2022-05-12

愛の名の下に隠される暴力とそれを無批判に受容する存在について

ダチョウ俱楽部の上島竜兵さんが昨日逝去された。

謹んでお悔やみ申し上げる。

私は上島さんをよくテレビでお見掛けするだけの名もなき視聴者の1人である

上島さんが織りなす芸や喋りを見るのが好きで、特に有吉弘行さんとの掛け合いは抱腹絶倒であった。

しかし、お2人の掛け合いを見ていると有吉さんの側からやや踏み込んだ発言ではないかと思うことがあった。

例えば、以下の記事のような発言である

有吉弘行の “イジり” にダチョウ上島激高「志村さんが呼んでんじゃない?」「寂しいよって」

https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/3903842/

私が引っかかったのは、有吉さんの「もう呼んでんじゃないですか? 志村さん、寂しくて。『竜ちゃん寂しいよ』っておっしゃってるんじゃないですかね、天国で」である言葉では表現できないほど大切な関係を築いた人の死を揶揄されるのは、たとえ“お笑い”であったとしても心地よくないと感じるだろう。そういえば、彼は以前児嶋さんともご自身発言で諍いを生じさせていた。

ただ、私はここで有吉さんを批判誹謗中傷したいわけではない。それよりも、彼の“信者”に対する怒りを吐き出したいのである

上記発言について、有吉さんのファンを語るネットの声を見ると、「お2人の信頼関係があるからこのような発言ができる」とか「有吉さんの愛が溢れている」といった意見を見かける。また、「お2人の関係性をよく知らないのに発言を批難するのはおかしい」との発言も見られた。

言語道断であるファンは支持対象を無批判に受容する狂信者意味するのだろうか。いや、違う。ファンは支持対象尊敬しつつも、時にはその振る舞いを諫めるべきである

先ほどの上島さんに対する発言自分事として捉えてみよう。大事な友人が亡くなって憔悴している自分に対して、「きっとそいつもはやくこっちに来いよなんて言ってるよ」と仲の良い第三者に言われたらどうだろうか。その場では笑って済ませるかもしれないが、内面は穏やかにならないはずである

いやいや、一般人芸能人では立場が異なるし、ましてやラジオの掛け合いごときに目くじら立ててどうすんのよ。そう言いたい者も多いはずである

しかし、たとえラジオであろうと、リアリティ演出している以上その表象現実世界価値観に影響を与える可能性はあるだろう。まさにウェルテル効果なんてその極致だろう。

心を傷つけるような発言を「愛」とか「信頼関係」といった耳触りのよい言葉でその暴力性を覆い隠そうとする態度は、ファンとして誠実と言えるだろうか。

しろファンであるなら「いや、それは言い過ぎじゃないですか」ぐらい言わないと駄目である。好きと妄信は違う。また、個別不作為が必ずしも全体の否定につながるわけでもない。しかも、それは支持対象世間批判誹謗中傷から守る砦になるかもしれない。

繰り返すが、私は有吉さんを批判誹謗中傷したいわけではない。また、人を傷つける笑いをなくしたいわけでもない。ただ、あまり問題がある内容なら、世間批判という手段を使って解決を図る。その急先鋒でなければならないファン問題を無条件に肯定し、あまつさえその暴力性を美辞麗句で覆い隠そうとしている現状は悲惨しか言いようがない。

人間は間違える。それは仕方がない。面白いや良いと思って講じた行動が裏目にでることもよくある。世間の批難が誤っていれば、ファンがそれを糺すべきかもしれない。しかし、あまり暴力的であれば、ファンが諫めなければならない。それを怠れば、ただの“信者”、いや“狂信者である

特に有吉さんのファンはそのことをよく考えてもらいたい。

  • そういうの個人の会話で言ってるならアレなんだけど そもそもギリギリのこと言わなきゃいけない仕事なんだよね〜 めんどくさい仕事だなと思った 仕事として行った言葉でもマジギレ...

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