はてなキーワード: 上島竜兵とは
三浦春馬が亡くなった時、
ちょうど前日に顧客と揉めたりして、
朝から漠然と、死にたいな、いや踏み留まりたいな、がんばろう、でもな、あかんかもな
って思いながら過ごしていて。
何故だか一気に、我に帰って。
死んだらあかん、それで終わりや。生きよう、
という方向に気持ちが戻った。
その日はしこたま肉を焼いて食べて、なんだかすっかり元気になった。
それから2年。
その後もその時の案件は変わらずしんどかったし
後輩のありえないやらかしのフォローに追われたり、色々あったけど、死にたいとは思わなかった。
でもなんなんやろうな、今。
上島竜兵氏の死に関しては、三浦春馬氏のときに感じたのとは真逆の気持ちが沸々と湧いていて
それと闘っている自分がいる。
上島竜兵さんへの有吉発言にあらぬ批判 「2人の関係性を分かっていない」との指摘
https://www.news-postseven.com/archives/20220512_1753313.html
土田晃之 「竜兵会」の実態は“金づる”「有吉とか劇団とか、みんな金ないときに行ってる」
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/04/21/kiji/20220421s00041000399000c.html
有吉弘行の “イジり” にダチョウ上島激高「志村さんが呼んでんじゃない?」「寂しいよって」
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/3903842/
こんなことだけであんなことするかよ。あったとしても理由の一つだわ。90年代にはチーマーに追いかけられたような人だぞ?
亡くなって悲しいね、残念ねって本人を思い出して語って悼んでおけばいいのに何こいつのせいだって決めつけてんだよ
朝から家の前に来たことについてもWHOのガイドライン違反を杓子定規にしやがって。結局マスコミ叩きがしたいだけか?相変わらず薄い正義感だな
お前も同じ穴の狢だクソが
謹んでお悔やみ申し上げる。
私は上島さんをよくテレビでお見掛けするだけの名もなき視聴者の1人である。
上島さんが織りなす芸や喋りを見るのが好きで、特に有吉弘行さんとの掛け合いは抱腹絶倒であった。
しかし、お2人の掛け合いを見ていると有吉さんの側からやや踏み込んだ発言ではないかと思うことがあった。
有吉弘行の “イジり” にダチョウ上島激高「志村さんが呼んでんじゃない?」「寂しいよって」
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/3903842/
私が引っかかったのは、有吉さんの「もう呼んでんじゃないですか? 志村さん、寂しくて。『竜ちゃん寂しいよ』っておっしゃってるんじゃないですかね、天国で」である。言葉では表現できないほど大切な関係を築いた人の死を揶揄されるのは、たとえ“お笑い”であったとしても心地よくないと感じるだろう。そういえば、彼は以前児嶋さんともご自身の発言で諍いを生じさせていた。
ただ、私はここで有吉さんを批判・誹謗中傷したいわけではない。それよりも、彼の“信者”に対する怒りを吐き出したいのである。
上記の発言について、有吉さんのファンを語るネットの声を見ると、「お2人の信頼関係があるからこのような発言ができる」とか「有吉さんの愛が溢れている」といった意見を見かける。また、「お2人の関係性をよく知らないのに発言を批難するのはおかしい」との発言も見られた。
言語道断である。ファンは支持対象を無批判に受容する狂信者を意味するのだろうか。いや、違う。ファンは支持対象を尊敬しつつも、時にはその振る舞いを諫めるべきである。
先ほどの上島さんに対する発言を自分事として捉えてみよう。大事な友人が亡くなって憔悴している自分に対して、「きっとそいつもはやくこっちに来いよなんて言ってるよ」と仲の良い第三者に言われたらどうだろうか。その場では笑って済ませるかもしれないが、内面は穏やかにならないはずである。
いやいや、一般人と芸能人では立場が異なるし、ましてやラジオの掛け合いごときに目くじら立ててどうすんのよ。そう言いたい者も多いはずである。
しかし、たとえラジオであろうと、リアリティを演出している以上その表象が現実世界の価値観に影響を与える可能性はあるだろう。まさにウェルテル効果なんてその極致だろう。
心を傷つけるような発言を「愛」とか「信頼関係」といった耳触りのよい言葉でその暴力性を覆い隠そうとする態度は、ファンとして誠実と言えるだろうか。
むしろファンであるなら「いや、それは言い過ぎじゃないですか」ぐらい言わないと駄目である。好きと妄信は違う。また、個別の不作為が必ずしも全体の否定につながるわけでもない。しかも、それは支持対象を世間の批判・誹謗中傷から守る砦になるかもしれない。
繰り返すが、私は有吉さんを批判・誹謗中傷したいわけではない。また、人を傷つける笑いをなくしたいわけでもない。ただ、あまりに問題がある内容なら、世間は批判という手段を使って解決を図る。その急先鋒でなければならないファンが問題を無条件に肯定し、あまつさえその暴力性を美辞麗句で覆い隠そうとしている現状は悲惨としか言いようがない。
人間は間違える。それは仕方がない。面白いや良いと思って講じた行動が裏目にでることもよくある。世間の批難が誤っていれば、ファンがそれを糺すべきかもしれない。しかし、あまりに暴力的であれば、ファンが諫めなければならない。それを怠れば、ただの“信者”、いや“狂信者”である。
「水曜日のダウンタウン」をみて涙がでた…バラエティー番組を放送休止に追い込む「過剰コンプラ」を憂う - 記事詳細|Infoseekニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.infoseek.co.jp/article/president_57423/
今日すごい日だったわ、上島竜兵の記事とこれがトップに並んでんだよ
ここのコメント群がすべてじゃん
上島竜兵さんが自死されたとのニュースが報道された。人間なので、ショックを受けたり悲しんだり、そういった感情が湧き上がってくるのは仕方ないと思う。
だが、そのあと必ずと言って良いほど、「自死は良くない」という書き込みが散見される点については、本当にどうかと思う。(Twitterで故人を悼んでいたHikakin氏に対し、「自死は良くないとまで言ってほしかったです」とリプライしていたユーザーが居たので、今回投稿した)
実は思い悩んでいたとか、病んでいたとか想像を膨らませるのは自由だが、そもそも勝手に産まされたのだから、自ら死を選ぶことも尊重されてほしいと切に願う。(無論、多くの人を巻き込むような自死は問題視されて然るべきだが)
著名人であろうとなかろうと、誰しも死を選ぶ権利があることがもっと認知されてほしい。そういった認識が広がれば「ああ、この人は自死を選んだんだな。」ともっとニュートラルに受け取る人が増えるのでは無いだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fnn.jp/articles/-/358531
id:fujioka223 かなりびっくりしたが、記事があかんて。こんなん。先日の渡辺裕之さんの件はまあまあ配慮あったけど、という感じだったが、これはそのままやん。ガイドライン全く守ってない。
id:fellfield 具体的な手段を報じるなと繰り返し言われてきているのに、という怒りが先に立ってしまって、死を悼むのが後回しになるのが辛い。渡辺さんの報道の影響も否定できないのに、連鎖しかねない報道は勘弁してほしい。
id:ywdc 渡辺裕之氏の件かなり配慮された報道だったが、FNNのガイドラインマジでどうなってんだ…質が低過ぎないか。報道の内容も衝撃的だがこの内容をそのままお出しするメディアが存在してるのも衝撃。まとめサイトかよ
id:nine009 書き方変えろとFNSに送っといたわ。巻き込まれが出かねん。鈍感なオレですらショックがあるというのに‥
人が死んだばかりの報道でコレ言う奴、人でなしのクズだは。そこまでして星が欲しいんか
「上島竜兵さん死にました。死因はわかりません」でフェードアウトがお望みなんか?渡辺裕之ですら死因うやむやに書いたからインターネット探偵マンがある事ないことで勝手に盛り上がってんの、もう忘れたのか?
自殺する人を引き留めたきゃ頭働かせててめーでやれよ。なんで情報の取捨選択から死にたい人へのアフターケアまで全部他人任せなんだよ
ちょこちょこ大阪弁だけ東京に来ても直さないと苦情を散見するので、
関西弁について、ただの一方言として理解している人に伝えておきたい。
もちろんジモン寺門や上島竜兵のように完全に東京に染まる人もいる。
まず反感を持たれるかもしれないが、上方の言葉は100年前までこの国の中心の言葉だった。
なので今でもなんで東京の言葉を喋らないとあかんのやという感覚はある。
都市化されているので標準語にカッコいいとかスタイリッシュ、都会風というイメージがそもそもない。
イギリス人にアメリカ英語がグローバルスタンダードだから話せというバカはあまりいないのではないだろうか。
もう一つ、ほとんど知られていないかもしれないのだが、関西弁はもう実は標準語化されているという事実がある。
これは浜村淳という神様のような人がいて、その人が完成させた技術なのだが、
浜村淳が確立した技術というのが、標準語の文章をネイティブな関西弁で話すという技である。
どういうことかというと、関西人は標準語で書かれたすべての文章を関西弁で読むことができる。
逆に筆記すれば標準語なのにリスニングでは関西弁にしか聞こえないという双方向性が存在する。
この技術のおかげで関西弁をどこで話しても通じないという問題が発生しない。
それは当然で、関西弁に聞こえる方言は実は標準語を話しているからである。
この技術を多くの関西人は幼少のころから毎朝インストールされていた。
国語の本読みでも標準語のイントネーションなんて教育されることもない。
そんなことはおらが村の言葉でも同じだと思うかもしれないが、文字起こしして標準語なら伝わるはずだし、
書いてる私も、それくらい全国で出来る簡単なことのようにも思うが、浜村淳がこのスキルを完成されることに
大変な苦労を要したと語っているので、その言葉を信じるなら関西弁の特殊性のひとつとしていいだろう。
もちろん、~や、という語尾は話し言葉では出てくるので訛っているだろと感じる人もいると思うが、
ちゃんと喋ろうとしたらですます調で関西弁で標準語をもうすでに話している。
だから関西人は東京風のイントネーションに直す必要がないのである。
不快に感じている人は、ただただ嫉妬か妬みか、自分の方言は恥ずかしくてないことが悔しいか、地元愛がない自分を認めたくないか、
ごく一部の本当に通じない地方の方なのだと思う(そういう人は関西弁直せなんて怒らないと思うけど)
しかし、古い大阪弁を話せる人は年々減っており、老人の話す言葉がわからないという子供は少ないが、
高度成長期以前の大阪弁の映画を子供に見せて、何を言っているのか理解できるのかはかなり疑問が残るし、
おおきに、ですら老人が日常使いするくらいで、あとは商売人のクリシェでしかなくっている。
火垂るの墓で節子がナチュラルにおおきに、と話している姿はおばあさんに育てられているような家でしか見られないだろうし、
学校に通いだすと恥ずかしくて子供がおおきに、も言えない世の中になっている。