はてなキーワード: 本能寺の変とは
新年だし新しいことでも始めてみようかと思ってる君たちへ贈る
https://zebrack-comic.shueisha.co.jp/title/243
自律型囲碁ロボットが1/5囲碁の日から、高島屋、囲碁サロン樹林で先行予約開始
https://twitter.com/SRobot90498/status/1740263218130682256
棋士も自分の対局日をよしろーさんのTwitterから知ることもあるのだとか
https://twitter.com/yoshiro_kaba
囲碁の別名
信長・秀吉・家康に仕え信長より名人の称号を授かる。本能寺の変で信長の首を算砂が持ち出した説もある
最高が7段だった時代に実力13段と言われた。現代でも歴代最強の声もある棋士。段位制度の開祖
秀策がよく打っていた「秀策のコスミ」は、江戸時代と違ってコミのある現代碁ではぬるいとされ廃れていたがAIによって評価され復権した。
秀策曰く「この先どんなに碁が変化しても碁盤が19路である限りこの手が悪手になることはないだろう」
家元制の本因坊としての最後の跡目本因坊。終身名人制の最後の名人。
当時世界最強棋士・李昌鎬との意見会で李昌鎬含めアマチュアが見ても、どう見ても白のほうが良さそうに見える場面、李昌鎬が「黒は投了レベル」とまで言った局面を「黒のほうがいい」と断言。
33年経ったいまAIにかけてみるとたしかに藤沢秀行の感覚が優れていたことが判明した。
https://youtu.be/KRnedlmloqo?t=1964
中韓棋士を熱心に育成したため、中国には藤沢秀行記念館がある。
読売新聞が中国から連れてきた天才棋士。読売の嘱託棋士として紙面の対局企画で日本棋院棋士たちを次々と破った。
木谷實とともに「新布石」を生み、それまでの碁を一変させた。
棋戦中継
韓国の囲碁チャンネル。仲邑菫の対局は今後こっちで見れるようになる
1月2日~4日には🇯🇵仲邑菫(14)VS🇨🇳呉依銘(17)VS🇰🇷金恩持(16)の日中韓天才少女対決の新春特別企画が行われた
https://www.youtube.com/watch?v=qhz7ix0nGgo
藤沢里菜がタイトル挑戦常連の余を破りベスト8まで進んでいる、ベスト4になれば女性初
実は現代は囲碁の歴史上かつてないほど覚えやすい環境が揃っている
普通の囲碁(日本ルール)を覚えるならこれがオススメ。無料で広告もなし
なんとこのアプリ、開発費2000万を囲碁篤志家の全額負担によって作られた
https://www.asahi.com/articles/DA3S15626082.html
囲う囲わないという言葉に混乱してる人は純碁から入るのがいい。
囲碁は純碁の石で埋める過程を省略しているだけだというのがわかる
戦国大名は巧妙な戦術と策略を駆使しました。たとえば、武田信玄は「武田の七本槍」と呼ばれる優れた武将たちを集め、独自の戦術を確立しました。また、織田信長は「本能寺の変」という奇襲策を用いて、敵対勢力を撃破しました。
上の説明に出てくる、「武田の七本槍」と呼ばれる優れた武将たちとは誰ですか。
「武田の七本槍」と呼ばれる武将は、武田信玄の家臣で、彼のもとで活躍した優れた武将たちのことを指します。以下は代表的な「武田の七本槍」の一部です:
山本勘助(山本勘助信綱): 武田家の家老で、信玄の側近として活躍。戦国時代の重要な戦闘で勇猛な姿勢を示しました。
梶原景時: 武田家の家老で、武田信玄の軍師として知られ、戦術的なアドバイスを提供しました。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
一応言っておく。
するぞ?
ちょっとだけするぞ?
日本における最古の『行きて帰りし物語』とされる『ヨモツヒラサカへの旅』がこの作品の骨子(ベース)だと思う。
元ネタというよりも「とりあえずこれを背骨にしてここに肉と別の他の骨もつけてこ」みたいな感じ。
いきなりジブリベースで読み解いてしまうと「ヒミ様ってなんで火属性なの?」という所で、「炎上のメタファーでは」「本能寺の変がモチーフ。君たちは宮崎駿の敦盛」と意味不明な方向に考察がすっ飛んでいきかねない。
ヨモツヒラサカベースであれば、「母親が火で死ぬ所から物語が始まっているのは、カグツチを産む所から物語が始まるヨモツヒラサカへの旅そのままじゃないか」となるからこの辺の混乱は少ない。
開いてはいけない産屋だったり、母親が帰れと言うのとかも、ヨモツヒラサカベースあるあるだなあでまずは終わらせてそれからじっくり考えようと思えば地に足をつけて考えられる。
小学生低学年ぐらいの子は仕方ないにしても、高学年ぐらいだったら日本の歴史として「イザナギとイザナミがいたという設定があって、イザナミがカグツチファイヤーで自爆して死んでまあそこから色々ダークファンタジーじみて来たんすよ」と授業で習っていると思うし、子供もついていける内容だったのではと。
宮崎駿が最後の物語に選んだテーマとして古事記に挑戦ってのも、ラスボスのチョイスとして納得感はあると思う。
いや本当、この「ヨモツヒラサカ」解釈って全く大発明感がないというか、「素直に見てたら普通に分かるよね?」と俺は思ってたんだよ。
誰もその話しないでひたすら「後継者争いがテーマで主人公は宮崎吾朗」「インコはテレビ局の社員」みたいな考察ばっかが飛び交ってるんだもの。
「こんなオタクにしか伝わらない映画やっちゃってさ―」じゃなくて、中学生以上なら皆知ってる内容がベースだから。
じゃあ俺から言うよ。
作画は凄かった。
『パリピ孔明』がビリビリでバズった話は聞くけど欧米での人気はあまり聞かなかった。日本人も中国人もそこそこの歴史好きなら「諸葛孔明は三国時代の蜀で活躍した軍師」と知ってるだろうが欧米で Zhuge Liang を抑えてるのはかなりのマニアだろう。
昨日の大河ドラマ『どうする家康』が「本能寺の変まで46日」という煽りで終わったがこれも日本人なら本能寺の変で明智光秀が織田信長を討つという知識が前提としてある。普通の作劇なら家康の信長暗殺計画そのものを引きにするところだがそんな計画がそのまま進むわけがないのはみんな知っているのである。
ノイタミナでやってた『平家物語』は海外輸出を意識していたのかな。琵琶の予知がみんな知ってる歴史の提示だったのだと思う。正直それ以外の効果としては微妙だったと思うのだが。
本日は日本においてイタリアワインの日、横浜港開港記念日、長崎港記念日、横浜カレー記念日、路地の日、裏切りの日、ローズの日、CEの日となっております。
明智光秀が本能寺の変した日が旧暦の6月2日だから裏切りの日にしたんだそうです。
現在の暦では六月二十一日が本能寺の変を決行した日なのだそうな。
裏切りって縁遠そうに見えて割と身近だったりするので油断しないほうがいいです。
突然訳のわからないタイミングで「裏切ったな」と言われることはありますからね。
とはいえ、聞かなくていい時もありますし、訳がわかってない時に説明を求めて説明もされないのなら、多分切っていい関係性なんだと思います。
自分が自然にしてる行いの上での裏切りだとなったら、どうしようもないですからね。
裏切ったというよりも合わなかったが正解ではあります。
きちんと契約をした上で守られなかった不履行につきましては各々の契約書を再度読み返して、罰則の項目なども読み込んでいただければ被害は少なく済むかもしれません。
とはいえ、この書き物は前提として役に立たないジョーク紛いのものなので
『裏切り判定』とかいうフワフワしたものをズバッと振り翳すヤバい人は結構いる、ってのだけ覚えておくといいかもしれません。
ということで本日は【契約内容の確認よいか】でいきたいと思います。
『信長 KING OF ZIPANGU』(NHK、1992年) - 田向正健脚本による大河ドラマ。「ソテロ」の名で登場。二条城の信忠に変の報告をするために寺を抜け出し、完全武装の鎧武者を素手で撲殺する。その後の消息は不明(演:リード・ジャクソン)。
『秀吉』(NHK、1996年) - 堺屋太一原作、竹山洋脚本による大河ドラマ。ヤスケは信長とともに戦い、信長に先んじて明智軍の槍ぶすまで突き殺されている。(演:サムエル・ポップ)。
『軍師官兵衛』(NHK、2014年) - 前川洋一脚本による大河ドラマ。史料にある、信長に謁見して召し抱えられる状況が再現されている。(演:ベルナール・アッカ)。
『軍師官兵衛』はあまり印象に残っていないけど、『信長』と『秀吉』では本能寺の変に参戦するから覚えている。
チャドウィック・ボーズマン主演でハリウッド映画の企画があるけど、プリプロダクション段階のうちにボーズマンが亡くなってしまった。
明智光秀の実在性は疑いないであろうが、本能寺の変の3年後に生存して馬に乗っていた(「麒麟がくる」)とは認めがたい。
当人が埋葬から3日目に復活してしばらくして昇天しただとか伝道の最中でさまざまな奇跡を起こしただとかは史実として認めがたいにせよ、2000年ほど前にガリラヤ周辺でイエスを名乗り、標準的ユダヤ教教義からは異端とみなされるであろう布教活動を行い、当時のローマ帝国ユダヤ属州総督ポンティオ・ピラトにより刑死させられた人物の実在性は確かである。
推古朝の政治にどれだけ主体的に関与した(十七条憲法や冠位十二階を制定した「聖徳太子」なる政治家がいた)かには疑問を挟む余地があるにせよ、用明天皇の嫡男であり斑鳩の地に一定の勢力を有し、それゆえに嫡男山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされることになった有力皇族厩戸王の実在性についても疑問を持つ者はほぼいない。
欽明天皇の3代前である継体天皇以降の天皇の人物としての実在性はほぼ確実といってよく、例えば天武天皇と持統天皇が叔姪婚をしていることはほぼ疑う余地はない。