やっと返せるとLINEがあったので、よく一緒に飲んでいた東梅田の居酒屋まで足を運んだ。
「すまんな」と私の姿を見るなり彼は謝った。「これきっちり返す。ほんますまんかった」以前より痩せて、顔色が悪くなっていた。
目が血走っている。「東京行ってたんや」そういうとビールを飲み干した。
「そうか。まあ返してもらうつもりもなかったんやけど。仕事見つかったなら何よりや。今何してるん」
「あ、また仕事なくなってもたんやけど・・まあ当分金あるから・・」「いや金あるからって」なかなか本心を話さない男だ。昔からそうだけども。
「退職金、結構な額でな。」と薄く笑う。「いや、お前何してたん?東京で。」「あ、うん、俺、実は…やっててん…」「ハイボールお待ち!」どでかい声の店員に音声を消される。
「ちょっと聞こえへんかった。何やってたん」「ん…単語ではわからんと思うから。説明するわ」そういって彼はポツリポツリ話し始めた。
派遣先で東京の仕事があると言われ、彼は新幹線で向かったが数日でミスが多すぎてクビになってしまった。派遣会社とも揉めて、そのまま無職になり。
持ち合わせていたお金で酒を飲み、ゴールデン街の入口で座り込んでいたという。
「ほなら、ええ服来た若い兄ちゃんが声かけてきたんや。君、うちにけえへんかって」
彼は、怪しいと思いながらも、男についていくことにしたのだった。
男はマンションの一室の鍵を開け、大声で叫んだという。
「大変だお母さん!てね。なにゆうとんねん思ったんやけど。ほなら女の人が出てきてな。手にぬいぐるみ抱えてるねん。ほんでな。裏声っていうんかなそれで、おかえりとかいいおるねん」
彼はどうふるまっていいのかわからなかったので突っ立っていた。すると、男に別室に連れて行かれた。
「今から約束を守ってもらう。君は一切彼女に話しかけてはならない。そしてぬいぐるみにもだ」
そして黒いぬいぐるみを渡された。「これを私の言うとおりに動かしてくれ」と言われた。
意味が分からなかったが、男の言うとおりすれば、金ももらえる。
彼女はどうやらぬいぐるみを子供だと思い込んでいたらしい。そしてその子供にいろんな経験をさせてあげたいと考えているそうだ。
男は少し涙ぐんで彼に伝えた。
彼は男の指示どおりふるまった。ぬいぐるみを男の言うとおりセッティングする。時に男は写真を撮った。
しかしそれを何に使うのかは聞いてはいけなかった。スマホも取り上げられていたのだという。
そしてある日突然、帰っていいよと言われたのだった。男に聞いたが「ストーリー上の都合でね」という返事があったのみで、
ここでの出来事を公言しないことを条件に、金とスマホを渡され、彼は大阪に帰ってきた。
「ほんでな、まあこないして自分に金返せたわけやねんけど」「ようわからんけど、なんやってんやろな」
「さあ…あ、ちょっと待って」そういうと彼は椅子から降りて廊下に出た。
しばらくして戻ってきた彼は支払いを済ませようとする。「ありがとうな、いやアニキが迎えに来たよってに」
「え、アニキって?」「うん、なんかごめんとかかっこええお兄ちゃんになるとかいうてる。入り口のとこで待ってるやん、ほら」
階下は真っ暗で人の気配もない。
「おい、待てや、どこいくねん」返事がない。
「おい」私の声は闇に吸い込まれていく。
「はぱ!」彼の元気な裏声が聞こえたようだが。
私はどうしても降りることができなかった。
「見かけない」と「いない」という言葉の間には天と地の差があるぞ。
なるべく柔らかい豆腐を使うことがミソで、もちろん普通に作れば崩れてしまうので、最高級の朧豆腐を1.5cm角に切ってあらかじめ下茹でしておく。炒めるときは実は挽肉よりもイベリコ豚のベーコンの方が良く、それを微塵切りにしてオリーブオイルをたっぷりと入れたフライパンで炒め、きつね色になったらそれをいったん脇に退けて、スーパーで買ってきた安い豚挽肉と一緒にフライパンで炒めたクックドゥの麻婆豆腐に適当な安い木綿豆腐を切って入れると美味しい。
何でもかんでもフェミって言うの流行?フェミニストって増田以外では「女性に優しい男性」以外のなにものでもないんだけど
いや平成も終わるってのに「保母さん」という単語を使ってて出会いの場でもないのに7歳下をナンパするオッサンはもう字面だ毛でやばいだろ
まあちょうど保母さんという呼び名に対してのジェネレーションギャップな年代差だな
はてなーにとっては自分を正義たらしめる差別主義者がどうしても必要なのはわかる
別にそこで韓国人をゴキブリだの韓国に帰れだの言うやつはいない
オフ会を開けばアホほど人が集まっていらないって言ってるプレゼントがたくさん集まる
それが現実なんだよ
まあ十分裕福な家庭だな。
学生のうちに金にならないことで技術研鑽をするぞって感じだった。
その結果としてぼちぼち良い給料の職に就けたので、
この判断で間違ってなかったと思ってる。
心の中の独り言で今回の内容について振り返ったり感傷に浸ったり一頻りした後、
ふと気づくと、先に行ってる他のヤツらに
「おーい○○何してんだー!置いてくぞー!」と呼ばれて、歩き出すシーン。
分かってもらえるか?
はぁはあー!ほっかいめいぶーつ
ごま油を多めに熱しそこに鷹の爪を入れ焦がさずに鍋全体に回しながら香味を出す
ひき肉を投入し炒める。いい感じに油が馴染んだらそこに豆板醤、甜麺醤(コレが麻婆豆腐のいい感じの甘みになるのでバランスを考えよう)を入れる(XO醤でもいいが海鮮アレルギーの人はその場で倒れる事もあるので注意すべし)
いい感じになったら水溶き片栗粉を入れ素早くかき混ぜる!ここでダマになったら全てがおしまいだと心得よ!
そして全体に混ざったら大きめに切った豆腐を入れ、崩れないように餡を全体に絡ませながら混ぜる。
\出来上がり/
上記エントリを書いた増田である。チラ裏のつもりで書いたのに反響が多くて驚いた。しかし己の気持ちを文章で伝えることがいかに難しいかということも実感した。何点か補足・追記したい。
何人かの方が、昔VS今という文脈で文章を読まれたようだ。それは少々違う。昔に戻るかと聞かれれば私は否と応える。豊富なコンテンツが溢れる現在のオタク生活は最高だ。十分に楽しんでいる。しかしコンテンツ方面に問題はなくてもコミュニケーションの方面では多少齟齬があるという話だ。タイトルに書いたように"少しだけがっかり"であって"大いに絶望"ではない。あまり二元論的に捉えずに頂けると有り難い。
ライトオタクに対するディスだ、と反応された方もいる。私は思う。ライト層をディスって気持ちよくなれるならとっくにそうしている。ライト層を見下し異物として切り離すことが上手くできなかったからこそここで長文を書き散らしているのだ、と。
私が「今のオタクのほとんどはオタクコンテンツを嗜むだけの一般人である」と書いたのは、オタク気質のある人だけがオタクだとアピールするためではない。大げさに言えばそのように認識しないと精神を安定させられなかったためだ。ただの苦肉の策だ。
異国の地で日本人に会うとなぜか親近感や安堵を覚える。同じ日本人という共通の言語、文化、常識などの背景の文脈を共有できると思うからだ(その文脈がどの程度共通しているのかはさておき)。オタクという言葉にもそれと似たような作用があると思う。相手が自分はオタクだと紹介してきた場合、オタクという言葉に含まれる文脈を背景として共有できるものだと思っていた。それは研究熱心さ、多少変わった人であること、後ろ指を指されがちであること、また劣等感であったり、周囲に馴染みにくいことなど、ネガティブな側面とポジティブな側面を雑多に含めたイメージだ。オタクであることを隠して生きてきた私にとって、相手の属性のひとつにオタクがあるということは安堵を感じさせる要素だった。同じオタクの前では自分を過度に虚飾しなくてもいい、劣等感を感じることなく己のコンテンツへの造詣を語っても構わないという安心感だった。
その感覚を抱いてSNSを始めたのが良くなかったのだろう。相手がオタクだと名乗ると、オタクとしてのもろもろの背景を相手も共有しているだろうと勝手に期待してしまった。そこから先はお察しである。もはやオタクにネガティブなニュアンスなどなく、皆パリピだった。
私は自分のオタクに対する認識をアップデートする必要に迫られた。彼らをオタクである、と認識すると勝手に同一視して期待してしまう。期待することをやめられない。ならば彼らはオタクでない、オタク趣味を嗜む一般人であると定義したほうが勝手な期待をせずに済む。しかしその定義には副作用もあった。同じ文脈をひとり共有できていないという孤独感をもたらしたのである。なので一抹の寂しさを感じていると書いた次第だ。
これはオタク論のような大きな話ではない。パリピになれない陰キャの悲哀とでも述べた方が正しいだろう。そしてオタ気質の人間/そうでない人間のすれ違いもそれと並列に存在している。この話にオタクは関係ないと看破したブクマカがいたが、素晴らしい洞察力だ。ネガティブな気質を文脈として共有しないと他者に対して自由に振る舞えないというコミュ障の話でもあるのだ。そしてオタク文化が大衆化する前は文脈の共有が容易かった。
何人かの方からは、気の合う人間とだけ付き合えばいいというアドバイスを頂いた。正論だ。しかし私の場合、絵を通じて人と関わることも多いのでなかなか難しい。私の絵が好きだと言ってくれる人を気質が違うから関わるなと門前払いすることはどうにもできそうにない。私は彼らのことが嫌いではないのだ。ただ寂しさを感じるだけだ。しかし昔オタ趣味に耽っていたころは一人が当たり前で寂しさなど感じなかった。SNSを始めた途端に寂しさを感じ出したというのはなんとも皮肉なものだ。
「いつまで」と読む。
太平記に書かれた怪鳥で、紫宸殿の屋根の上で「いつまでも、いつまでも」と鳴いていた。
射落としてみると、頭は人間のよう、体は蛇のようで、翼長は5mもあったという。
それを江戸時代の絵師・鳥山石燕が「以津真天」と名付けて描いたことで広まった。
疫病が流行したときに出現したと書かれているため、疫病で死んだ人間が鳥に変じて「いつまで私の死体を放っておくのか」と鳴いていたのだ、と説明されることもある。