はてなキーワード: すももとは
・「靴の踵がすり減った女」「服装のだらしない女」を狙えと本質的には同じ
・男女問わず、興味も無いのに出会いを目的として趣味の場に踏み込んでくる人間は嫌われる。
・男女逆で「理系男子は女慣れしてないから狙い目!」は叩かれない?チョロいから狙い目ですよって言われりゃ男女問わず不愉快。でも何故こちらは許されがちなのか。
→草食系男女ブーム、優しい男、線が細くて眼鏡の似合う知的な男が好き、一定の需要がある。塩顔、しょうゆ顔や、体育会系、文化系のような好みの問題として許容されてる?でも男のおとなしい女子が好き、は昨今叩かれがち。
→言葉選びがマズい。
→属性の規模によっては忌避感がある?ハンドメイドは今の時代ややマイナー趣味、でもこれが編み物女子、陶芸女子だとピンポイント過ぎて「そっか」って感じでは?釣り女子アウトドア女子だったらどうだろう、やっぱりモヤっとするだろうか。理系男子…は実質メガネ男子ぐらいに相当するので、メガネ女子を狙え、ぐらいのものか。
小説の書き出しを愛でる、という趣向がある。例えば、フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』の書き出し、
「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。 」
であれば、楽曲の歌い出しを愛でる風潮があってもいいじゃないか。というわけで、いくつかいろいろな意味で気に入っている歌い出しを挙げていく。
平易な文だが、わけがわからない。「バスの揺れ方で」「人生の意味がわかった」「日曜日」。それぞれの繋がりに全く論理性がない。飛躍も飛躍。猛スピードで爆走するバスが聴き手を置いてけぼりにしている。行間を読む力が試される。
さらに難解なのは、次段である。「でもさ」と逆説になっている。そこにいるのは「運命の人」である。運命に対して逆説で語るかね。ちょっとした諦めみたいなものさえ感じられる。果たしてこれはラブソングなのか?
だいたいにして、歌詞の序盤で唐突に出てくる「運命の人」という重要且つ雑なフレーズについて、以降の歌詞で全く説明されない。繊細な歌詞を書くスピッツのことだから、これは意図的にやっているとしか思えないのだけれど、だとすればますます謎は深まるばかりだ。
スピッツ屈指のポップな名曲だが、歌い出しからしてわけがわからない。それを含めて名曲たる所以なのかもしれない。
「あたしの髪が伸びて驚くほど久しぶりになってしまわぬ様に
昨日より少しだけ多めにあたしのことを考えてほしい」
aikoは曲も素晴らしいが、歌詞も素晴らしい。一番好きなのがこの曲である。
歌い出しの部分、要するに「ずっと好きでいて」ということを言っている。西野カナならそのまま「ずっと好きでいて」と歌うか会いたくて震えるだろう。だが、aikoはたったそれだけのことを、これだけの文量で詩的に語っている。胸に迫る。
その続き、
「初めて逢った日にもう一度逢いに行って そしてまた同じ様に
ぎこちなく合った目の奥にいるあたしを愛して欲しい」
これは要するに「ふたりが初めて出逢ったあの日を思い出してね」ということを言っている。実際に西野カナは「トリセツ」で「ふたりが初めて出逢ったあの日を思い出してね」と歌っている。しかしaikoはたったそれだけのことについて、何でこんな奥行きのある言葉が思いつくのだろう。
ちなみに、私は西野カナのことが嫌いなわけではない。西野カナはメロディーにいい感じの歌詞を乗せる技術に関しては天才的だ。BGMとして心地よく聴ける。
「酒、飲ます」
アルバム『GO』の一曲目の歌い出しでいきなりこれである。聴きながら「おや、歌い出しが『酒、飲ます』って聞こえるな」と空耳かと思って歌詞カードを確認したところ、紛れもなく「酒、飲ます」であった。助走もなくいきなり飲んでる。
ついでに言えば歌詞の続きは「学校は最近どう?」であり、誰に酒を飲ませているんだ。
もう食べられるところはないんだ」
最近一番インパクトがあったのはこれである。爆笑した。巨大生物って何だね。メロウでバラードと言ってもいいほどの楽曲で、タイトルに「Confession」とか仰々しく付けられているにも関わらず、歌い出しでこれ。
ももすももすという人は、メランコリック写楽というバンドの元ボーカルももすのソロ名義である。メランコリック写楽時代を含めてほぼ全ての楽曲で作詞作曲編曲をこなしている。それにしたってメランコリック写楽とは何だ。ももすももすってなんだ。ロンゴロンゴかよ。
余談だが、相対性理論以降、ポップな楽曲にかわいい系のボーカルが意味不明な歌詞を乗せることを特徴とするアーティストが散見される。最近だとネクライトーキーとか。もしや遡れば椎名林檎「丸の内サディスティック」に行き着くのかもしれない。何だ歌い出しの「報酬は入社後」って。
こういうジャンルにそろそろ名前が欲しいと思うものの、名前をつけてしまったら陳腐だなとも思う。
You say stop and I say go go go.」
ポール・マッカートニーの作品である。甘くポップな曲調に、上記のような特に意味のないような平易な歌詞が乗せられる。
この曲に対してジョン・レノンが「君の曲には主義主張ってものがないからだめなんだ」みたいなことを言ったらしいけれど、個人的に、音楽は主義主張を抜きにしてポップであればあるほど好ましいと思っているので、この曲は私の中でポップ賛歌みたいな位置づけとなっている。
歌詞も気が抜けていていいじゃないか。ゴーゴーゴー。何も考えずに聴けて幸せになれる珠玉の一曲である。
※
この歌い出しが好き、意味わかんない、笑える、などあれば教えてほしいです。
リサーチ会社に外注したものなのに「すももだから信頼に値しない」と言うリテラシー無い思考停止な奴多すぎだよな
(あの結果はおかしいから調査方法がおかしいに決まってる、って言ってる奴数人見たけど自分の感覚が狂っているだけとは思わないらしい)
今更だが、宇崎ちゃんポスターがこんなにも揉めたのは、ファンと非ファンの認識の差が大きいと思う。
宇崎ちゃんはその名前からして、「ウザキャラ」である。ウザいとはつまり不快ということだから、ウザさを前面に出した宇崎ちゃんポスターが人を不快にさせるのは宿命のようなものであった。
宇崎ちゃんのファンは漫画やアニメ(あるのか?)を通して、宇崎ちゃんはうざ可愛いなぁと思うのである。巨乳も煽り台詞も可愛い宇崎ちゃんの個性である。
問題は、宇崎ちゃんを知らない人。知らない人達の中に宇崎ちゃんポスターを見て「ありえない巨乳の女が上から目線で煽ってくる、訳わからない不快な絵のポスター」と感じる人が多くいるのだ。
今回揉めているのは「宇崎ちゃんポスターは人を選びファンでない人を不快にさせるからダメだ」派と、「いや、ファンでない人を不快にさせようとファンが来て献血が増えるからいいんだ」派である。
献血という人の命が関わる事柄なので、後者には正当性があるように思う。だが、前者の人達はそれに危うさを感じているようだ。
もしこれが宇崎ちゃんでなければどうだろう?
露出のない宇崎ちゃんと違って、極端な話裸でM字開脚した絵、いや写真だったら?それでも話題につられた男性客が来るだろうからいいのか?
エロじゃなくてグロだったら?グロ好きは来るだろうが、いいと言えるのか。
或いは、大きなムカデの写真だったら?不快になる人は多いだろうがムカデ愛好家は来るだろう。
差別がどうのという話なら、黒人差別ポスターだったら?差別主義者の白人が来るからいいのか?
「ファンでない人を不快にさせようとファンが来て献血が増えるからいい」には限度があるのではなかろうか?
勿論万人に受け入れられる表現はないが、赤十字のポスターはコラボ先の愛好家でない人が見てもある程度スルーできるものでなければならない。
宇崎ちゃんが「ある程度スルーできるもの」だったか。これが微妙なのだ。
すもも氏の調査でも、「宇崎ちゃんは不快じゃないし問題ない」と受け入れているのは、一番寛容な20代男性ですら半数を切ったのだ。女性は大半が不快感を示していた。
だが、これは宇崎ちゃんのポスターのみを殊更取り上げた結果であり、他のポスターと並んだ状態であれば不快だとも思われずスルーされていた可能性もある。
もう一つ、揉めているのは男オタクと女オタクの考えの違いでもある。
ある女オタクの人が、「私も萌えキャラやエロが好きだ。だからこそ、萌えキャラで人を不快にさせたくないし結果的に迫害されたくない。住み分けたい」と言っていた。
これは女オタクの考えだ、と思った。
不快にさせないよう、結果的に自分達の立場が悪くならないよう、私達は隠れよう、住み分けしよう。そう思って身内で「学級会」を開く文化の女オタク。
これに対し、隠れるなんてしたくない、自分達が受け入れられる社会を目指したい男オタク。
両者はけっして分かり合えない。