「いまあい」を含む日記 RSS

はてなキーワード: いまあいとは

2023-10-26

ファンからの崇拝に一線を引く感じの有名人っていいなって思う

昔はどうだったか知らないけど、今ってさあ有名になったらやれ握手だのやれサロンだのってファン熱狂ファナティックさをガンガン利用する雰囲気あるよね

自分世界みたいなのを作ってそこで従順ファンを囲い込んでいくようなね

承認欲求みたいなもの肥大化してただただ盲目的な崇拝を浴びるのが気持ちいいだけの人もいまあいそうだけどやっぱカネ稼ぎの効率がいいからやってんだろうね

なんというかその有名人さんの特有の才能で稼いだカネとその才能への崇拝を利用して稼いだカネってのがあって、同じようでいてなんかちょっと違うんだよね。後者はアブクな雰囲気があるというか。

ラジオとかでよくあるけど有名人リスナーけがわかる独自用語だとか呼び方を作ったりなんかするのもそんな世界入り口感ある

心理学の授業で洗脳の章とかで最初に出て来そうな感じがするって思った

でもそういうのに一線を引くというかファンファン自分自分みたいな人っているよね

唯一無二の才能とか強烈なカリスマ性みたいなものを持ち合わせていてもそれができる人ってのがいてそれはそれで才能だなって思うし逆にそういう部分を崇拝しちゃうである

2022-02-18

 定期的に電子書籍と紙の本どっちがいいみたいな話題が出てくる。

 俺はいくつかの観点から電子書籍一本槍である

 まずスペースの問題だ。これはまっさきにだれもが思い浮かぶところだろう。実際、自分マンガやらラノベで2万近いとこまで行って、これはもう人間生活として限界だと思って、あるとき全部処分した。内田善美の本とか、もう二度と電書で入手できないこと確定みたいなもん以外、すべて。そしたら、信じられないことにモノがものすごく少なくなりました。びっくりしました。要するに俺の持ち物のほとんどは本かCDでした。あとエロゲの箱。

 で、万を超える物量感を体験している人間としては、もう二度とあの状態にはなりたくない。もちろん歩いてる本屋とかは見てしまうわけで、そうするとふらふらと入ってしまう。紙の本ってそれ単体が「モノ」であり、モノとして訴求する力を持っている。ゆえに買いそうになってしまう。1冊くらいまあいいか。そこが地獄入口だ。禁煙なんかと一緒である

 これだけの本を読んでいるということは、とうぜん活字中毒的ななにかである。出先で本を切らしたときになんでもいいか活字がないと死ぬと思って本を買った経験は一度や二度ではない。ある程度の期間の旅行ともなれば、10冊くらいは本を持っていくしかなかった。ついでにいうと音楽も切らすわけにはいかないので、かつてはカセットテープを10本とか20本持ち歩いていた。いまやこれがスマホひとつである。もうアラフィフなので思う存分老人仕草をすることにするが、いい時代になったもんだ。もっとも、これおっさんにけっこう多いと思うんだけど、ガジェットを単機能で持ちたがる癖があって、電書はKindle端末だし、音楽は、サブスク用のスマホ別に持って歩いてたりするんだが、まあそれでも本を10冊持ち歩くよりははるかにましだ。最低でも未読の本を5冊くらいは持ち歩いてないと落ち着かない。「この小さな端末のなかに文庫が100冊!」という安心感はなにものにもかえがたい。

 さら老眼の進行である。俺はドがつく近眼であり、かつ老眼もだいぶ速やかに訪問くださりやがったので、裸眼で見えるスイートスポットが異常に狭い。日常生活で使えて手元も見える遠近両用とか頭痛するし、肉体的に文庫活字を読むのがきついのである。その点、電子書籍なら安心だ。小1の教科書よりもでかい活字で表示できる。ディスプレーを見続けることによる目の疲れもKindle端末ならそれほど問題にならない。

 俺にとって本は消耗品であるスナック菓子を食うみたいに活字を食う。あるいはトイレットペーパーみたいなものだ。この手の人間にとって所有権がどうこうとか、貸し借りが云々とか、子供が親の背中を見てとか、そういうのはいっさい問題にならない。読めればいい。本屋営業時間を気にすることもない。なんならうんこしてる最中でも続きが買える。すばらしい。せめてそこはうんこ終わるまで待てないのか。

 もちろん電書にもデメリットはある。

 ブコメで頻出だった閲覧性、参照性の問題。これは絶対に紙に軍配が上がる。紙の本の「確かこのへん」でなんとなく探り当てるような探しかたって、シークバーではまず同じことができない。ただこれは単なるUIの問題である気もする。閲覧性でいうと、本棚よりも特定の本にアクセスするのが難しいというのもある。もちろん検索対応できないこともないのだが「確かあれ、あの、なんだっけ、海辺ボーイミーツガールで……あれだ、あのエモいやつを読みたいんだ。20年前に読んだきり本棚のどこかに放り込んだあれを」みたいなときに、電書の3000冊とかのなかから探すのはかなり骨が折れる。Kindle端末本体ではどうにもならないし、いざパソコンの前に座って購入履歴を、と思ってもあれなんか妙に目が滑りません? やっぱりこういうとき「モノ」が厳然として存在している、というのは非常に強い。実際、紙の本で持ってたときに「確かあのへんに置いた」で見つからなかったことってあまりなかったと思う。

 あとマンガな……。老眼に電書のマンガまじきつい。パソコンディスプレーで見る以外の手がない。マンガのながら読みっていうか、部屋でぼけーっと寝転がってるときにそのへんのマンガを手に取ってなんとなく読む、という行動は激減した。10インチくらいのタブレットで解消できる問題ではあるけど、これ以上ハード増やしてどうすんだ的な感じもある。

 電源切れとかは経験がない。そもそもモバイルバッテリーを持ち歩いてるし。あと端末の故障に備えて新品の予備は常に一台キープしてある。

 俺が思う電書の最大のデメリットは「すべての読書行動を電書のみに絞り込むことができない」ということだ。これはほんとでかいいちばん多いパターンが、新書なんか読んでて参考資料とか引用先で出てきたおもしろそうな本を買おうと思うと電書化されてなかった、というやつだ。またそういうのに限ってやたらおもしろそうだったりする。アマゾンで調べてる場合だと、1クリックでそのおもしろそうな本が(紙でなら)買えてしまうので、なおのこと心が揺らぐ。

 これは読書に限らず調べものなんかもそうなのだが、一定レベルよりも深堀りしようとすると、最後は紙の書籍に頼るしかない、という場面が頻出する。たとえば東ローマ帝国について調べていて、まあざっとした歴史の流れだとか、政治体制だとか、要するに概要を掴むくらいならネットでの調べもので充分だし、電書でも通史のたぐいはいくつも出ている。しかしもし、東ローマ帝国庶民食生活について知りたくなったら、電書ではどうにもならない。そこは学術書領域で、論文探してヒットすりゃいいけど、こういうニッチ研究ってたとえば1960年くらいに書かれた本がいまだに最新の研究だったりすることもよくあって、こうなるとお手上げだ。紙の本しか選択肢がない。

 これに限らず、マイナーな作者の小説だとか、古いタレント本だとか、古い時刻表だとか、とにかく紙の書籍資産が膨大であり、とうてい電書ではカバーできない。そして今後もおそらくは電書化はされない。要するに紙の本から完全に足を洗いたくても洗えない、というのが電書一本槍にしたときに最大の障壁となる。

 ま、図書館行けって話なんすけどね。なんでまあ、現状は「購入はほぼ電書、足りない分は図書館で」というかたちになっている。

 あと最後に、電書のデメリットとして日常的に多く使ってる人は感じてると思うんですけど、無駄に買いすぎますね……。講談社学術文庫とかよく50%ポイント還元やってますけど、ああいときやばい

 ついでですけど、アンリミは「なんでもいいかラノベ読めればいい」みたいな人間にとっては、けっこうよい状況になってるので、おすすめです。ただし1巻だけ対象でそれがおもしろかった場合地獄みる。向こうも商売から、まあ考えるわな。

2021-03-25

死者のために生者ができること

僕は大阪でもトップクラスに有名なお寺でしばらく働いていたことがある

それまでは宗教的素養ゼロで、なんとなくお寺やお坊さんはありがたいもの、的な感覚があるだけだったんだけどね

仕事初日説明を受けた

「ここはお婆ちゃんディズニーランドです

お婆ちゃんは楽しんでお参りに来られます

どうか皆様はその楽しみを助けてあげてください」

年を取ると、親も兄弟配偶者も旅立っている方は多く、亡くなった方達のためにできる数少ないことのひとつが、お彼岸のお参りであり、先祖回向なわけだ

若いと、想像がつきにくいかもしれない

でもそのうち、親しい人は皆あっちにいて、あちらの世界こちらより身近になってくる

そんな方は、お参りに来ることをとても楽しみにしているのだ



先祖回向の申し込み料、3千円と5千円と1万円がある

働いている者達は知っているんです、その値段が違っていても、同じお坊さんに同じようにお経をあげてもらっていることを

何も違わないことを

同僚が、参拝者に、この値段は何が違うの?と聞かれたとき、彼は、いや同じですよと答えて、上の人に怒られたことがあった

かに同じかもしれない、しかし、そういうときは、「お気持ちです」と答えなさいと指導されていた

そして参拝者は、「気持ちはあるから3千円でええわ」と答えていた



坊さんの控室がある

同じところで我々も休憩して、お弁当を食べる

お坊さんは何人かくるけど、みなさん、ずっと不倫相手メールしたり、スロットを回したりしていた

お経を読むときも、休憩している坊さんに、いまあいつ、アーばっか言うてサボってるよwとか言われていた

お経あげてると思ってたらアー言ってるだけの時もあるらしい

正直にいうと、一般人の方がよほど清いと思うくらいに坊さんは尊敬できない方ばかりだった

もちろん全員がそうじゃないのは当たり前だけど、逆に、お坊さんだから無条件にありがたいわけでも、救済があるわけでもないことはわからされてしまった



これらの経験からまり、生者が死者にできることは何なのか?

お参りとは何なのか?考えざるを得なくなった

坊さんという存在やお経の言葉が、薬のようにたちまち死者への救済をもたらすわけではなかったのだ

賢いはてなー達は知っていたかもしれない

当たり前かもしれないけど、行為作法のもの意味なんてないのだ


大事なのは指導で言われたように、参拝者自身お気持ちなのだ

そのお気持ちというのは、ただ静かに死者のことを想うだけでももちろんいい

それだけではなく、わざわざ有名なお寺に出かけて行って時間を使うのもまたお気持ちの表れだ

わざわざ、死者のために1万円使うのもお気持ち


死んだ人にプレゼントをあげても喜んだ顔を見れないから、せめて先祖回向をわざわざすることで、喜んだ顔を想像することしかできない

から、それをする

それをすることが喜びになる

それが、楽しんでお参りにくる、という中身だ


まり気持ちがあれば方法はなんでもいい

忙しくて回向に来れなかった方が不義理なわけでもお気持ちがないわけでもない

それと同時に、「わざわざ」があればそれもまた気持ちの強い表れと言える

わざわざ、とはつまり時間的、経済的、肉体的なコストのことね




例えばライスシャワー慰霊碑にわざわざ出向き、わざわざバラを買って、わざわざそれを備え、わざわざそれをSNSにあげること、それは全て、死者へのお気持ちの表れだ

正しい作法で、厳粛にすることだけが気持ちではない

大切なのは各自お気持ちを死者へ向けることであり、他者お気持ち自分正義感自分の信じる作法から批判することではない


1万円で回向する人が、3千円で回向する人のお気持ち否定するようなことは決してないし、あってはならないことである

ライスシャワーへの青いバラ否定するのはそれと同じこと

死者を思い、楽しんで慰霊碑に来られた方の気持ち否定することは、宗教に携わった立場からするとあまりいいこととは思えない


投稿から悪ふざけに見える要素があるかどうかと、思い立ってからバラを買い慰霊碑に向かうまでの間にわずかでも死者を想う気持ちがあったどうかは、決して結びつくものではないと思う

他人お気持ちに無闇に干渉すべきではないと思う


追記

死者のためにできることはない、全て生者のためだ、って言っているブコメが多いけど

この行いを、あの人がもし見ていてくれるなら少しは喜んでくれるのかな、と思えるから生者の救いになるわけで

無になったもののためにできることはないと完全に割り切るなら生者への救いもまたないのだよ

2019-02-18

anond:20190217212605

くどくてごめんね

2個あるから大丈夫ってよく腎臓を売るのが冗談で使われるけど

冗談で済んでるのは決して利益を得れないようになってるからだよ。

限界回数を理由に、だから十分な報酬があっていいだろう、とすると何も持たないガチ弱者がそれに頼りはじめる。

なんせ骨髄って死ぬかどうかまで切り詰めるなら短期間で6~7回いけちゃうから

書類では2回ってことにしておこうってブローカーが湧いてもおかしくないよね。

一般市民カルテ個人的に回収するだけでも裁判沙汰でしかほとんど勝てた例がない。

麻酔を打たれてる間何が起こったか完全にわか患者はいない。

からそこはほんとうにガチガチにしておかなきゃいけない。

融通をきかせるリスクのほうがどでかいから

なのでたまたま近くに住んでいた

たまたま仕事休みがとりやすかった

増田もいってたけど複数人に声をかけるのは

「そのくらいの負担ならまあ」ときっちり経費を回収できる保証がなくても応じてくれる人はいいかなというくじ要素も込みでやってる

しかケチかもしれないけど、タクシーバスの誤差、有給一日分くらいまあいいよって思えるくらいはお金に困ってない人が結局対象だという解釈でいて、ちょうど良いと思う。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん