資本主義社会においては「生産者」よりも「消費者」の方が立場が上であることを利用して「消費者」としての立場からケチをつけてるだけ。
「天才+生産者」より「無能+消費者」の方がカードの組み合わせとして強いのでケチをつけて回ることにおかしいことはない。
まあ「消費者」ゆーてもはてなに入り浸ってるような負け組は大抵のものにまともに金は払ってないのだが、金は払わずとも財布を見せつけてさも「払う価値があれば払いますよ」とポーズだけ取れば「消費者」になれるのが今の社会だ。
「一部の人しか楽しめない」「価値がないものをもちあげてる」という評価は妥当ではなく、
『さよなら絵梨』は優れたエンタメであり作品で、個人が面白いとおもうかは別に価値はあるものとして考察されるべきものだと思う。
【1:爆発オチが凄い】
作品が深く理解できてなくても、なんとなくの意味がありそうな爽快感を味あわせて
【2:どう消費されるかのデザインが凄い】
まるで祭りかイベントをデザインするかのように反応を誘導するのに成功している
「最後の爆発が嘘」「絵梨転生と吸血鬼設定が嘘」「交通事故が嘘」「そもそも全部が嘘で映画」とどれでも話が成り立つようになってる。
考察厨も大満足だし、パターンごとに優太が何故そうつくったのかを考えてもまた興味深く想像が広がる
【4: (3)を前提としたメッセージが凄い】
たぶんこれから「○○がもっとも妥当な解釈で素晴らしい」みたいな言及や論争がいろいろあるんだろうけど、
「どんな風に思い出すか決める力がある」という父親の言葉のように読者に委ねられてる。
しかし、それは『解釈はご自由に』という投げっぱなしではなくて
どのように解釈しても「(爆破オチという爽快感ある)想像力とフィクションで救いを人は得られる」というメッセージが成立しており
優太や創作側の人間に限らない普遍的なフィクションのパワーを感じさせる。
だからこそ(1)の段階でも凄さや良さがなんとなくでも伝わって評価されているのだと思う。
そして、それが(3)のどれがフィクションでもいい、という多重構造で語られてるのが芸術点が高い。
【5:他にも語れる部分が多い】
藤本タツキの作家性や映画などのオマージュについて語れるのもポイントではあるだろうけど、(1)~(4)に比べれば些末だと思う。
人間の命が作品として残る、けどその作品も永遠には残らず無常、だが創作への衝動はあるみたいな虚無と衝動のせめぎあいかのような
同じことでも誰が言うかの方がずっと大事だもんな
、刑期から未決勾留日数が引かれ、2008年(平成20年)6月26日に満期出所した[21][22]。仮釈放がつかなかったのは、身元引受人がいなかったためという[21]。7月16日、阿佐ヶ谷ロフトAにて、雑誌『創』篠田博之編集長主催のトークイベントに出演した[23]。その場の記者会見では一部ろれつが回らないなど、心身ともに衰弱している様子が見受けられ、田代自身、不眠で医師の処方を受けていることを打ち明けている。この出所以降、公の場に出る際は常に帽子を着用するようになった。
・アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。
・わざわざクレームをつけてくるようなヤツは、無能ゆえにヒマを持て余していて、そのくせ無闇にプライドだけは高く、嫉妬深いクズのような人間だ
あと1つは?
アプリでどこかのページを見た時は開く。
どういうタイミングかは分からないが、そのうち最初に開いたブクマ一覧しか出なくなる。
アプリのタブメニューだけならまだしも、そのページにあるブクマへのリンクをタップしても、アプリのブクマ一覧の方を開く。
なんなら以前はページ内のリンクではブラウザでブクマページを開いていたのを、わざわざアプリの方を開くようになった。そこには今みているページのブクマは表示されないのに。
何をどう作ったらこういうことになるのか分からん。アプリ内ブラウザの URL を引くだけじゃん。
はてブアプリでブラウズするなよという話なのだが、セッション情報を消しにくいスマホのブラウザではてなにログインしたくないんよ。ちょいちょいやらかしていたイメージが強い。アプリ内ブラウザなら別セッションだし。
昔はヲタクどもが
とかウザいぐらい営業かけてきたり
「〇〇読んでないとか人生損してる」
「△△読んでないのに語る資格なし」
みたいなウザい絡み方してくる人がそれなりに居て
そのせいで
「ふざけんなアホが〇〇なんて全然つまんねーんだよ」
っていうアンチが沸いていたように思う
ところが最近は誰も押し付けたりしてないのにアンチが沸いてくる
別に見て欲しいなんて一言も言ってないのに勝手にお気持ち表明する人が多い
単にツイッターやはてブで盛り上がってる、っていうだけで押し付けられたように感じてるんだろうか
漫画でも映画でも絵画でも、そもそも作品と作者を切り離して考える前提に意味なんて無いのでは。
テレビみたいなエンタメであれば構成作家が誰とかプロデューサーが誰とか、そもそも能動的には降りてこない情報なので分かる。
けど、“作品”と呼ばれるものは誰がどういう文脈(経歴)で作ったか、そういう背景を包容してこその1プロダクトだと考える。
例えば同じ作品でも、処女作として作ったものなのか、その道20年のベテランが作ったものなのか。前者が後者よりも評価受けるのは当たり前だし、新陳代謝の為にもそうあるべき。逆のパターンもあり得る(今まで作ったものとのギャップ等)けど。
なんかめいろまがヤフージャパンがGDPR対応できねーから欧州アクセスブロックしてるのに不満を提示してたが
いやそりゃお説はごもっともだけどこちとらビジネスっすわって話だと思うんですよいや別に中のヒトじゃないけどさ
なんか明確じゃない後出し基準の不意打ちで大量罰金とられるくらいなら最初から見せない方が良いっす
会員制ログインの必要なサービスとか広告とかそういうのをやらないと生きていけないんで、それをたいして客もいないところむけにどんだけお金かけりゃいいのしかもなんか基準が車の規制以上にヌルヌルゴールポスト動くじゃんっていう
つまんないとかわざわざ言うな、とわざわざ言いに来る人達がいる。わさわさ
建設的じゃない×間接的自分語り×自分と意見が違う×喋り方がキモイ=見るだけでストレスになる他人の感想
インターネットを繋ぐという行為時代にある程度のIQが必要だった時代のネット掲示板であればこのレベルのストレス感想は多くなかったけど、今ってスマホをショップで店員に言われるがままに買ってるだけの半分白痴みたいな人でもガンガンネットに書き込むでしょ?
それどころかそういった白痴みたいな人ほど一日中インターネットに繋がっていて、一日中自分の文章ばかり読み書きしてるうちにドンドン同じような言葉しか喋れなくなるし、自分がすぐに理解できない他人の意見はノイズだの敵意だのとしてしか受け取れなくなって壊れていくというか。
一昔前の今のインターネットはどんどんオープンになってどんどん繋がるのが理想とされていたけど、今は逆に適度な人数の気の合う仲間同士で小さくまとまった方が幸せだって再び気づいた状態だと思うんですよね。そこにはエコーチェンバーみたいな問題もあると思うんですけど。でもエコーチェンバーが一番酷いのは自分が平均的だと感じる集団が実は偏っていたというパターンでしょ?つまりは最初からこの集団はこういう方向に偏らされているという集団をいくつか作ってそれぞれに所属するのが良いと思うんですよね。1つの集団への依存が一番危険なわけですから。
そう考えると上辺はオープンで実は極めて閉じた世界、はてなみたいのが一番怖いのかなって。この話題になるとはてなはそもそも閉じた村だからって皆口にはするんですけど、その言葉が凄い空虚に聞こえるんですよ。だってそういう割には自分たちこそが世の中の平均的な意見の代弁者である中庸だって顔してるじゃないですか。偏った世界にいる田舎者だからって口にしておきながらその実は違うよ君こそが普通なんだよって言われたがってる顔してるんだなと。そういう人達と一緒に語るのに向いてるジャンルもあるんだろうけど、娯楽の感想って今はそういう人達と一緒には語らないほうがいい気がするんですよね。