男性だと「ぼく」「おれ」「じぶん」「わたし」「わたくし」、女性だと「わたし」「あたし」「わたくし」「うち」などが、一人称として一般的に使われると思う。
男性である自分の場合、対外的には「ぼく」を使うことが最も多いのだけど、改まった場などでは「わたし」を使うことも多い。
小さい頃は「○○くん」と自称していたのだけど、いつからだったか、これはさすがに使わなくなった(中学に入った頃だった気がするが、小学校高学年のときには使ってなかったかもしれない)。そして、その後は、対外的には「ぼく」を使うことが多くなったのだけど、家族にはなぜか「ぼく」を使わなかった。
そうこうしてるうちに、年月が経ち、20歳代になったが、未だに家族の前での一人称が定まらず、「自分の場合は」「自分としては」という言い方をすることで一人称を使う機会をできるだけ回避している。しかし、「それ誰のこと?」という風に自分のことについて訊かれたときには、さすがに一人称を使わざるを得ない。そういうときは、自分の顔を指さすことで、やはり一人称の使用を回避している。不自然だ。
やはり、家族の前でも「ぼく」を使うのが自然だと思うのだけど、家族も自分が「ぼく」を使うとは思っていないので、気恥ずかしくて使い出せない。
どうすればいいのやら…。
当時私25歳、彼29歳
結婚しようとプロポーズをしてくれたものの、お互いの仕事が忙しかったため口約束のまま宙ぶらりんになっていたときに妊娠発覚。
デキ婚は不本意だったけれど、結婚の話をやっと進められるようになるんだと思ってすぐ彼に報告した。
喜んでくれるものだと思っていたのに、彼は渋い顔で考え込んで一言。
「俺、無精子症なんだけど…」
でも私は浮気なんてしていないし、きちんと病院で検査だってしてもらった。
日数を逆算すると、お互い半休とれたあの日に…とか、子供は早めに欲しいって言ってたじゃん…とか
頭の中でぐるぐる考えつつも何も言えない私を見た彼はいきなり笑い出して
「ジョーダンだよ!ビックリした?おめでとう!一緒にがんばろうな」
と言って抱き締めてきた。
6年も付き合ってこんな冗談を言われたのは初めてでかなりショックだった。
いやぁ、貴方の言い分はごもっともで、この手の女性は蔑ろにされても相手を好きだっていう自分に浸る傾向がある。
彼のように純粋な人の場合、そういう男性が長い目で見てメリットないよと「純粋さ」を武器にして玉砕してもいいと思うなー。
親族以外の人間関係なんて若いうちにしか失敗できないんだから、
色々試したほうが豊かになれると思うな。
顧客が協力してくれないよ!
定期的にレビューしてくれるとか開発に必要な資料を予定通りくれるとか、今まで多数プロジェクトこなしてきたけどあり得ないよ。忙しくて打ち合わせもままならない、基本放置の蔵ばかり。
この手の女の子の思想っていうのは、犬になりたい、尽くしたい、好きになる、と言うことを楽しみたい、タイプなんですな。
だから本物の彼氏っていうのはちょっと冷たくて、ちょっと自分に関心がないような感じがして、そんで男性の好みとしては完璧で、という相手です。
そういう条件のもと、好きである、ことを基本的には楽しんでいます。
しかも元からモテる気質があるので、優しくされることには慣れています。
そしてその優しさに甘んじることができます。
だから彼氏がそれを満たしてくれないので(故に燃え上がるのですが)
異常に近いです。童貞男の手には余ることでしょう。
この甘える相手が、純粋な童貞男の場合、その男はガチで恋をしてしまうわけですが、
あれ、このひと、いつもと違う、素敵な友達じゃん。
で、相手がやりちんの場合、その男のレベルがある程度高ければやれます。
やれる上に前述の「犬になりたい、尽くしたい、好きになる、と言うことを楽しみたい」というのを満たせるくらい、
という確率が高いです。
という性質です。しかもこの手の女の子はそういうことをしている自覚がないので、童貞気質の手には負えません。
早めに撤退しましょう。
それか早めに手を出して思い出的にやっちゃって撤退、というのもありかも知れませんね。
まあ、うまくいくとは限りませんが。
このまま突っ走ると痛いしっぺ返しをうけて、裏切ったな!とかそんな展開もあり得なくもないです。
プログラムが好きで、でも地方ぐらしだったので、県内の電算センターと名のつくところに務めた。
業務プログラムは非常に面白くない。何が面白いのかわからない。でも誰かが作らないとダメなんだろう。OBCのなんとか奉行とか作ってる人は楽しいのだろうか。チャレンジはあろうのだろうけど、少なくとも勘定奉行を触って「プログラムを学びたい!」なんて思う人はいないだろう。自分は引き金のプログラムから遠くはなれてしまった。もちろんゲームなんだけど、地方じゃゲームメーカーなんてなかった。東京だけの出来事なんだろう。こんなところにも地方格差が存在する。iApp、アンドロイド用アプリが隆盛になって、個人でも、といわれるけれど、インタビューに出てる人はみな関東で暮らしている人ばかりだ。関東で暮らす個人ならアプリを作っても楽しいのだろう。地方じゃ無理だ。ネットで情報交換は平準化され、場所は関係ない、という人だって東京にいるのだから説得力はない。おっとまつもとゆきひろを持ってくんなよ。極端な例で反証するのは低能のすることだ。
増田がどこで暮らしているのか知らんが、関東というか東京近辺でなければ、プログラムに関するモチベーションなんてオブラートにお湯をかけるように消えてなくなるよ。
全部読んでないwってかよぅわからん
ちょっと酔ってたのでスンマセンw
なんていうの、ゴーストライターがさ
「これ、つまらないですね」
と言ったら、ネタ元の人が
「だったらオマエがイチから全部書いてみろ!」
って言ってるような話?
じゃあお前が作れと言われた。技術者はこれだから困る。ゲーム制作の企画→制作って流れを知らんの?
企画と制作は車の両輪。技術者の仕事は主に後者だけ。なのに作ったのは俺だとカンチガイしてる技術者が多い。底辺技術者ほど多い。そして昨今増えてきた。
彼らはあまり企画に興味がない。プレイヤーのことロクに考えてねえ。そのくせ企画をディスられると被害妄想をたくましくする。これである。
彼らがなぜ貧困な発想のゲームが作れないかは明白である。割れ鍋に綴じ蓋という言葉があるだろう。貧困さにフタをしているのだ。
本来己の醜い部分を直視してこそ人間として男としての成長がある。そのことは言うまでも無い至極真っ当な常識である。
だが大人というのは時としてズルい。そのズルさが己自信の身を滅ぼすとも知らずに。ありきたりな発想しか出せない未熟さ、
そして出そうとしない腐りきった体質を自己弁護しててはおまんまんの食い上げだ。そうだろ?何か間違ったこと言ってるか?
じゃあお前何をすべきなんだ?簡単。まずゲームとはこういうものであるという常識を壊そう。ありきたりなゲームをグラの美麗さなど
技術力でカバーしようという発想がもう駄目。予算がかかるのが分からないのか?お前はビジネスで成功したいんだろう?自己満足したいだけか?
まずゲームのシステムとかさバランスとかそういう所で勝負しないといけないの。当然だよな?いつまで腐った思考回路してんだ。
そうは言ってもどうやって常識を壊すのか?そんなこと言ってるからお前は駄目なんだ。まず常識に頼らない。これを大前提とし
そこから行きつく所まで徹底的に考えてみろ。走れるだけ走れ。死なないから。常識に頼らず突き詰めて考えることを我々哲学者は
ゼロベース思考と古称する。それをやれ。お前に厳しいこと言ってるが音楽でもそういう奴多いんだよ。だから音楽CDが売れない。
なぜ売れないのか?音楽家の卵ってな、世の中の音楽が大好きって人が多いの。あれもこれも大好き。既存のもので満足してるわけ。
だから新しいものを作れるわけがない。出発点がまず違うんだよ。俺の場合はあれもこれも駄目。まるでなってない。そこから出発した。
俺も6年前に親父が永眠した
ニュースとか見てて「親父生きてたらなんて言っただろうなぁ」とか思う事ある
お袋も親戚も、皆様々な事を言うが、親父から遺伝子もらってるの俺だけ(俺は一人っ子)で、お袋は他人で異性
お父さんこうだよねぇあぁだよねぇ(お袋)、いや!それはねぇな!(俺)、なによ!(お袋)、の日々
頭の中のでっちあげ。
過去はもう死んでいる。
先の事はわからない、何をしたら良いのかわからないなんてのは恐れだ。
生きているのは今。
必ず後になってあのときやっておけばとなるだろう。
ただ、なにかできるのは今しかない。
・松田サーカス=付けPAN、リアリティエフェクト、タイムライン、背動
・敬史=ギザギザ煙、破片の大きさ、画面手前への移動、丸い粒、磯以降
・金子サーカス=煙での空間表現、ベイパーのような細部描写、画面360°回転
・村木クール=アニメスタイルイベント等での人物作画興味無し発言、バーニアが頭に
・柿田爆発=かきたぁぁぁぁぁああああああああああーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!(村木靖監督作品「彼岸」より)
というように、作画オタクなら誰でも名前を見るだけで各人の特徴が浮かびます。
その理由は前述されてる通り、見分けにくい丁寧な芝居ではなく、特徴が出やすいエフェクトや板野サーカスだからです。
共通認識を刺激する「初心者でも非常に分かりやすいネタ」としてエウレカOP2解説は作画を語るスレで大受けしました。
ちなみに上級者だとその回のEDテロップを見るだけでカット内容が分かるようになります。
当初はフリーでやってたみたいだけど、最近になって私含めて何人かアシスタントを雇った感じ。
たしかに、けっこう性格が独特っていうか、気分屋なところがあってそれなりに気は使うんだけど
「店長は苦労知らずだから~」って同僚が愚痴ってるの聞くとなんかモヤモヤする。
家が金持ちだったり、コネがあったりってあるに越したことないけど、裸一貫だったらしてない苦労とかもあると思うんだよね。
もちろん得もしてるから、同業者から「七光り」と言われるのは仕方ない。でも雇ってもらってる人間までそれ言うのかよ、、と思う。わたしらも七光りのおかげでメシ食ってんじゃねーの?
同僚の愚痴は、大半が店長の性格が原因なんだけど、話きいてると
完璧部下マネジメントしてくれて、こっちの気持ちもわかってくれる上司なんか会ったことないよって言いたくなる。
給料遅配しない、店潰さない、それで十分じゃないのかね。
それと店を経営してる人間に、雇われてるほうが「苦労知らず」っていうのちゃんちゃらおかしい!
たぶん貧乏はしたことないだろうけど、このご時世に他人を雇い入れるって相当な「苦労」じゃん。
自分を否定することは、自らを成長させるために必要なことだと思う。
そういうことが嫌になってなのか、いつしか反省することを忘れ、
常に「自分が正しい」「他者は間違っている」と無意識に振舞っていることに時々ハッとする。
全く成長してない。どころか退化している。
子供の頃は失敗したあとのことを考えることはなかった。
それは結局、正しいと思ってた自分が否定されることが
恥ずかしくあり、屈辱に感じるようになってしまったからだと思う。
結果として、ただのいい子になってしまった。
自ら行動を起こすことがなくなってしまった。
どんどん自分を否定して、
どんどん人から嫌われろ。
プログラミングに対してモチベーションが高い人や、今職として働いてる人が一体どのようにプログラミングを見ているのかがわからない。
今は大学を休学し、地元に戻ってバイトをしているだけの生活だ。
だけれどもいざ大学に入って本格的にプログラムを勉強し始めると段々モチベーションが下がって行く。
教授の話や、色んな人の取り組み方からも、何か自分とは大きなズレを感じるようになった。
経験から言えば、見えてる世界が違うのはそうだろうとしょうがないことなんだが、これが中々腑に落ちない。
はたまた自分が思っていたモノより、プログラミングがつまらないものだったのか。
もともと自分にはあってなかったのか。
うっかりMacBookAir(2011)を開いた状態で床に落とし、液晶を割ってしまって修理に出した話。
とある修理店に出して、液晶が修理されて無事に帰ってきた。なんだかピカピカになってて、まるで別のMBAみたいで「すごい磨いてくれたんだなぁ」と思った。
電源を入れると、以前の自分のMacの中身でひと安心。しばらくMBAで作業。
ふと、あまりにピカピカな本体に違和感を感じ、なんとなく本体裏底にあるシリアルを見た。なんと2010のMBAと刻印されてある。
「このMACについて」からSSDストレージを確認した。256GBだったはずが128GBになってた。えっ、と思って「本体裏のシリアル番号が変わってる」と修理屋に問い合わせたら、「裏底のボードを他の機体と付け間違えたので交換します」との返答。
MAC初心者&PCに強くないので誰か教えてほしいのですが、これってどういうことなんでしょう。。
自分の本体の中身がコピーされて他のMBAに乗ることって可能?
裏のボードだけつけ間違えるってありえる?(2010と2011で合うのかどうか)
ちなみに、
・「このMACについて」の情報から見る限り、中身のシリアルは以前のまま。メモリとCPUは変化なし。アップルマークあたりについていた傷がなくなってる(別のものになっているっぽい)、VMWAREたちあげて動画見るだけで異音(以前は無かった)などなど。。
誰か詳しい方ヒントを。。。