昨日から数えて2016年目。
いい大人なのに歯並び悪い、ってみっともないなぁ...と改めてため息。
例外なく鼻白む。
そういう表現が出てきた時点でもう続きは見ない。親と一緒にテレビ見ててエロいシーンになったときの気まずさ以上の物がある。よくみんな平気だな。もう今すぐに逃げ出したくなるくらい恥ずかしい。古語で言う「かたはらいたし」の状態だな。
・当人が聞いているとも知らずにその人の噂話をしているのを見たとき
というような場合が「かたはらいたい」と清少納言は書いている。
話はそれたが、作品中におけるネット描写がなぜこんなにかたはらいたきことなのかを考えてみると、理由は二つあることが分かった。あくまで俺の場合な。
一つ目は、いずれ廃れる表現なのが分かりきっているから。どうせ数年後には「ナウなヤングにバカウケ」くらいの陳腐な表現に成り下がってしまう。今「~~とか言ってみるテスト」とか言っても「何言ってんだこいつ」以上の反応は期待できないだろ。それがすげぇ嫌なんだよ。今現在のこの瞬間を切り取ったドラマであるのかも知れないけど、「あぁ、今だけ受ければそれでいいんだな。数年後に作品を残すことは考えてないんだな」って思いの方が先にくる。作品を食い散らかすこと前提で作ってるのかな、と思う。それに、その作品が優れていればいるほど、スラングの古さが気になって評価を落としてしまうだろう。もちろん、その時代を表現する描写ということはわかるんだが…。
二つ目は、否が応にも現実世界を意識させられるから。俺は作品を鑑賞するとき、前のめりに作品世界に浸りきりたい。その世界の中で本当に人が生活しているのだというファンタジーを噛み締めたい。だから凝った設定をうまく背景にして展開する物語が大好きで、「なぜこのキャラクターはこの服装なのか」「どういう文化なのか」という点が自然と理解できるような作品が好きだ。現実世界を舞台にした作品でもそれは変わらない。しかしそこでネットスラングやネット描写がでてくると、一気に「こっち側」に引き戻されてしまう。ネット描写はどうしても第三者の目線を意識させる。しかもネット描写がうまい作品があんまりない。何ていうか、ネットがありありと描写される事で「その作品の世界観の中の出来事」が現実世界と地続きであることを意識させるというか。あるいは、「不気味の谷」みたいなもので、わざとらしく描写されたネットの様子というのがどうにもかたはらいたきことに見えてしまうのかもしれない。
ちなみに、洋画のなかでfacebookの描写が出てくるのは全く問題なく見れてしまったりする。これはきっと、外国のfacebookは日本のfacebookとは違う場所にあるのだという意識があるのかもしれない。作品の舞台が地元でもとくにかたはらいたくならないのと同じかな。あと、基本的に日本で公開される洋画の演出は優れていることが多いからというのもあるだろう。
なんだあれ。なんなんだよ、あれ
「ホラー」
とか見当違いのことを言ってるけどさ
そうじゃないじゃん
これって完全に俺たちのことなんだよ。
本当に、何のために働いてるんだ
互いに頼り、互いに庇い合い、互いに助け合う
一人が十人の為に、十人が一人の為に
増田は誰でもない
増田は誰でもある
糞をひるなっ!
猜疑に歪んだ暗い瞳がせせら嗤う
正直
女性主張
どれ一つ取ってもネットでは命取りとなる
それらを纏めて無貌で括る
誰が仕組んだ地獄やら?
ブクマもっ!
トラバもっ!
ツイートするもっ!
だからこそ
俺の釣り餌を食えっ!
夕方、たまたま通りかがったファミレスに入ったら、席の窓から、ちょうど交差点が見えた。
交差点の横断歩道の向こう側が、窓からいい感じの角度距離で眺められ、そこに定期的に太もも丸出しのJKが自転車に載って信号待ちをしている。
思わぬ穴場店を見つけてしまったようだ。
また来ようと思った。
私の母親は大企業勤めの父親と結婚しているのだけど、どうやら二股だったようだ。
父親と結婚する半年前、実は大手商社のイケメン社員と結婚する話が進んでいた。
結納も済ませ、婚約指輪も買い、結婚指輪もそろえ、式場も予約し、さあ明日結婚式だという日に母親は婚約破棄した。
理由は「結婚式が終わってからタイに転勤することが決まっていたから」
付き合っている頃から商社マンなのでわかりきってたというのに、なんという鬼畜な所業。
そしてその口で、
「でもー、その商社マンのほうがお父さんよりイケメンだったけどねー、そっちと結婚したほうがあんたはもっとびじんだったかもねー。
ま、でも収入や安定性はお父さんのが上だし、頭もお父さんのか良かったからなぁ。
私は専門学校に行きましたが、プログラムに関しては比較的スムーズに習得できました。
PCというツールは私のような人間の短所をよくカバーしてくれますし、各自のPCを使いながら進む授業は私にとって大変理解しやすかったので、
恐らく授業を聞いて紙とペンでノートを取る、というスタイルが自分には不向きだったのだろうと今では思います。
また、情報を読み漁って知識を得たり、それをまとめたりする作業もあまり苦にならないので、マニュアルやレポートの作成も得意な方なのかもしれません。
私の場合、WAIS-Ⅲの結果から言える得意なこと(苦手でないこと)は「文章を読んで理解すること」ということになるのだと思います。
どんな分野であっても、新しい技能や知識を習得するためのインプットを行う際に、
なるべく視覚経由で、できれば言語化された情報を摂取するように心掛ける、という感じで結果を受け止めています。
いつも親にパソコンを教える際、「こんな初歩的なこともわからないのか!」とイライラしたりしてるんだけど
今日、自営業の帳簿データを青色申告会に見せに行ったら結構、初歩的なミスをしてて自分で自分が嫌になった。
いやいや、俺が話してるのはどうすれば寒空の下眠らなきゃいけない人や餓死しかけている人がひとりでも多く救われるかって話
だって。
ワクワクしてブコメみたのに、誰もチンコって言葉に反応してなくて、自分が恥ずかしくなった。
記事の中身は見てない。
この話の要点はきっとこうだろう。
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このおばちゃんのジャッジについて、僕は、増田とは違う評価をした。今からそれを説明しよう。
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半分とはどういうことか。
おばちゃんのジャッジはある状況では正しいが、別の状況では間違いとなるという事だ。
※ここで言うリソースとは例えば「お金」みたいな人間にとって役に立つ、何らかの投資活動の原資として使える物を指している。
さて、ある会社の内部では、1.と2.両方の活動を行っているが、たいていはどちらかに重心が置かれる。
例えば、今まで市場になかった新しいサービスを作ろうとしている会社は、「1.リソースを産み出す」が中心におこなわれ「2. 生み出されたリソースを奪い合う」はほとんど行われない。
例を挙げよう。
ここに載っている"グリー"の売上推移を見てくれ。
http://allabout.co.jp/gm/gc/432621/
2005年〜2008年くらいまでほとんど売上が0である事が読み取れる。
彼らはこの時期「ソーシャルゲーム」という新しい物を生み出そうとしていた。
当然最初は上手くいかないので売上は0だ。
そして、0はどう分けても0だ。0を奪い合う事はできない。
こういう状況では「最適な解を出す能力」は「正しいか、正しくないかにかかわらず自分の解答を通す能力」に優越する。
再びグリーの売上推移にもどろう。
2008年〜2012年をすっ飛ばして、2013年を見てみよう。
一度急上昇した売上がガクッと落ちている。
売上が落ちた理由には色々あるが、
一般的な法則として「ある市場で高い利益を上げれば、競合他社(ライバル)がわんさか参入してきて、血みどろの戦いとなり、高い利益率を維持する事が難しくなる」という物がある。
さて、このように 新たなリソースを産み出す事が難しくなった社内で幅をきかせるのはどのような能力か。
それは、「正しいか、正しくないかにかかわらず自分の解答を通す能力」だ。
なぜなら、新たなリソースを産み出すことは限りなく困難になっているからだ。
新たなパイが生まれない以上、今あるパイをより多く奪ったやつが生き残る。
日本には成長産業と呼べるような物は数少ない、その上に人口減少と圧倒的高齢化によってほとんど全ての市場が規模を縮小していく事になる。
だから、大抵の場合「正しいか、正しくないかにかかわらず自分の解答を通す能力」を持った人間が強い。
でも、もし増田が「正しいか、正しくないかにかかわらず自分の解答を通す能力」より「最適な解を出す能力」で戦いたいのなら、戦う場所を良く選ぶことをお勧めしたい。
増田は、パイがこれ以上大きくならないところで戦っちゃだめだ。
もし増田が、パイがどんどん大きくなりつつある場所で戦うなら、おばちゃんのジャッジは誤りだ。
これが私のおばちゃんに対する評価だ。