オナ禁フォースを使えるようになれば、電車でカップルが普通の会話をしているのを聞いてなんとも言えない気持ちになったり
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
ラノベとは比較にならんけど、「最近のホラー」は割とあるんですわ
冒頭からしばらくごちゃごちゃ話してるけど固有名詞とかたくさん出てきてよくわからんくなる
そんでその独立運動を劣化リリーナみたいなお嬢様がシンボルになってて、それが地球に向かうのに護衛で主人公たちに頼んできたと
でもそれを厄介に思う派閥から劣化リリーナが襲撃受けたって認識
単純にそういうことを知らないか、知っていても頭のなかでつながらないだけでしょう。
1巻が一番多くて賛否も分かれてる
2巻からガクッとレビュー減って、どっちかというといいレビューが増える
3巻以降になるとファンしか買わないからいいレビューしかつかない レビューがついてないこともザラ
当たり前の傾向だけど
たまーに粘着質なアンチがいると、買いもせずに低評価レビューだけ毎回つけてたりするけど、逆にそういうのがあるとそんなアンチがいるほどの魅力が良くも悪くもあるんだなと思う
ないですかね?
昨日の障害?メンテ?でこれまで増田に書きためてきたものが全部なくなる危機感に襲われた
26年秋にFE受けたとき、25春の午前の過去問だけ完璧に覚えたら超HITしてほぼ勉強せずに受かった
自分の家族に対して文句を言ってる人に、どういう相槌を打てばいいのか、あるいは打っちゃいけないのかが難しい。
本人が悪く言ってるからって、聞いてるほうも調子に乗って「そりゃひどい」みたいに言ってると、家族をけなされたと感じて不機嫌になる人もいるし。
「何だかんだ言って仲いいね~」的な返しが正解なこともあるけど、そうでない場合もある。
自分なんかは、家族の一部とはそれなりに深刻な断絶があって、「そうはいっても大切な家族なんでしょ」みたいに言われると、心底うんざりする。
どういう相槌を欲してるのか、みんな顔にでも書いといてくれたらいいのに。
この人はひまなんだろうかと思う。
というか、暇でも生きていける生き方がいい。
来る日も来る日も自己研鑽でつかれた。
ところで、hoi2はwindows8になったら挙動が不審になったのだが
windows10にしたらマシになったりしないかな。
ヲタク特有の知識ひけらかしたい欲求、似非アカデミズム欲求みたいなのがあって「語りたい」んだよ。
でも純文学批評とか映画批評は先行研究がたくさんあってそれらを一通りおさえておかないと小馬鹿にされて終わる。だから、ラノベとか深夜アニメとかギャルゲとかを語って先行者がいないところででかい顔しようぜっていうのは東だったわけなんだが、いまラノベを語っているのはそのさらに尻尾だよ。中心点は彼らの内的世界の肥大した自意識であって、ラノベってのは重要じゃないんだよ。便利な生贄ってだけ。
ブコメに「出版社は公益のためにブラックリストを共有すべき」とか「作家は交易のために損害賠償請求すべき」なんて意見が散見されるんだけど、そういう追加コストが支払えないからこういう事件が起きてるんだよ。ちょっとした追加コストであっという間に立ち行かなくなる、それどころかなんの問題も起きてなくてもちょっとした人気の陰りやスケジュール遅延であっという間に赤字になるような商売をやってるんだ。そしてそういう利益率の片棒担いでるのは消費者なわけなんだよ。
こういう「正しいことを言ったつもりの悪意のないコスト要求」って小売店のレジでもカスタマーでもいやっていうほど触れるんだけど、みんなびっくりするほど無邪気だよな。お金を出した瞬間、それがたかが数百円でも無限に大きな顔をするようになるのは国民性なのかなあ。人間のさがなのか。
http://anond.hatelabo.jp/20151017150249
ところで、どうしてライトノベルだけ「最近の」という枕詞がつくのだろう。
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
たとえば「最近の純文学」というフレーズを用いると、「最近の純文学ってなんだ? 綿矢りさの蹴りたい背中か?」「何言ってるんだあれ出版されたの2003年だぞ。もう10年以上も前だ。最近の純文学あげてみろよ」「ひ、火花……」みたいになって話が盛り上がらない。
そして「最近のケータイ小説」というフレーズを用いると、「最近のケータイ小説ってなんだ? あれだろ、映画化された恋空だろ?」「恋空も10年前の2005年に執筆されたんだ。てめえは一体いつの話をしている」となってやはり話が成り立たない。
最近のSFとして虐殺器官(2007年)を挙げるのも、最近のミステリーとしてすべてがFになる(1996年)を挙げるのも、「それは最近じゃねえだろ!!」とツッコミが入って、やっぱ話にならない。
でもま、なぜか「最近のラノベ」だけは話が通じてしまう。不思議なんだよな。
「最近のラノベってなんだ? ああ、あのアニメでやってるあれだろ。巨乳が生き物みたいに自己主張するやつ。昔はよかったよな。灼眼のシャナの貧乳なんて最高だったのに、最近のやからは貧乳がどれほどの価値を持つのか理解していない。嘆かわしい」
「最近の」とわざわざ言うからには、過去との対比がよほどやりたいのだろう。
スレイヤーズ(1989年)の頃は良かった、ブギーポップ(1998年)の頃は良かった、禁書目録(2004年)の頃は良かった。
それと比べて「最近のラノベは」と嘆くのは、果たしてそうだろうか。昔だって、99%のラノベはゴミみたいなもんだったぜ。
いや、ラノベだけじゃない。99%の純文学も、99%のSFも、99%の大衆小説も、99%の恋愛小説も、等しくゴミなんだ。
スタージョンの法則って知ってるか。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである。(Wikipedia:スタージョンの法則)
つまりな、そういうことだ。
「最近のラノベ」なんて存在しない。語ったところで、得られるものが何もない。
しいて言うならば、そのフレーズはラノベ天狗を怒らせることにのみ貢献する。
ラノベ天狗はな、俺は奴が怒る気持ちはよく理解できるんだが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うんだ。やり過ぎっつーか、不毛だわな。果てしなく不毛な戦いである。
雑なラノベ語りをする輩に喧嘩を売って、それで相手を論破して勝ったところでな、スカッとはしない。精神的な疲弊だけが残る。どれだけ叩いても、次々と飛び出てくるモグラのように「最近のラノベ」というフレーズが現れる。駆逐できない。無駄なんだ。
たとえブギーポップであっても、このオバケは倒せねーと思うぜ。何でって、「最近のラノベ」って言葉は、もうライトノベルを語る人々の心に憑り憑いてしまっているからだ。もう手遅れ。
だから俺はもう、諦めた。「最近のラノベ」それは取るに足りない、ちょっと足元を通り抜ける冷たいつむじ風のようなものだ。放っておいてやればいい。下手につむじ風をやっつけようと、足でバンバン踏みつけると、そいつは調子に乗って巨大化して、竜巻になるんだ。
「最近のラノベ」はもはや空気のようなものだ。あってもなくてもいい、存在していても存在していなくてもいい、その言葉そのものが持つ情報的価値はとっくに失われている。
なあ、だからラノベ天狗よ。俺は、先に逝くぜ。Windows8と共に、安らかな眠りの世界にな。