がドヤァって感じでホワイトデーに義理のお返しとしてディオールやシャネルのコットンをプレゼントしたら千円程度で喜ばれるとツイートして、女達からキモいわー無いわーコットン使わんわーと言う反応が数多く返され、その価格帯ならブランドハンカチがとか数百円のコペンハーゲンクッキーの方がとかバレンタイン止めようと言ってくれるのが一番嬉しいとかドヤ顔で間違った知識を披露したら適切な答えが得られる状態になっていた。
男達は図々しいと切れていたけど、美容部員さんもやめてくれとリプってたので、多くの女に喜ばれない本音が広がり下手に流行らなかったのは良かったと思う。
見に行ってみたらモテ指南を商売にしてる人らしく、ツイートを見たら炎上後もコットンマンを名乗りコットンは元々ナンパ士に有名なテクだと弁解し、ちょっとズレたモテ指南を淡々と続けていて笑ってしまった。
・できるだけ笑い・ネタに走る
・全力でゆるいことを言う
・一番過激なことを言う
・頭が良さそうなことを言う
・仲良くしたい、皆に合わせる
・スター数が全てだ、ウケが良さそうなことを言う
・基本的に全員敵
ぼくは一番最後のやつです
私は女で
バイというか
ビアンというか、
とりあえず彼女がいるんだけど。
みたいな感じだった。
実はめちゃくちゃ趣味が合う事を知って、
それが今まで続いている、
よく考えなくてもやばい。
一年前、
普通に話をしてたら
セクシャルマイノリティな話になって、
彼女の男性へのトラウマとか母親にネグレクトされた経験とかを聞かせてくれて、
なんかもう説明は省くけど、
めちゃくちゃに興奮されながら抱かれた、
その後付き合ってないのに指輪もらった、
その後好きですって言われて付き合うことになった。
それから1年と2ヶ月、
こんなつもりじゃ無かったんだけど。
彼女の気の迷いに付き合ってあげて、
彼女が私に飽きてきたら別れようと思ってたのに、
なんか今でも愛されてるし、
どうしようっていうか、今のところ迷いは無いから
ただの惚気なんだけども。
めっちゃ好きとか言ってくる。
ちゃんとしようと思って
がんばって資格とる」って言って、
結婚式したいし、
毎月デパコス買ってあげる」
とか言ってる、
なんかそんな、ねえ、すごい。
考えられないような言葉ばかり。
人って変わるんだなぁって、なんかそんな感じ。
もし資格をとれなくても
結婚式できなくても
ハワイにいけなくても
毎月デパコス無くても、
それでもあなたがいたら
それでいいよって、
思ってる私。
私自身も変わったなぁって思う。
性癖もめちゃくちゃだけど、
いろんな人生があるなぁと、
皆に言いたいけど、
女同士じゃやっぱり差別がネックだ。
わかってくれる人は、
めちゃくちゃにわかってくれると思うんだ、
正直後者は抜けなかったけど前者は好きな作家だったからよっかったよ
アニメは1期はすばらしかったけど2期は長くなってなんか微妙になって見なくなったなあ
ゆるきゃんはみてない
またがゆるい(迫真
不可避だろどー考えても
個人的に筆頭に挙げられるのは美空ひばりの「川の流れのように」である。
別に嫌味ではないが、このなんというか、「終わり良ければ全て良し、全てはこの悠久の流れに消えていく」みたいなノリが、プロセス的にはたとえどんなにハチャメチャで勢いだけであっても、誰も大して反省しないどころか、良い記憶に美化してしまう、昭和の実態を反映しているとも言えて、実に味わい深く、何より感動的なのである。
異論は認めるというか、昭和の終わりを経験したおっさんおばさん的に、一押しの歌があればどんどん挙げて欲しい。
ちなみに昭和を代表する歌といえば「上を向いて歩こう」これな。
日本が戦火に巻き込まれなかったという意味では「平らかに成った」時代になりそうだ。
そんな平成の終わりは、どんな歌で締めくくられるのだろう?
日本人はバック・トゥ・ザ・フューチャーが大好きだし、さらにドクタースランプアラレちゃんもあるから、ドクターが博士のことも指すってみんな知ってる。
喜ばせ組じゃなくて喜び組なのがエゲツない
香典帳というのは、お葬式の時の香典を誰から何円もらったかを一冊の帳面に記したものだ。
古くは近世期のものもあるが、私の仕事場は北海道なので、近代以降の香典帳を主に集めている。
集めているのは、正確に言うと香典帳だけではない。
香典の他に、葬式で必要なものを一式記してその代金をまとめた買物帳や、お布施を払った際の布施帳なども付随することが多い。
どうしてこういうものを集めるのかというと、物価がよく解るからだ。
人の死というのは今も昔も絶え間なく続く。
だからそれに際しての香典や、調達物資は、物価の移り変わりの物差しとして極めて優秀なのだ。
昔は、コメが物価の指標になっていた。高度経済成長期以降、食料の多様化により、コメという物差しはぐにゃぐにゃとあやふやなものになってしまった。
他の、価値があると考えられてきた指標すらそうだった。貨幣で買える貨幣も横行した。
だが、未だ死ぬことは、医学が発展したとは言え平等だ。共同体があれほど変質したとしても、寺なり神社なり教会なりで、古墳時代とさして変わらない営みが続いている。
今日は、古い家の仏壇に入っていた香典帳を見た。昔ながらの折り紙状の和紙の帳面だ。9才で死んだ男の子のものがあった。尋常小学校の同級生一同で香典が出されていた。
親族(子孫)からいただいた付随データを網膜上にダウンロードする。昭和11年に腸チフスで死んだのだという。
昨日は、古いHDDに保存されたpdfの香典帳を見た。元々はエクセルというデータ形式らしい。94才で死んだ女に、101才の姉が香典を出していた。
これも親族からの付随データが功を奏して判明したもの。平成29年の香典帳。死因は老衰。小学校教諭を長く務めた勉強熱心な女で、この時代にしては香典が多い。
香典システムから物価や人的ネットワークを構築するのはよい手法だが、そもそも香典を出さない葬式(家族葬や新しい宗教観に基づく葬式)の形態が増えたことによる影響はどう考えているのか?
ドクターとDoctorは別物じゃね?
じゃあ俺はゴルゴみたいな顔にするわ。