男がいましてね」あるいは「あら、こんなところに加藤さん、(ずっと)い(らっしゃっ)たんですね(気づきませんでした)」。しかしこれも(ジョーク以外では)無理がありますね。ありえるとしたらかなり特殊な状況ということです。
(参考) https://www.youtube.com/watch?v=pr6-Bv3RVTw
https://anond.hatelabo.jp/20170626193212
トラバの増田氏、慧眼です。古文研究をやっていてよかったなあと思う瞬間です。筋違いながら御礼を。
ネットスラングの【場合によるんだ(よ)なあ】で訳すのが一番しっくりくると思います。(過去)回想/気づきの原義は退き、(自分も気づいた)から同意/強意/念押しのニュアンスが全面に出てくる、その変化点が味わい深いですね。ちなみに、この線でお題の「加藤一二三という男、ありけり」の出るような状況を無理やり設定するとしたら、棒銀のことを話題にしているのにスレのだれも加藤先生のことを話題に出さない。そんなときに【加藤一二三という漢がいたんだよなあ】と、誰かがきっと書き込むでしょう。例えば、そんな感じです。これも、やっぱり例外的ですね。
「けり」は、幅の広い、陰影に富む助動詞です。それを、おそらく伊勢物語から(あるいは、伊勢であることすら忘れて何となく)「昔、男ありけり。」をただ引っ張ってきてNHKは使ったのではないかと想像します。ここからは物語論の範疇ですが「昔、~けり」とやると、一気に作品世界が遠い昔/架空の物語に飛ぶ。その効果を古人はよほど気に入ったのでしょう。いろんな作品が「昔、~けり」を使っています。NHKはさすがに「昔、」とやるのはおかしいということまでは感じた。ならば、もう一歩、脚を止めて考えるべきだったと思います。
お粗末さまでございました。
「けり」の思い出し(回想)効果は、いちど忘れていたことが前提になります。いま、加藤一二三先生のことを忘れてしまっている人はいませんね。ですから失礼というのは正しい直観だと僕は思います。
「けり」を使うくらいですから、7/1のNHKは「神武以来の」と形容されたデビュー当時の、みんなが直接体験過去としては忘れてしまっていたところにフォーカスするのでしょうか。あるいは第19期名人戦で大山康晴先生にこてんぱんにやられたことを加藤先生に述懐していただき、秘話を発掘するといった「気づき」があるのでしょうか。よもや、升田幸三/米長邦雄を冥土の鷺宮から召喚するのか。期待しないで待ちたいと思います。
いずれにせよ、今回、元増田氏が感じたような、現代人の古語の扱い方に対する「もやもや」は、古語研究のもっとも大切な礎の1つです。ぜひ今後とも大切になさってください。楽しかった\(^o^)/
近年、有名人などが亡くなった際に、亡くなった方の属する宗教・宗派が分からないのに、気軽に「ご冥福をお祈りいたします」というフレーズを掲示板やコメント欄などに書き込む人が多い。
ぶっちゃけ、よく怖くないな、と思う。「ご冥福」というのは、単純に考えれば「冥土での幸福」ということなのだから、「冥土」が定義されていない宗教では未定義になる。あるいは、「冥福」より広く解釈して「死後の幸福」という意味で使ったとしても、「死後は必ず幸せになれる」という教義の宗教の場合は、心配しなくてもいいことを祈っていることになる。空文と同じだ。
というわけで、未定義エラーまたは空文になる可能性の高い「ご冥福をお祈りいたします」という言葉は、慎重なプログラマなら避けるべき言葉である。「ご冥福」などという教義依存(環境依存)な言葉を持ちださなくとも、「謹んでお悔やみ申し上げます。」に言い換えれば良いだけの話だ。
彼女との関係がぷっつりと途切れたのは、秋の連休のまっただ中で、それも告白をして欲しいという要望に応えた直後だった。告白に失敗したのだろうと言われれば、まったくのところその通りで、彼女のなにかに達していなかったことを突きつけられて、愕然とした。
ぼくの告白が、彼女ではない部分に対してされているのだといい、電話を一方的に切り、電源を切り、それから逃げるように電話番号まで変えてしまう。それは疾風のようなはやわざで、のんきなぼくがあっと口を開けている間にすべてが済んでいた。
嵐のような撤退劇。
無音になった携帯電話をにぎった右手をあわてて放す。
あちっ。
社会人になってもう何年も経つのに、ついさっきまで高校生だった子を口説くなんて犯罪じゃないかと、友人は笑って言う。
「うるさいな、仕方ないだろ、なりゆきでこうなっちゃったんだから」
「惚れてるの?」
「うっさい」
「じゃあ、あれだ、きっとどこか問題がある子なんだ」
問題じゃない、心の傷。
そうぼくは反論するが、仲間内ではぼくはメンへラーハンターということになっていて、そういう子を見つけるとつい手を出してしまうことになっている。手を出すといってもなにか対価を求めるわけではなく、ただ単に話を聞いたり、問題を解決したり、足りないものを足したり、そういうことをする。
さとしたり、なだめたり、たのしませたり、いっしょに哀しんだり。
そうやって元気になっていく姿を見るのが、ぼくは好きなだけなのだと思う。
だけど、その心の傷の周りには、地雷のようななにかが埋まっていることが多く、うっかりそれに触ると、大やけどをすることになる。
「それで、どんなの子なの? その短大生」
興味半分に聞く友人に、ぴったりの言葉を探す。
「テロリストかな、ひとことで言うと」
彼女と出会ったのは叔父のささやかな個展で、芸術短大生だとなのる彼女は、叔父の作品を見て端的に批評した。
その剣幕に叔父もぼくもあぜんとしていたが、なにか切羽詰まったように批判する姿はそれでも心に残った。
「うーん、まあ、そういう見方もできるね、でも、あまり変わってないよ」
叔父はぼろくそに言われたにもかかわらず平然と答える。
あとで分かったことだが、彼女は自分に主導権がないと極度に怯えるらしく、そのときもしきりにマシンガンのようにだめなところを語って帰って行った。
彼女が帰ると、またもとの閑散とした個展に戻り、ぼくはほっと息をついて聞く。
「つらくないの? あんなに言われて」
叔父はああとつぶやき、まばたきをして、答える。
「でたらめなんだ、あれ。たぶん彼女、真剣に絵を描いたことがないんだよ」
叔父の話を総合すると、彼女の話はたしかにうなずけるところもあるが、話の80%ぐらいが憶測で話されており、それを指摘しようにもあのマシンガントークの中では、それを断念せざる終えないとのことだった。
「きっと批評に熱中するあまり、絵と向き合うことを忘れているんだ。どんな絵にもいいところはあるのに」
彼女のその批評は、周辺の個展でも繰り広げられたらしく、知り合いにそれとなく尋ねると、ああ、来たねと話が弾む。
「なんでも短大の有志であちこちの個展を批評して回っているらしいね」
「まるで、ゲリラ活動というか、絵を見に来ているのか、相手をけなしたいだけなのか、ほんとさっぱり」
そんな彼女の航跡を追い、話の断片を集めているうちに、次第に彼女の全貌が見え始める。
まあ、よくある話。
ぼくが追いかけてきた心の傷たちには、つらすぎることが多すぎる。
そんなものたちに囲まれていると、自分の周りのいいところが見えなくなる。
なにもかも世界がまるっきりだめなものに見えて、いっそ破壊してしまった方がいいのではないかと思えてくる。
それは分かる。
ぼくもテロリストだったことがあるから。
ぼくのテロリストとしての最盛期はたぶん彼女と同じぐらいの時で、なんでも世界中を破壊して回った。そうやって破壊していく自分がなにかかっこういい気がして、まるで、不良高校生のようにいきがって見せた。
といってもそれは実際に破壊したわけではなくて、その世界の本質を知りたくて、なにもかもをぶっ壊してみたという感じに近い。
たとえて言うなら、ウェディングケーキ。
幸せな結婚式場に乗り込んで、その甘ったるいクリームに両手を突っ込んで、中になにがあるのかを掴んでみようとする。クリームだらけになって、気持ち悪さに眉をひそめ、それでもその真ん中に、鉄の心棒が入っているのを掴んで、ゲラゲラ笑う。
しかしそれは醜悪なテロリストであるにすぎず、他の人が踏み込まないタブーを侵しているから他の人にできないことができていたにすぎない。
たとえばプラスチック爆弾を使う、カラシニコフを使う、火炎瓶を使う。
なぜ他の人が使わないかは明白で、それを使うことが、本来であればたいせつな守るべきものを破壊してしまうからだと、ぼくは気付かなかった。
颯爽とした自由を感じていたつもりが、それは単なる自損行為だった。
そうやって鋭さをむき出しにして、なにもかもを破壊して回って、悦に入っているうちに、自分を包み込んでいたすべてを破壊してしまったことに気付く。鋭い刃のほとんどは自分の心に向かって突き刺さり、自分で自分の息の根を止めてしまうに至る。
それがテロリストの末路。
だから、彼女を止めたくて仕方なかったのだ。
彼らは自分たちのやり方で、自分たちの幸せを作り上げ、作り方を知っているから、破壊されてもまたすぐに作り直してしまうよ?
結局壊れるのは自分だけだし、そのネガティブだけに染まって生きるのは危険だよ?
ぼくはもう耐性ができてしまったから、なにをしても心配がないのだよ?
しかし、ぼくは思うのだ。
あのテロリストだった頃のぼくにそれを言っても聞いただろうか、と。
彼女とふたたび出会ったのは半年もたった後のことで、叔父が個展を開くというので、開口一番に手伝いに名乗りを上げた。
案の定、彼女は個展が開くなりやって来て、例のマシンガントークをはじめようとしたので、ぼくは止めた。
「ねえ、こうしませんか? その批評に、他の人の批評も加えませんか? 叔父の絵を、個展に来る人はどう見ているのかを聞いてみませんか? ここで静かにそれを見ませんか? 礼金は払うので」
叔父を見ると、にやっと笑う。
「はがきは二百枚は出したかな」
「じゃあ、来るのは五十人ぐらい」
それは取るに足らないと彼女が考えているのは明らかだったが、そのたこつぼの正体を見ることには同意してくれた。
それからというもの個展開催中の1週間は毎日のように顔を出し、そして普段の激しい様子は出すことなく、猫をかぶったようにその成り行きを彼女は見つめた。
個展と言っても1日に数人来ればよいような閑散としたありさまで、叔父はそれをのほほんと受け止め、コーヒーを入れて、陽光を気持ちよさそうに浴びていた。3人に会話はほとんどなく、あってもちょっとした細々とした用事に必要な会話だけで、静かに漂うような時間だけが過ぎていった。
たまに来るお客には叔父は丁寧に接し、一時間も二時間も親しげに話した。
「これじゃあ、たこつぼどころか、単なる仲良しサークルじゃない」
珍しく彼女が言うので、ぼくはあきれて言う。
「まあ、そんなもん。ずっとそうだよ」
「え? でも、上手いよね? 少なくともいま売り出し中の××よりは」
ぼくはぎょっとして彼女を見る。
その純粋な瞳がぼくを射る。
(この子はいったいなにが分かってなくて、なにを知らないのだろう?)
叔父がのんきに言った。
「上手い下手ぐらいはさすがに分かります、本業ではなくても、画家ですし」
「じゃあなんで?」
叔父はのんびりとコーヒーをすすり、言う。
「これが気に入っているのです」
結局のところ叔父の個展で売れたのは20万の絵がひとつで、老人ホームに入るおばあちゃんが冥土の土産にと買っていった。
「夢に出てきちゃってねえ」
などという。
叔父はそれを快く譲り渡し、お金を貰って、ほっと息をついた。
彼女がどのような感想を持って帰って行ったのかは、実のところいまでもぼくは知らない。しかし、叔父は彼女が携帯電話を忘れていったことに気付いて、それをぼくに渡す。
叔父は言う。
「それが目的だったんだろう?」
正直そういうところをずばずばついてくる叔父は、苦手な部類に入った。
「うっさい」
全国のおじいちゃんおばあちゃん、そして団塊世代の皆さん、
ごめんなさい、早く死んでください。
この国の平均寿命は、あまりにも長すぎる。
血液循環を早くすれば、今の日本で起こっている問題がすべて解決すると考えるからだ。
長生きしなければ、現役引退後の福祉だの年金だのお金に悩まされなくていいし、
雇用だって給料の高い年配がいなくなれば、若い人に雇用が生まれるだろう。
政治だって、あんな冥土の土産で大臣になれました的な人事にはならないだろうし、
この先長くないとわかってる人に政治をやらせる意味がわからないよ。
お金を持っている老人や年配者がいなくなることでの消費問題?
そんなの全然問題にならないと思うんだ。
人は長く生きると思うから貯蓄に走る。
70前後で死ぬなら、現役時代から消費力は今よりも上がるだろうし、
年金だって長く生きないんだから、国は易々と供給してくれるはず。
わけわからない自論を展開してごめんよ。
でも、今の日本を苦しめているのもまた彼らだ。
だからごめん、早く死んで。
俺の場合、いまの彼女は四人目で、1人目はお互い何となく付き合い始め、3人目は相手から告白され、残りの2人は俺から告白したんだが、俺が好きになったその2人はどちらも、増田の言うところの「アイドルみたいな好きになり方」だった。むしろそれ以外の好きになり方は体験が無い。俺から告白したのではない2人のことは最後まで「好き」にはならなかった。話とかは合ったし気遣いもできたけどな。
俺ももう30代だからそんなに新しい恋愛もできないと思うし、いまの彼女とで幸せだ。冥土のみやげに「アイドルみたいな好きになり方」の他にどんな好きになり方があるのか教えてくれ。
あなたは死後冥土を彷徨う(極楽にも地獄にも行けない、成仏も出来ない、永遠に荒れ野を彷徨うことになる)ことになるだろうけど、その中でも何か福があることをお祈り申し上げます→ご冥福をお祈りします。