ここ昨今の生成AIをうたう投資案件や書籍の類は必ずや詐欺に至る病である。なぜなら、本来サービスを提供すべき生成AIの提供主は「誰が使っても差のない装置」になるべきであって「中間搾取となりうる書籍の販売主や代理店のマージンは抹殺して彼らの取り分を自らの懐に入れることを追求」するからである。よって、本屋で生成AIのテキストがある状態というのは、サービス提供する立場の人間からすると負けている状態なのだ。生成AIでワイワイしている人材は「消えるべきゴロツキ」であり、彼らの儲けはゼロになることこそが AI の勝利なのだ。つまり、いまのAI人材というのは「死ぬこと」だけが期待されている人々で、我々の希望は彼らがいなくなることである。
ここ5年くらいずっとそうだけど、もうネットの論争に付き合いきれない。
何か話題性のある事件が起きる度に意見を出して派閥に別れて争って叩いて潰して消耗して。
一昔前までは何か有益な面もあるかもと思って自分なりの正義を求めて付き合ってたけど、もう無理だと思う。
世界はこんなにも色々なことが日常的に起きているのに、一つの(それも自分に大して関連のない)出来事をピックアップして討論するなんて馬鹿げている。
それに、情報それ自体も年々刺さり易く尖ってきているように思う。
人々が無視できない情報をより効率的に拡散する術が浸透して、俺たちはすっかり身動きが取れなくなっている。
だから最近は、争いのタネになりそうな話題を徹底してミュートしている。
政治も、ジェンダーも、芸能スキャンダルも、揉め事に繋がる話題は全て見えないようにして、それでも漏れ聞こえてくる情報だけをすくい取って生きていきたい。
所得のデータなのに平均値よりも中位値の方が高い、というのは、とても不思議な気がする。
ほとんどの年齢階級でそうなっているのでおそらく保育士に関してはロバストな傾向なのではないかと思うが、どういうわけなのだろう。
まず断っておくが、死刑反対とか、19歳への死刑反対とか、そういう話ではない。
世間にしてみたら冷酷な殺人者だろうが、親にしてみたら小さいころから育ててきた可愛い息子であるし、まだ独り立ちもしていないまだまだ子どもという年齢だ。
ついこの前までランドセルしょってたのにもう高校生かぁというくらいの感覚だ。
出産の痛みも、夜泣きの辛さも、学校の入学卒業も鮮明に覚えている。
その子供が国から、「死ぬべきである」と告げられとあれば正気ではいられないだろう。
親であれば子供を救いたいと思うかもしれない。
だが、それと同時に子供は殺人者であるのだ。自分の子供とおなじくほかの人が大切に思っている人を殺したのだ。
それを差し置いて自分の子供を救いたいと思うのはおこがましく思うし、なによりも殺人者にしてしまったという親としての責任も重く感じてしまうだろう。
殺人を許さない気持ち、自分が殺人者を生んでしまった気持ち、このような贖罪の気持ちと、自分の息子を愛する気持ちは矛盾しない。
同時に抱えてしまう感情だが、世間はその息子を愛することを許してはくれない。
逆縁はいかなる場合でも悲しいものだ。逆縁の不幸に直面した親たちは多くの同情を誘う。だが世間は自分たちの逆縁を望んでいる。
いっそ、失恋に苦しんで自殺でもしてくれたらとふと思い、そして自分の子供の死を思うなんてと自己嫌悪にも陥る。
もう子供は死んだのだと思う様にしても、まだ生きていて、そして確実な死が数年後に訪れると司法が判断をした。
被害者を悼む気持ちを強くすれば、息子を愛するという人間の正常な感情を殺さなければならい。
息子を愛するという正常な感情を出すと、犯罪を肯定しているような罪悪感が生まれる。
勝手にエンパシーを感じている僕は、この不協和を公正世界仮説に基づいて「こんな殺人者を生んだ親だから、毒親にちがいない。」というストーリーを作ってしまいたいが、現実はそうではないのだろうなと思う。
脳の異常を疑ってるなら、まずは脳神経内科かな。
あとは近くに総合診療科がある病院があるなら総合診療科でもいいかも。
「みんなの力で暴力」の立て看板の全文は「「みんなの力で暴力追放」で、実は暴力事件が沢山あった地域だったっていう棘がバズってるけど、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2306458
「暴力はいいぞ、ケンシロウ」のアミバとか「暴力は全てを解決する」のコマとか入れられているが、こういう看板のいう暴力って一般的な暴力じゃないのよ。民暴なのよ。
こういう看板は昔は沢山あったけど今は限られている。今は駅前、寂れた商店街、警察署が多い。
その看板の名義見た事あるだろうか?警察、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、商工会、JC(青年会議所)が多いのだ。
ライオンズクラブ、ロータリークラブは共にフリーメイソンのスピンオフみたいな組織で経営者が多い。地域の実力者や法人が加入しているのでコネが欲しい経営者も加入する。
で、一番多く建てられた時期は平成の初期だ。
この当時、ヤクザ問題が深刻化していて、ハリウッド映画にも凶悪なYakuzaとしてよく登場している。
ヤクザは様々な犯罪を起こすが、国家権力、特に警察が重要視していたのが経済がらみの犯罪や犯罪紛い行為だ。
今では考えられないが、当時は会社の経済活動にヤクザが絡んで来るというのは当たり前の風景だった。総会屋などは商法改正でパージできたが、民事紛争でヤクザが出張ってくる事件屋とか、不動産物件を購入や落札したのにヤクザが居座っている占拠屋とか、会社間の債権がヤクザに売られて取り立てに来るとか、色々とキリがない。他社と揉めたら会社の前に右翼の街宣車が来て「糾弾」が始まったりする。
必ずしも金を要求されるわけじゃないが、どこかに対して経済的な見返りをしないと収まらない。その相手はヤクザの企業舎弟やヤクザに金払った会社だったりする。
一度関係が出来ると延々としゃぶられる。
こういう状態に関して警察が働きかけて「紛争でヤクザを使うな」と呼びかける為にそういう看板を設置させたのよ。「暴力団を使うな」じゃないのは、企業舎弟とか経由するからヤクザと直接の関りとならないから。
今はこの「暴力」追放が使われなくなったのは反社という概念が出来て浸透したから。
平成初期はその概念も無く、ヤクザがあちこちで経済活動に関与しているのは当たり前の状態だった。そこからヤクザを取引や紛争解決の場から排除しようという流れに持って行くための警察の活動が「暴力追放」という看板の設置だったわけ。
新暴対法は1991年に施行されたが、最初はあまり効力を産まなかった。
ところがそこから警察があらゆる手段を取るようになってかなり物騒な事件が続出した。例えばパチンコの三店方式は警察がパチンコ店主を説得して導入させたものだが、この導入初期には営業中の店への銃撃事件やダンプ突っ込み、バキュームカー逆噴射、店主の傷害事件などが起きている。
それらに対して警察は身を守るという約束をして用心棒を兼ねて警察OBの天下りをさせるようになった。パチンコもうけ過ぎの構造はこういう経緯があって出来たもんだ。
当然今までトラブル解決をヤクザに依頼していた会社はマル暴デカに脅されるし、企業舎弟との取引がある会社も切れと警告される。ヤクザは「警察と俺等とどっち取った方が安全か判るよな」と脅す。
そういう中で民暴という概念を啓蒙して流れ作るために警察が経済人の組合抱き込んで設置させてたのがああいう「暴力追放」看板なのよ。だから設置者がPTAとかじゃなくて経済団体ばかりなのだ。
ってー事で「暴力追放」看板は古い(平成初期)のばかりなのだ。21世紀に入ると反社概念が周りはじめて対反社条例などがどこにでも出来、「暴力追放」概念は過去のものになったから。
あと、ヤクザが地場産業企業とくっついていたので、市長がヤクザ関係者とかそういうのも普通にあった。
何しろ高度成長期まで遡れば、労働争議に会社にやとわれたヤクザが突入してストライキしてる側を殺したりとかもあったわけで。
地上げで、ヤクザ金融から金借りた債務者のどっかの経営者が普免しかないのに大型ダンプ運転してハンドル操作ミスって「偶然」地上げ受けてる家に突っ込んだり、放火されて死んじゃったりとか。
そういうの根絶するにはその犯罪取り締まるだけじゃなくて、面制圧して干す必要があり、それには経済活動から排除するっていう機運が必要だったのだ。
魂込めずに作った作品なんて見る気ないけどな
女から誘う世の中に変えていこう