はてなキーワード: あの世とは
「心理的安全性」って、最近よく聞く単語で、Googleが出してきた「安心して自分の意見を言える環境」って概念みたいなものなんだけど。
最近ちょっと「あれっ?」って思うのは、そういうチーム作りみたいなのを推進してる人がメンバーいじったりとか言いたい放題で。
こういう構図はなんか学校で見た気がするなあって思って、もしかしてイジメてる側に回ると心理的安全性が担保されるんじゃないかってふと気付いた。
どこまでが冗談で済むのかみたいな閾値はそれこそ人それぞれだし、まあからかったり冗談言い合えるくらいのことはいいと思ってるんだけど。
メンバーも平気そうには見えるし、だからその人が問題行為してると言いたいわけじゃないんだけど。
なんかそうやって「心理的安全性=すべてにやさしい世界 じゃない」って考えると、Googleとかモヒカンがマサカリを投げ合う世紀末に思えてきてこわい。
きかんしゃトーマスって、改めて考えるとなんなの?
アンパンマンは流星が生み出した化け物ということで、その世界の中で理解できる。
あれは蒸気機関車だから、胴体は人間が作ったんだと思うけど、顔面もそうなの?なんで?
それともあれは、ヤドカリみたいになにか別の生き物が入り込んでるの?
あるいはあの世界では、トーマスみたいなやつが機械部分ごと生命として繁殖してるとか?じゃあゴードンのケツからいつの間にかゴードンジュニアが出てくるの?
一番納得できるのは、トップハム・ハット卿を始めとする登場人物が全員薬物をキメてて、乗り物に対する思い入れがあの幻覚を生み出している、という説だけど、なんかもうバッドトリップだろ。
自分が知っている事
・一週間で呪い殺されるのは、ビデオを見た者の網膜からリングウイルスが入り込み、肉腫を作り一週間で死に至るから
これでなんで松嶋菜々子が演じる主人公が助かったのかがわからない。
ダビングしてみせると呪いが解ける旨がリングの最後に明かされ、実際その方法で陽一も呪い殺される事はなかったが、
前はふとした合間に死にたい死にたいと頭の中で呟いてて、でも子どももいるし、自分一人の都合だけで死ぬわけにはいかない、だから、死なない、という結論になってた。
友人は自分で死ぬことを選んだのに、なんで私はまだここに生きてるのかと違和感ばかりあって、頭の中がぐるぐるしてた。
そんな時偶然にスピリチュアル系の人に会えた。
亡くなってしまった友人の話もした。
あなたはこれだけ強い守護霊(騎馬武士)がいて、さらにお友達もいるんだから、大丈夫、好きなことをしなさいと言われた。
だけとも違和感が拭えないのだ、彼女と私は似ていて、彼女は死ぬことを選んだ世界に、なぜ私は生き残ることができてるのか、わからない、とつぶやいた。
そうしたら、
お友達がいなくなることを選んだ世界だからこそ、あなたは生き残るべきなのよ。
生き残って、死ぬときがいて、お友達とあの世であったときに、わたしは生き残ったんだよ、と誇らしげに伝えなさい。あなたができなかったことを、わたしが代わりにやってあげたよ、と笑顔で伝えなさい。
そんな再会が望ましいに決まってるじゃない。
そう言われ、目が覚めたようだった。
あの子がいなくなったからこそ、私はここで生きていても良い証明をすべきなんだ。
それがわかったら、死にたい死にたいが、ゆっくり死に向かっていくんだ、という気持ちに変わった。
死ぬために生きてる。
死ぬからこそ、生きてるっていう過程を充実させる必要があるんだな、と。
ゆっくりゆっくり、好きなこと、楽しいことをたくさん味わって、死に行きたいと思う。
今度やっと友達の遺骨に会いに行ける。
しっかり手を合わせたいと思う。
今精神がボロボロなので、昔聞いた話をここに吐き出して安定を図ろうと思う。
入れる理由は「あの世で金に困らないように」あるいは「三途の川の渡し賃」が大体主だろう。
前者の考えは死ぬ=俗世から離れる、という考えの仏教にはあまり合わない考えなので、日本では後者が一般的。
生前の罪を反省し、仏に帰依し信心する。そういう現世から次の世界に進む通過儀礼の意味合いが強い。
なので昔はよほどのことがない限りは必ず文銭を入れていたし、現代でも印刷紙など代替品によって風習は続いている。
それも不思議なことに、地域の名士だとか知恵者、優れた人ほど入れない傾向があった。
一見仏道に反しているかのようだが、これには理由があったのだった。
払う代金がなければ三途の川を渡れない、そうなれば現世に戻ってくるしかないだろう。
そんな一方的な道理であれど、集落中にこの考えは染み渡っていたらしい。
あるいは一気に優秀な人々がいなくなって困窮した結果かもしれないが。
そんな経緯でこの風習は半世紀ほど続いていたんだが、ある年それで本当に生き返った人がいたらしい。
まあ死人がまた復活したら喜ばしいやら仰天するやらで大騒ぎ。しかしその人は浮かない顔で、もう六文銭を抜くのをやめろと言う。
村人が理由を聞くと、どうかもうやめてくれと必死に懇願されてここに戻ってきたのだと。
三途の川には罪の重さを量る「懸衣翁」と「奪衣婆」という鬼の夫婦がいるんだけれども。
どうやら六文銭がない分は彼らが自腹で払っているらしい。
一人一人の額はそれほどでもないが、増えれば途方もない金額になる。
ただでさえ飢饉やらなんやらで身も削られているのにわざとやられたら敵わないからやめてくれ。
そう泣きつかれたのだという。
それから今までの反省も加味して、十文銭を入れるようになったその村は「十文村」と呼ばれたとか。
まあ、うちの地元に伝わる古い古い民話なんだけどな。村の名前も読みこそ同じだが、漢字は既に別のものに変わってしまったし。