TOEICテストの解釈方法、特にスコア差が有意といえるのは何点差以上かを調べたら、
おかしな記述をしているサイトがいっぱい有ったので備忘録としてまとめておく。
(25点を差の標準偏差としたり、トータルスコアの標準偏差を√2倍ではなく2倍したり)
<結論>
AさんとBさん(過去と現在の自分でもOK)のスコア差について
①リーディングスコアおよびリスニングスコアでは70点以上の差があれば95%以上の確率で差があると言える
②トータルスコアでは100点以上の差があれば95%以上の確率で差があると言える
以下はその導出。
統計学は素人なので誤りや不正確な記述があれば教えてください。
TOEIC公式によると、リーディングスコアおよびリスニングスコアの真値からの誤差の標準偏差(σ)は25点である。
例えばある人のリスニングスコアが300点のとき、その人の真のリスニングスコアが275~325点の範囲内(±1σ)である確率は約68%となる。
http://www.ets.org/Media/Tests/TOEIC/pdf/TOEIC_LR_examinee_handbook.pdf
リスニングスコアとリーディングスコアが独立であると仮定する。
このとき、和の分散は分散の和(V(X+Y) = V(X) + V(Y))を使うことができ、
トータルスコアの真値からの誤差の標準偏差は√(25^2+25^2) ≒35点になる。
さて、同じテストを受けたAさんとBさんのスコア差を考えると、
リーディングスコアおよびリスニングスコアの差の標準偏差は35点であり、
したがって、AさんとBさんのスコア差について、
リーディングスコアおよびリスニングスコアが35点差あれば約68%, 70点差あれば約95%の確率でAさんとBさんの実力に差があると言えるし、
トータルスコアが50点差あれば約68%, 100点差あれば約95%の確率で差があると言える。
TOEICテストは等化(違うタイミングのテストの点数を比較できるよう、スコアは難易度に応じて素点から調整している)されているので、
成人した頃から、失敗を恐れるあまり行動しなくなった。挑戦しなくなったように思う。
最近そうやって生きてきた人生を思い返して、これからの人生が不安になってきた。
失敗しても恥かいても、大抵の事は取り返しがつくし、その失敗自体がいい経験になるに違いない。
むしろこのまま何もせずに成長せずに30代になる方がずっと怖い。
失敗したって構わないから、むしろ失敗するつもりで、無謀な事にでもチャレンジしていこうと決意した。
最近はそんな感じです。
鼻提灯が風で飛ぶこともある
香山リカは我那覇さんを「マイノリティに過剰に同化してしまった哀れな存在」
として扱うけど、いち沖縄県民の私に言わせりゃハァ?だ。
基地反対派こそ本当はマイノリティで、今の沖縄は賛成とまではいかないけど「容認派」がほとんどだと思う。
「自分たちは基地によっていやな思いをしてないor恩恵を受けている」
「でも基地によっていやな思いをした(主に老人の)反対派を思いやって口には出さない」「というか沖縄でももめたくない」
みたいな考え方で、賛成とは言わないけど容認する人たち。
近隣住民の「騒音を立てないで」の張り紙を不気味なカカシ?で隠したり
在日がどうとか、どうでもいいけどあれをやる人間たち全てがどうかしてると思う。
こういうこというとヘイトだとか差別だとか抑圧するマジョリティだとか言われそうだけど、もう笑ってしまう。
あれが同じ県民で、すべての沖縄県民がそれにくくられると思ったら、ものすごく嫌だった。
沖縄を離れて、報道されるのを見るたび、「みんながみんなこんなんじゃないのになぁ」と悲しくなった。
もしそれがなんらかの作為的な行動であれば、それを画策した人間に私は腹が立つ。
というか、沖縄県民でも直接いやな思いをしたこともない人間が何をしているのだ、あそこで。
沖縄県民の前に日本人であるというような言葉に、ああ、そうなんだよなぁと思った。
彼女を応援している!という人も多いし、それを表明しなくても「よく言った」と思ってる県民は多いと思う。
沖縄のメディアは、我那覇さんを取り上げないしなぜかそちらを少数派にしたがるけど、我那覇さんの主張、またはその一部に納得・同感する人は多いのだと思う。
「マイノリティ集団には必ず抑圧するマジョリティに過剰に同化する人がいる。抑圧者にとってそういう人はたいへん都合がよく、一時はチヤホヤされる。「ほら、当事者だってこう言ってる」と使えるから。「アイヌ利権を主張するアイヌ」「在日叩きの在日」、そして沖縄にも。利用されてるだけの悲しい人。」
この香山リカ氏の主張に猛烈に腹が立ったのはなぜだろう。
お前が何を知っているのか。
というかマイノリティの過剰に同化しチヤホヤされ利用されているのは自分ではないのか。反差別のアイドル著名人として、利用されているのはないだろうか?
「私は違うわ。いけないことはいけないもの。自分の意思で主張し戦うわ。私は正しいの」か?
我那覇さんと何が違うのか?相手側の意見を聞く姿勢があるだけ我那覇さんのほうがよっぽど人としてできている。だからレッテル貼りをして逃げるくらいしかできないのか。
我々をストックホルム症候群の被害者のようなものだと思っているのか?
沖縄は、マイノリティなのか。私たちはいつまで抑圧されたマイノリティであるべきなのか?
特に基地を憎んでいないのにそれに反対することが正しいことなのか?
自らの意思をもって基地を容認・賛成し、主張することは哀れな被害者の成れの果てだともいうのだろうか。
私には、実際に目に見える障害がある。
たとえば、片脚がないと想像してほしい。それにほとんど近い障害だ。
自分の人生をその状態で生きてきた私は、今やそれも自分の個性のひとつだと思い、もはやチャームポイントだと思っている。コンプレックスはいまやなく、それを活かした仕事をしている。そんな自分を愛している。
片脚がない私たちは辛いんです!バリアフリーを!理解を!寄付を!と叫ぶ同じ障害をもった人もいる。それが悪いことだとは思わないが、自分と違う考えを持っているんだと思う。
そんな私に言う人がいるのだ
「片脚がないと不便だよね。かわいそうに」
「片脚がないことを嘆くことが普通なのに、大丈夫だなんて強がっちゃって。本当は大変でしょう?嫌でしょう?」
私がその時、どんな気持ちになるのかわかるだろうか。
こういうふうに言われたら、どう思うだろうか。
「障害があることも受け入れる?そんな自分を愛する?まぁ、頭がどうかしてるんじゃないのかしら」
「私の知っている人は障害者の人権向上のためにデモをしているわ。あなたはなぜしないの?」
「彼らの切断した脚を出して同情を買うパフォーマンスが嫌い?このレイシスト!彼らは闘っている弱者なのに!」
「あなたみたいな人のせいで本当に困ってる障害者が言われるのよ。「あんな風に生きてる人もいるのに」って。その引き合いに出されてチヤホヤされて利用されて、かわいそうな人ね。あなたはかわいそうなマイノリティであるべきなのに」
彼らは、自分たちがしていることがそういうことであるとは気づかないのか。
真っ当に自分なりの価値観で、自分を愛して生きていきたいだけなのに、言われるのだ。障害のない人に。何故か高いところから。
「差別はよくないわ。弱者へのヘイトはよくないわ。それをわからせるためなら(自分が決めた)レイシストは排外するわ。あなたは弱者だから喜んでくれるわよね」
バカじゃないだろうか。
今の沖縄を愛し、基地と共存しようとしている人間を、迎合しようとしている人間を、
誰にそのように言う権利があるのか。
私は、沖縄が好きだ。基地があり、ステーキやハンバーガーやアメリカンファッションが名物になり、休日にうろうろしている米軍人と笑顔で挨拶を交わす。私が生きてきた沖縄は、そういう場所なのだ。そういうが沖縄は好きだ。そういう人間がたくさんいる。
一部の人間からは「アメリカに染められ反対派を愚弄する国賊」だろうが、この多様化の時代に私や、同じ考えの人の愛するもの・主張をなぜ鼻で笑われなければならないのか。
狭い良識と偏った考えで、己に正義があると思い込み、弱者の味方ですというような顔をして良識人面している、本質を何も理解していない、理解しようともしない、自己愛にまみれた反差別の皮をかぶった差別主義者は、誰なのか。
どうせ彼らから見れば、この投稿も「ネトウヨが沖縄のふりをして書いたヘイト記事」「過剰にマジョリティに同化した哀れなマイノリティ」なのだろう。
そういう考えでいてもいいと思うが、真っ当に暮らす人間の邪魔をしたり傷つけたりしないでほしいのだ。多分話通じないけどさぁ。
ぐちゃぐちゃになった。書捨て。
俺は糞ほどの価値もない
人間としての基礎がなっていない
どうせ死んでもまた同じ地獄が待っているけど
本当に消えてしまいたい
やりたいことがあるけどそこまでたどり着くまでの糞のしごとでミスるから意味がない
本当に糞
知り合いに「また怒られちゃう。」「また怒らせちゃった。」って口癖のように言う人が居る。
その人は本当に人の話をスルーするので、周囲の人間からは強めに言わなきゃ聞かないからだろって思われている。
何を言っても右から左。
昔から話を聞かない人なのか、怒られすぎてスルー癖が付いたのか知らないけど
何度も同じことを聞かれるので、ときどき嫌になる。
まあまあ長い付き合いになり、その人は本当に頭に入っていないこともよくあるけど
知っていることでも確認の意味で頻繁に聞いてくることに気がついた。
そして聞き方はいつも「待ち合わせはどうするんだっけ?」みたいな相手にまる投げ方式。
いちからもう一度教えると、スマホでカレンダーを確認して「オッケー。合ってたわ。」とか言う。答え合わせかよ。
「待ち合わせは△△駅に19時で合ってる?」と聞いてくれたら、答える方は「そうだよ。」の一言で済むのに。
話を聞かない人という印象は少し薄れたが、面倒臭さは変わらない。
そして最近知ったこと。
その人は同じ話を同じ相手に何度もする。
人の話を真剣に聞かない人だから、自分がした話や話した相手のことも覚えていないんだろうと思っていたが違った。
同じ話を同じ人にするのは意識的にしていて、それが好きらしい。
「同じ話なら相手の反応の予想がついて楽でいい。」
「いつも違う話をするのは疲れる。」
ということだった。
なんでもスルーでマイペースに喋る人だと思っていたが、相手の反応を気にしてのことだったらしい。
私の中で「真剣味のない人」から「会話の仕方が違う人」に変わった。
いろんな人がいるなと思った。
例えば本のページを如何に早くめくるかという競技で
単行本を3秒でめくり終えたのを見て、だからこの本は中身が薄い、
きっとつまらないだろうって言うようなアホさだな
フリーランスとして、個人事業主の届けを出して2年間くらい過ごした。
働けているうちはよかった。事実婚の夫に援助されつつもどうにかやれていた。
ただ、本格的に身体が動かなくなって、働けなくなったら「どうにかやれていた」反動が「税金」という形で返ってきた。
前年の所得税、住民税、国民年金保険料、国民健康保険料、それから、税金ではないけれど、奨学金(一種)。
国民健康保険料に関しては、多分確定申告で記載が足りなくて、前年の3倍近い額を請求された。
GWに23区内で引越しをしたので、同じ名目の税金を両方の区に納めなければいけないこともあった。
身体も動かず、精神がずたぼろになった状態で請求書の山ができた。
夏、泣きながら扶養に入れてくれるよう夫に頼んだ。頭を下げたくない実家にも頭を下げた。
秋に籍を入れて名字が変わった。あらゆる公的書類の上から「自分の名前」が消えていった。今でも夫の名字で呼ばれることには慣れない。
生きることに関する意識のレベルを下げた。「生きてさえいればいい」というところまで下げた。
とりあえず、今はわりとゆっくり生きている。