はてなキーワード: 弘法大師とは
増田を書こうと思ったのだが執筆速度が遅くなりすぎてやる気にならない。
弘法筆を選ばずなんて言うけど大嘘だ。
弘法大師が使うような筆は、その中で最低品質の物でも、最低ラインなんてとうに超えているのだ。
最高に素晴らしい物と、最高に素晴らしいとは言い難い物を比べているだけなのだろう。
たとえば、60点で合格のテストを受けて、優等生は70点でも「失敗した」というだろう。
優等生にとっては100点がとりあえずの目標で90点ぐらいが及第点なわけだ。
その中で70点は物凄い低くて許せないぐらいの点数となる。
筆として使うのが間違っているレベルの筆は弘法大師の所までは来ないのだ。
万一紛れ込もうものなら、本人の手に届く前に弟子が排除しているはずなのである。
つまり、弘法は筆を選ばずとも自然と最低ライン以上の筆を手にできるのだ。
彼ら名人は、この筆は90点レベルのしょぼい筆だなあと思いながら、一般人からすれば十二分にすぎる完成度を誇る筆を使って文句をいうのである。
全くふざけた話だ。
この諺の本位はそういう皮肉にあるのではないだろうか。
それならば、何も間違っていない。
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
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1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
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1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
http://anond.hatelabo.jp/20160827122113からの続き
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163510618
言って欲しいか?今回のことはアンタが言ってはいけないことを軽はずみに投稿したことから始まる。
以前「始末書くらいでは済まなくなるぞ」と警告しておいたはずだ。以前のやり取りもプリントアウトして主監に提出だ、あなたはバカだから自分の投稿で包囲網をどんどん狭める(大笑)。
退職願の書き方は調べたか?「私は弘法大師を信仰していませんでした」とか「私はバカでした」とか、バカ正直に本当のことを書かなくて良い。「一身上の都合」でよい、よかったな、安心して退職願いが書ける。
依願退職だから、失業保険は無理だがはるかに多い退職金がでる、外道が退職するからといって高野山真言宗が退職金を払う必要なないと思うけれどあなたの人生ではそれなりの大事件なんだからもらっておけ、許す。
バカが騒げば騒ぐほど主監はバカをかばえなくなる、自分の首を絞めるだけでなく主監の選択肢を狭める、あなたの愚かさは主監を追い詰める。主監は「信仰者」だが本山は主監に「信仰者」として行動することを期待している。本山が絡むと主監はあなたをかばえなくなる。
あなたのように太い人脈はないが本山に知り合いが全然いないわけではないから、本山に知らせておいてやる。
諦めが付いたか??
ファイナルカウントダウンを始めたのはあなただ、自分でまいた種は自分で刈らねばならぬ、ジタバタするな、見苦しい。
日本仏教は世界最強の仏教だが欠点もある、inchiki_2004さんのような金持ち寺のバカ息子がいっぱいいて平均点を引き下げていることです。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163694695
過去の投稿を見ればわかる、頼むからもう少し仏教を勉強してくれ。
あなたが給料を得るのは普通免許を持っているから、私が給料を得るのは仏教徒だからだ。
「要普免」で高野山真言宗に貢献しているのか?釈尊と弘法大師の「信仰者」=仏教徒として給料を得ているのか?
世襲の寺に生まれたと言うことしか仏縁がない(本当に仏縁のある人がはたして寺に生まれるか??)住職が目標の外道と、成仏が目標の仏教徒とでは勝負にならんのだよ。
それゆえ、
削除するなよ。
プリントアウトすることは誰でもできる、内容は誰が出しても同じだ。
そんなにまな板の上にいるのが不安なら、自分でプリントアウトしてメモでもつけて主監のデスクに置いておくか、ご自坊に匿名で郵送すればよい。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164778016
ワイワイガヤガヤ楽しく妄語得上人法してますね、ゴミやガラクタがお互いをプラチナだ、ダイヤモンドだと言う。
(略)
「金持ち寺のバカ息子」の無能ぶり・バカぶり・怠惰・放逸・恥知らず等々、朝から晩までいやと言うほど現量=直接知覚してる。比量=推測・推理などする必要は全くない、目や耳が汚染され洗いたくなるくらいだ。
(略)
inchiki_2004さんはバカ(ヨガはヨーガが正しいのだからパーリ語はパーリー語が正しい!!)だから”現量”知覚能力はあるが”比量”推理能力は3歳児、肉体は健常だが精神に問題あり。
寺務長から「主監からお話がある、ちょっと特別応接まで」と何時言われるか?死刑執行が何時になるか?
多少でも仏教の知識があれば自分の犯した【罪】の程度を比量できるんだが、なにせ「金持ち寺のバカ息子」は「パーリー語が正しい」と「積極的に主張」!!する仏教ゼロだから、僧籍剥奪か?懲戒解雇か?退職願か?始末書か?退職金は出るかどうか?見当もつかない。
「おねげーでごぜーますだ、教えてください」と土下座リクエストする。
早く早くと死に急ぐな、遅かれ早かれ処分は出る。
他人のせいにするなよ、まな板のうえが心配・不安なのは仏教を知らないおのれの自己責任だ。
(略)
テーラワーダ外道いじめ、精神年齢3歳児をおちょくるのは面白いが、一人には高野山真言宗当局から「泣く子も黙る」厳しい処分??が下され、もう一人は10月15日に懺悔し悪口雑言を悔い改めてホンモノの「釈尊仏教」=「日本仏教」に転向するのだから今回はこのくらいで許してやる、ちなみに世親は大乗に転向したとき大乗を謗り続けてきたおのれの舌を切り裂こうとしたそうだがアンタの舌など別院に置いて行かれても迷惑なだけだからやらないように。
井の中の蛙、牛跡のボウフラ、穴の中でメクソとハナクソ、ゴミとガラクタがお互いにプラチナだダイヤモンドだと「妄語得上人法」していられるのもあとわずかだ!!
あなたのバカ暴走には同志○○さんもフォローのしようがなく困惑してると思う。
(略)
もとの言語がサンスクリットであれパーリであれ「短母音」と「長母音」を別の母音として区別する言語なんだから、その区別を反映しようとしない文字表記はローマ字であれカタカナであれデーヴァナーガリーであれ間違いである。
音を文字で表記するとき正解はないが間違いはある。「パーリー語」は間違いである。
ちなみにヨーガのオーがオじゃないのはオの長母音だからではない、オーは二重母音。
梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリプッタ
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11167211446
高野山東京別院へ参詣してaksobhyavajraさんと会話してきました。
>もう犯人探しはしないがaさん(編注:野村氏の問題行動について高野山東京別院へ質問状を送った方)からの公開質問状の入った封筒をスマホで写真に撮っている職員を目撃してビックリした。
とおっしゃっていました。
ちなみに高野山東京別院は警視庁高輪警察署と隣接してるんですね、チットモ知らなかった!!別院で悪いことをするとすぐ捕まえてもらえますね。
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◆野村懐忍さんyahoo!知恵袋現アカウント:samantabhadra1611(旧アカウント:aksobhyavajra、aksbhyvj)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10153854700
inchiki2004さん
『ゼロポイント』のアマゾンレビューにコメントをいただきましたね、例年頼まれる新年の護摩札を今年は頼まれていない。
多分、年賀状も来ない、多分、12日の神田も来ない。1月中旬にははっきりする。
何年も随分良くしてもらって、大恩があると言っても良い関係だが。期待はずれでしたか?
K先生はすぐに見限ったようです、あなたは無いもの強請りではないか?
神田も正直、張り合いがない「丸い三角形は存在する」「だったら何?」「丸い三角形は存在しない」「だったら何?」「そんなこと良いから、テキストを読み進めてください」よくないやろ!!
どいつも、こいつも「アンタ、それで死ねるんか!!」だ。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14158037979
仏事・儀礼はできるが仏教にはまるで興味も知識もない寺の子が同じ職場(高野山東京別院)の在家出身の積極的仏教徒である私の仕事ぶりが不満で高野山真言宗に貢献していないと言うことを「内部告発」してるんでしょう。
直接言うとか上司に言うとかすればよいのですが茶坊主の言うことなど私は弘法大師の教えで叩き潰してしまうのでこんなところへ投稿するしかないんでしょう。
(略)
やっているのはオン・ナマハ・シヴァーヤさんとバトルしていたときプロイールには書いてないじじいだという情報を投稿したインチキ2004さんでしょうが東京自由大学からたどって出てきた情報を公表したいんでしょう。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11158037741
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10160429500
高野山真言宗から給料をもらっているなら周りにいるのが外道の茶坊主ばかりだと油断して軽はずみなことを言うと始末書ぐらいではすまなくなる、扶養家族が増えたんでしょ、ハローワークで行列するか?おじいちゃんに泣きつくか?どうする「お父さん」?
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13162941948
短い付き合いでしたね。
あなたはいなかったか?(こういうところから個人が特定できる)
主監のPCに私の「回答一覧」のページを登録させてもらった「どんな話を写経会や読経会で話しているか?簡単に見れます、読んでいただければ幸いです」と伝えた。
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遠藤さんからいただいた手紙より「野島医院レポート」 http://odoruudon.com/old/nojima_re.htm
野島政男医師について、医療関係の人に質問します。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1037477020
「信じる者は救われる」ということだろうと思いますが、(略)
高額なものを買わせることはないようだと書きましたが、
日記、患者からのお便りなどがあったサイト。現在は消失 http://www.nojimaiin.com/
異常さがエスカレートしてきていて
※インターネットアーカイブで平成16年までの日記なら見れる https://web.archive.org/web/20040409104406/http://nojimaiin.com/index.html
うどん屋大繁盛記 http://odoruudon.com/old/udonnik23.htm
野島政男さんの講演会 http://plaza.rakuten.co.jp/siriun/diary/200407030000/
きょうの野島さんはGさんとおなじ宇宙から来た異星人の魂を持っているらしい。
往々にしてそういう人の話は、自己顕示欲とかイヤミ感があるのだが、まったくそんな匂いがしない。
「宗教は、悪魔がつくった。イエスも弘法大師も親鸞もみんな悪魔。日蓮やマザーテレサは堕天使。仏陀はレベルは低いけれど人類の中ではマシな方」
そういった目に見える世界は、大きく7つにわけられる。
アメリカ、中国、インド、ヨーロッパ、アラブ、アフリカ、南米だ。
それ以外はまあ、誤差みたいなもんだ。
インドはパキスタンと揉めがちだし、アフリカと南米は相変わらずの貧困状態だ。
世界はまだ美しくはない。
信念は規律に繋がり、規律は暴力を抑制するが、暴力無くしては理念は貫けない。
世界は殴り合いを続けながらそれぞれの信念に基づく正常な状態を目指している。
結局のところ、誰も殴りかかってこなければ、正当防衛の権利など必要無い。
目指す理想無くしてはそこへ向かう階段はつくれないし、魔法を唱えても階段は出来ない。
多大な時間と、恐らくは相当な犠牲を伴って、信念を基に長い石階段は作り上げられる。
そして、無情な時間は記録しない物事を押し流し、今ある事物から物語は逆算される。
例えば、日本ですらガンディーが非暴力を主張していたことは知られている。
しかし、インドは世界でも有数の軍事力を持ち、そしてその当初から構成員は志願制だ。
「ガンディーは国家を独立させた偉大な人物だが、夢想家で非現実的」というのが、
インド北部におけるインテリ層の多数を占める意見だと聞けば、驚くだろうか。
さて、日本が少子高齢化社会だということは、概ね同意を得られるだろう。
第二次世界大戦が終わりベビーブームが訪れて以降、一貫して合計特殊出生率は右肩下がりだ。
人口置換水準と呼ばれる「人口が減らない基準」を、1974年以降ずっと下回り続けている。
より正確に言えば、丙午の反発を含めた、いざなぎ景気期間ですら、ぎりぎり上回っていただけだ。
団塊の世代が思い描く古き良き昭和の時代も、全体の出生数が多く、個人の出生率は低い。
改正高年齢者雇用安定法で、企業は定年後も年金支給までは人を雇い続ける事が義務になりました。
政府は、投票権を含む成年の定義を引き下げて、18歳以上にしようとしています。
国立大学法人化から10年、国から給付される大学の予算は減り続けています。
貸与奨学金の実態は学生ローンと変わらず、悲惨な現実が増えています。
国際比較で日本の15歳の学力レベルは、トップクラスを誇っています。
一家族に子供が3~4人で当たり前な社会にするには、裕福な生活に慣れすぎた。
目の前には、人口が減り続け、大学が増え続け、膨らみ続けた大学生250万人が見える。
憲法第九条は、フィリピンの憲法と同じく戦争放棄を宣言しているし、
侵略戦争を放棄したスペインやフランスと同じく、我々は平和を求めている。
アイスランドやコスタリカも日本と同じく常設の軍隊はなく、武力を持たない。
だから国連に明記された集団的自衛権についての報道で、徴兵制を懸念する声を上げたくなる気持ちは良く判る。
だが、山頂にある寺院に向かう石階段は、赤鬼が一晩で作り上げたのではない。
多大な時間と、恐らくは相当な犠牲を伴って、信念を基に長い石階段は作り上げられる。
政府はいつから短時間労働者の果たす役割の重要性が増大していると言っていた?