はてなキーワード: 日体大とは
前の交際相手に「どこが好きなの?」って聞かれても好きな所なんて一個も思いつかなくて(でもなぜか好きだった)「好きだから好き」っていつも返していた。
その相手に対して恋愛感情が冷めると、その相手がただのブサイクすきっ歯出っ歯だんご鼻マザコンで日大を日体大と間違えた挙句それを指摘するとどっちでもいいじゃん!そうやってすぐ揚げ足取る!!😡と逆ギレするバカで箸の使い方がおかしい人にしか見えなくなって即刻別れを告げた。
それからずっと前から好きだったって告白してきた人(大学で初めて出会った自分と同じ境遇の過去を持つ人で仲良くなりたいと思っていた)と付き合うと、ぱっと見地味だけど顔がキレイ、歯並び良い、メガネしてない方がいいよって言っただけなのにコンタクトにしてきてくれる、箸の使い方おかしくない、一緒にいる時スマホいじらない、他にもいっぱいあるけど挙げるならこれだけで十分で好きな所いっぱいある事に気がついた。
好きな所なくても好きなのが愛なのかと思ってたけど、好きな所という地盤があれば恋愛感情が落ち着いても底まで落ちていかないからなんか安心する。なんかこんな感覚は初めてだ。
この春顧問の割り当てがあり、なんと私の名前が空手部の顧問のところに入っていた。正直死にたい。
私は根っからのスポーツ嫌いである。どのくらい嫌いかというと、オリンピックや野球、サッカーなどのスポーツ中継は一度も見たことがなく、テレビで見かけようものなら一目散にチャンネルを変え、オリンピックの時期に盛り上がろうものなら新聞のオリンピックの記事を破り捨て泣きじゃくるぐらいに嫌いである。
なぜこのようになったのか。私は予定よりだいぶ早く生まれ、かつ、早生まれだったので、小さいときはまわりと比較して体の成長が遅かった。故にスポーツは苦手であった。ここまでは、ただのスポーツ嫌いで済んだのだが、ここにいくつもの事象が根っからのスポーツ嫌いに仕立てあげた。
夏休みになると、ABC放送ではパーマンなどのアニメがやっていた。ところが高校野球のシーズンになると、これがやらなくなる。高校野球は、私から好きなものを奪う最悪なものだと認識した。
中学校に入ると、科学部に入ろうと心に決めていた私に体育の女の先生が厳しい顔をして言った一言がコレである。「男子の人は基本的には体育会系クラブに入ってください」。中学生なりになぜ一覧にあがっている科学部に入るのはだめなのかと疑問を持ち担任に聞いたところ、科学部で構わないということだったが、なぜこんな事をいうのか意味がわからなかった。
中学校のとき、クラスのF君はサッカー部だったが、私から50円を借り返さなかった。ほかの連中も俺をからかってきてばかりでゴミクズみたいな奴ばかりだった。サッカー部の連中は人間性が下劣なことが圧倒的に多い。
中学校のとき、野球部の山本君は、圧倒的体力で、暴力を使って私にイタズラをしてきた。同じく、柔道部のI君は技をかけてきた。
高校は工業高校だった。工業高校に入って体罰を生徒らに加えてきた体育の先生が豹変し、おとなしくなったと思ったら言った一言がこれである「機械が好きで入って来ているような奴はおらへん。だから、俺と、サッカーやろう。」。
別の体育の先生が言った準備運動中、大の字で体育館で寝ているときに言った言葉がこれである。「寝るという行為は大地からエネルギーを吸収する行為なんですよ。」。科学万能主義の私には全く言っている意味が理解できなかった。
先の体罰を加えた先生は、体育の別の女の先生をひっぱたいてたし、バレーボールを土足で蹴ったことが気に入らなかったらしく、生徒が首に巻いていたタオルをつかんで地面に生徒をたたきつけていたし、体育館の入り口に靴が並べられていなかったのが気に入らなかったらしく、焼却炉で靴に火をつけたりしてた。
そんなこんなで、私は体育が完全に嫌いになった。
大学に入ってスポーツ中継が好きな友人に聞いてみたのだ。「スポーツってなにがいいの。なんのためにあるの。」と。すると彼は「スポーツは人々の注意が権力者に向かないようにしておくためにあるんだよ。」と言った。教職を取っていた私は、学習指導要領を確認し教科「保健体育」の目的を確認したのだ。すると「健康を増進することを目的とする」というようなことが書いてあった。ところが、現実には、体育には、ただそれだけではない、日体大の「団体行動」に代表されるような人々の教化する役割が与えられている。
これは、人類の歴史を紐解けばある意味当然なのである。お殿様が領内の体力のある者からクーデターを起されないためには、体力のある者をみつけだして褒美を与えて見方につけて置かなければならなかったのである。これは、憲法が制定され法治主義になった現代でも、人殺しのための武術だけでなく、「サッカー」「野球」のような新たな発明が導入されるようになった他は、戦国時代と何ら事情はかわらない。スポーツは、権力者が民衆を隷属させるためのツールにすぎないのだ。
おとなになってからもこの事情はかわらない。大好きだった同僚から言われた一言が「(付き合うなら)○○もなんかスポーツをして、さわやかなスポーツマンになってください。」である。付き合うのにスポーツができないとだめなのかよ。。。。。
そんなことを考えているうちに、単なる体育嫌いから、一切、スポーツに手を貸したくないと思うと共に、体育会系クラブの顧問は糞だと思い、これに参加する生徒は可哀想な人だと思うように鳴った。これは、正直私の中では、君が代斉唱よりもはるかに嫌悪感が高い。
こんど高体連の会議がある。民衆を隷属させるためにスポーツに手を貸すのは、心が汚れるようで、空手の技やルールが脳の神経ネットワークに刻み込まれるのは、体が汚されるようで、正直つらい。
SNSに「スポーツは民衆を隷属させるために開発されたツールだ」と正直に書いたら、いろいろな先生からひそひそ、「私はスポーツ観戦が好き」「スポーツはリクリエーション」とかいろいろなことを言われてしまった。そういう一般的な理解をしている人がいることはわかるが、今の自分が理解されないことが、もっと悲しくて辛い。
そんなことを夜な夜な考えていると本当に死にたいと思うようになってきて、ついSNSに書いてしまった、すぐに消したけど。
オートメーション化が進み、パワードスーツが開発され、AIで自動車が走り、グローバル化が進み、法治が進んだ未来においては、体力を持っていることなんて何の意味も持たず、地域で争うこともなく(スポーツは自分が属するチームを応援することなどを通して過当競争を促進する)、スポーツ自体が何の意味も持たなくなってしまうのではなかろうか。
死ぬぐらいならとっとと職業やめたほうがいいって冷静に判断がつくので、もう少し耐えてみようと思うが、スポーツに手を貸すのがつらくてしょうがない毎日。
2009年に千葉と同じような戦法で甲子園を戦った佐藤涼平のことは知らないか?
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4164-clmn2009-01-date20100211no03tm
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4167-clmn2009-01-date20100213no03tm
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4169-clmn2009-01-date20100214no03tm
小兵に小兵なりの戦い方を叩き込んだのは監督とコーチで間違いない。
佐藤涼平は花巻東を卒業後、日体大に進み、そこで自ら命を絶った。
周囲に比べて明らかに見劣りする身体、そして「正統ではない」戦い方を疎まれて潰されたのではないか?
力でものを言わせれば言う事を聞く、それで見た目だけでもおさまっているように見えればOK ですか?糞が。
卒業した中学で印象的だったのが、強面の日体大教師が居なくなってから、1サイクル(3年)たって万引きなどが横行した事。
PTAの申し入れで居なくなった教師が、どれだけ効果的だったかって話さ。
問題なのは加減をコントロールできないことであって、威力行為そのものではない。
実際問題、未だ荒れていて解決の目処が立たない。
言ってわからない奴や、言葉を呑む必要がないと理解している奴には、そもそも言葉が届かない。
そんな状況で、教師から威力行為すら奪ってしまっては、まともな教育なんて「運」に頼るよりないだろ。