はてなキーワード: フィクション作品とは
数年前まで映画やドラマ、漫画の二次創作のカップリング小説を書くのが趣味だった
一本の小説を書くために大量の調べ物をしたりああでもないこうでもないと悩みながら文章を練ったりするのは辛くもあったが、カップリングへの愛を形にするのはとても嬉しく楽しいことだった
二次創作から離れたのは、嗜好が変わって「カップリング萌え」をしなくなったのが理由だが、もうひとつ、二次創作をするための土台となる「能動的鑑賞」をしなくなったからというのもある
あの頃は、「なんで主人公はこういう価値観を持つに至ったんだろう?」とか「彼は人生に満足しているんだろうか?」とか「彼女の信仰心は何に根ざしているんだろうか?」とかいろいろな疑問を抱き、その答えを探しながら、答えが見つからないようだったら想像で空白を埋めながら読んでいた(観ていた)
今はそこまで作品にコミットしようという姿勢になれなくて、特に何も考えず、ただ入力された刺激に反応して泣いたり笑ったりするだけ、感覚的かつ受動的に鑑賞するだけ、という感じがする
「カップリング萌え」ができなくなったことや小説が書けなくなったこと以上にそれが辛い
(私はここ10年ほど双極性障害を患っており、同人にハマっていたころは躁状態の長いスパンの中にいて、ここ数年は鬱のスパンの中にいるので、フィクション作品に能動的にコミットできなくなったのにはそのせいもあるかもしれない)
今は趣味がなく、せいぜいduolingoで外国語をやるぐらいだが、あれは出された大量のドリルをひたすら解くだけのものなので、能動的に何かをやるという感じではない
スポーツは苦手だし絵は描けない
物語が面白いかどうかは個人の感覚だし別に触れる必要がないと思ったし、別に「美少女動物園需要で売れた」とかを否定したい訳でもない。
かわいい女の子が出てくる作品を見たい需要はそりゃあるだろうし。
小動物を愛でる感覚というなら、少動物的な男の子でも同じように見るのか?反応するのか?と元増田は「先回りして」問いかけているってことを理解しようね
そういう意味ではキャラが全然変わっちゃうから全く同じ気持ちでは見られないだろうね。
「物語の面白さ or キャラの魅力」なんてどちらかだけでフィクション作品を見続けられる人なんてそんないないだろうし、その質問に何の意味があるんだろうとは思っていたけど。
(キャラはいいけどストーリーがクソだから切る、なんてよくある話だろうし「水谷豊じゃない全然違う女優が主役の『相棒』を見たいか」みたいな質問だし)
コレだと思う。メイクをする圧力を掛けられてるから男にも苦しみをおすそ分けしよう、となるのは合理。
コメントのあちこちにいるバカは何故か忘れてるみたいだけど、女性は一般に男性の見た目の美醜に寛容だ。
しかし男性は女性の顔の美しさを厳しく判定する。可愛い女性を選ぶだけじゃなくてブスと口にして排除するのを憚らない。しかも恋人を選ぶシーンではそれだけじゃなく若さのバイアスもかかる。男性向けの漫画アニメ萌えイラストVtuber、すべてのフィクション作品が美しく可愛い女性「だけで」作られてる。
なのにガス抜きの「キモい」さえ倫理圧を掛けて抑圧するだと???
キモいを言うなの前に、まずそっちが顔の良さを値踏みするのを止めろ。
話はそれから。
フィクション作品である小説「美しい顔」の一部がノンフィクション作品である「遺体: 震災、津波の果てに」他数点の作品内と類似、または酷似する表現があるが参考文献として記載されていなかったという事件。
新潮社が該当作品に参考文献を示さない類似表現が多数見られたと指摘。
参考文献と思われる作品の作者が、講談社と北条氏から謝罪を受け取るも、
類似を越えて酷似する表現もあり新潮社は「参考文献って書けばいいってもんじゃない」と指摘。
講談社が「剽窃だなんだって言われてるけどちげーだろ。読んで判断しろ」と全文公開。
新潮社に対して名指しで「小説ってもんをわかってないわ。こっちはクソ怒ってるよ」と批判。
この件に関しては5/29から協議が重ねられており6/29のリリースも協議の上だった。
ところが7/3に突然講談社が全文公開+新潮社批判を行ったのでびっくりした。
とのこと。
「いくつかの場面においては客観的事実から離れず忠実であるべきだろう、想像の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけないと考えました。その未熟な判断が、関係者の方々に不快な思いをさせる結果となりました」
ネットの記事であるテーマでいろんな人のツイートまとめがあり、イケメン風な若い男性がその中にいた
20万近くのいいねがついてて、誰これ?と調べたらユーチューバーだった
動画も見てみたけど、ずっとしかめ面で見ていたい顔では無かった上に、喋りのノリもアレで30秒で停止した
グループのユーチューバーだったが、画面に映る面々は正直なにこのブサイク、だった
同じ地元の?若い男性が複数で連んであれこれするタイプのユーチューバーらしい
もう絶対見ないわ
けど今検索しちゃったことで今後Googleとか微妙に推してくるのだろうか、嫌だななどと思った
東京の都下のほうの市の地元系らしいけど、首都圏近郊の普通のちょっとカッコイイ子達の普通のあれこれ、は需要があるのかもなとも思った
そしてテレビで見るジャニタレ達は、ずっとちゃんとしてると思ってしまった
いろんな問題を起こし画面から消えてくのも多いけど、それでもテレビに映っている時は、にこやかに笑い万人向けに適切に話す、もちろん適切じゃない部分はカットされ、きれいな商品としてお茶の間に届く
ユーチューバーを見るっていうのは、そういうのとは全く異なるものなんだなあと、今更のように思った
何十万というフォロアー・チャンネル登録者がいるユーチューバーは、テレビタレントのように万人向けに最適化されていく、となんとなく思っていたのだけど
フィクション作品の影響
息子の義信の謀反、諏訪氏の出身の側室、諏訪御料人(諏訪御寮人)の子の勝頼が武田氏の家督を継いだ史実や、テレビドラマや小説などの創作物の影響により、信玄との不仲説や悪妻説などが流布している。また不器量で暗愚な上に公家の家柄を鼻にかけ、高慢で嫉妬深い悪妻という否定的イメージを持たれることもある。
これらのイメージはほぼ全て新田次郎作の小説『武田信玄』によって作られたものである。ただし、新田原作の映像化である1988年のNHK大河ドラマ『武田信玄』では、紺野美沙子が演じる三条夫人自身は信玄を慕うあまり南野陽子が演じる側室の湖衣姫(諏訪御寮人)への嫉妬心を抱く、「恋敵」としての役回りという感が強い。小説内の悪女要素は小川眞由美が演じる侍女の八重が演じた。また、小説版でも中盤以降は禰津御寮人や嶺松院と良好な関係を築こうと努力したり、自分の意固地さを反省したりするなど善性の面も描かれている。
2007年NHK大河ドラマの『風林火山』(井上靖原作)では、原作とは違い、可憐で繊細な少女というイメージに転換。池脇千鶴が演じる三条夫人は全く高慢なところがなく、ひたすらに晴信を慕いながらも芯の強い女性を演じている。唯一、偶然に晴信から柴本幸が演じる由布姫(諏訪御料人)への恋歌を目にしてしまい、女心から嫌味を言うシーンがあるが、その直後に目に涙を浮かべるなど一貫して純情な乙女として描かれている。また一方では諏訪御料人のイメージも「軟」から「硬」へ180度転換していることから、一般的に浸透してしまった歴史通念に対する、制作側の意図的な挑戦であると言えよう。なお、同じ井上原作の映像化である1969年の邦画『風林火山』では久我美子が演じている。
そうだねフィクションの模倣犯なんて山ほど居るけど模倣犯を出すようなフィクションは存在を許してはいけないね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%9C%B0%E7%8D%84_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
この映画で用いられた「走っている電車等から現金等を落とす」という手法は、1955年の内川清一郎監督の『悪魔の囁き』のなかで使われたものであるが、この後のフィクション作品だけでなく、現実の現金受渡し目的の犯罪で数多く模倣されている。1963年9月の草加次郎事件、1965年の新潟デザイナー誘拐殺人事件、1984年のグリコ・森永事件、1993年の甲府信金OL誘拐殺人事件、2002年の新城市会社役員誘拐殺人事件、2004年の大阪パチンコ店部長誘拐事件などの例がある。手法の模倣ではないが、映画の影響を受けて身代金誘拐に及んだ者もおり、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件[4]、1980年の名古屋市女子大生誘拐殺人事件などの例がある。
「アメリカではゲイのカップルが社会の中で普通にカムアウトしているかどうか」は個々の増田がどう思ったかや日本人の協議によって決定される事じゃないんだから、一人の増田が「あー、普通なんだ。と思った。」ことを「早計」っていうのはおかしいだろ。「アメリカの社会の中でゲイのカップルが普通に見られる」のは単なる事実で、あっちの増田が「普通なんだ。」と思っても、こっちの増田が「本当に単に『美人のレズが見たいだけ』」と思っても、事実は変わらないんだから。
「普通なんだ。」と思った増田1とそれに「ちがいます。」と反応した増田2からわかるのは、外国のドラマの中に日本と違うものを見た時に、偏見のない者はフラットに「この国ではこうなんだな」と思い、その国は日本より遅れていると思いたい者は「一見進んでるように描かれているが実は下衆な理由でそうしてるだけ(のはずだ)」と自分の知るはずのない「理由」まで邪推し始めるってことだよ。増田1は「進んでる」なんて言ってもいないのに、増田2は「その国が先進的なはずがない」という点にひどく拘ってる。その増田2の偏見(または願望)が増田2が事実(フィクション作品に何が描かれているか)をどう解釈するか(それが描かれている『理由』はなにか)に影響しているんだね。
今回の場合はアメリカの社会でオープンなゲイカップルが実際に普通に見られることから、増田2が自分の偏見を晒しただけにとどまらず、テレビやアニメの作品には詳しいけど自分が批判してる現実の国やそこに暮らす人々については全く無知であること、そして自分の知らないことについて自分の願望をまるで事実であるかのように公に断言してしまう人だということがよく解ってしまいました。残念。
チーン。合掌。
まあ冷静に落ち着け。フィクションは悪いものではない。事件起こしたやつが悪い
ちょっと言葉を変えて否定語を入れたら真逆になるので、それはまさしくフィクションである。
まあ類似性は残るが。
フィクションと言うことはこの創作劇を見たところでそれで現実を知った気になって実在の人物を責めるのはお門違いだし、なんならあれはフィクションだからで片付けられる。
論理が飛躍してるように見えるので整理すると、
ここで上で書いたように実在人がフィクションを理由に片付けるパターンが2パターンある。
でも、このときも悪いのは言い逃れしている実在人のほうで、侮辱してる(値する)のも実在人である。
フィクションや模倣のいいところ(美学の哲学の分野にある)は、事実とある程度切り離して考えることができる点よ(被害者からクレーム来てるのであまり切り離せてなさそうだが)。一応、作品があることで、この作品の元ネタはXX事件であるという情報が残り続けて風化しにくくなるのは良い点ではなかろうか。