はてなキーワード: 交換日記とは
10年前の今頃、BWでポケモンにハマった私は、ちょうど先月発売されたポケモンXYに熱中していたと思う。
大人になるのは怖かった。小4、10歳という小さな節目で、私は少し大人ぶりたかったんだと思う。「大人と子供の狭間」そんな気分でいた。実際は10歳なんてまだまだ子供だった。そんな事に気づくこともなく少し背伸びした私は、筆箱をペンケースに変えてみたり、友達と交換日記をしたり、好きな人とゲームをしたり、いつか訪れる生理に思いを馳せてた。
それでも大人になるのは怖かった。大人って、ゲームもせず退屈そうに毎日生きてるじゃん。つまらなさそうで、楽しくなさそう。伴う責任に追われて、自分の好きな事できないじゃん。「10年後の私」は、大学生で必死に勉強してるか、必死に働いて、ゲームなんかしてないんだろうなって思ってた。
そんな事を考えてた10歳の私は、学校に帰ると3DSを開いて毎日どうぶつの森とポケモンを遊ぶ生活だった。
それまでドット絵だったポケモンが立体になって、ポケパルレで大好きなポケモンと触れ合えるようになった。新しく追加されたフェアリータイプはすんごく可愛くて、ニンフィアを常に旅パーティに入れてた。メガシンカしたサーナイトは綺麗で、何もかもが新鮮で、楽しかった。可愛いと好きで固めたパーティ。友達に弱いと言われても、それでもよかった。可愛いから。
相棒のフォッコがマフォクシーに進化して、友達のケロマツはゲッコウガになった。初めて友達とインターネット通信で遊んだ。また別の日には、みんなで3DSを持ち寄って何度も笑った。何度も、何度も笑った。
10年経った。
こんな大人になりたくなかった、なんて思っては大泣きする日々を過ごしている。
途中で止まっていたところから再開して、ストーリーで大泣きし、友達と写真を撮り、ガチグマを出しては「でっか!?」、ウパーを出して「ちっさ!?」なんて大笑いしていた。
笑いながらみんなでレイドバトルして、写真撮って、可愛いポケモンを愛でて、ストーリーで号泣して、キャラを好きになって…………。
気がついたら、全力で楽しんでた。余裕で楽しかった。手持ちにフォッコもニンフィアもサーナイトもいない。あの頃とは全然違うけれど、一目惚れしたミニーブやデカヌチャンが私の今の相棒。
もう草むらからポケモンが飛び出してくることはなくなったし、料理次第で割と簡単に色違いが手に入るようになった。オープンワールドで自由になった世界では、かいりきもいあいぎりも重宝しなくなった。ストーリーは3つあるし、DLCで新たな場所にもいける。あの頃のポケモンとは全然違う。けれども、楽しさは何も変わらない。
10歳の私へ
10年経っても私はポケモンを全力で楽しんでるよ。楽しみのない大人じゃなかった。大人になればストーリーに感情移入したり、楽しみが増えるんだよ。大人になるのを恐れないでいてほしい。
女性の文章は、『万人』に『わかりやすく』『簡潔』に『系統立てて』書いてない。
女性の文章は、『想定した人』に『わかるひとにだけわかれというスタンス』で『想いのみ』『思うまま』書いている。
SNSでのリプや初めましての挨拶は上手。そつのない文章はとても得意。
ただしそれ以外の文書になると授業中にまわす手紙や交換日記の文章になってしまう。
もちろん訓練を受けた人やプロは別。
それは男性の長文も同じではある。ただ、残念な男性の長文は笑えるくらい読み進むことができなくなる。圧倒的に国語力が足りてないからだ。
それが女性の長文は読めてしまうものが多い。言語を司るのが得意なので国語力もあるのだ。ところが万人向けの文章を書き慣れてないと、なにをいいたいのか読み手のほうが『感じ』なければならない。感じることができない場合は読むことができるが意味の通らない笑えない文章になってしまう。
そして3行に要約というのがそういう女性にとってもっとも苦手なこと。苦手というより意味がわからない。なぜなら文章を最大限の要約が『私をわかって』だから。
文章を簡潔にする行為は自分(の想い)を殺すことに等しいのだ。正しく伝わらない、いやもとい、正しく感じてもらえないと確信している。
そしてそれが読んでほしい人に「何が書いてあるのかわからない」と思われてもしょうがない。言いたいことを『伝えたい』のではないから。
『感じてほしい』、『共感してほしい』だから。それが運営につたわらないときは、「運営使えない」「運営無能」ということになる。
母は20年前、増田が中学生の時にガンで亡くなった。享年40歳とかだったかな。若いよね。
なぜだか最近になって悲しさや後悔をぽつぽつ思い出すから、吐き出したくてこのエントリーをしたためてみることにした。オチはない。
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増田が小学校高学年になる頃には母の入退院がはじまってて、父は仕事があったし、なおかつ妹弟もいたから家事は自分がやってた。よく考えたら今で言うヤングケアラー?周りからはあまり理解されなくて辛かったな。
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当時は今みたいにネット環境がよくなかったんで、入院中のコミュニケーション手段として母と増田で交換日記をはじめた。
でも増田も学校や部活で忙しくて、かつ思春期の照れもあって、すぐに自然消滅してしまったんだよな。死んじゃうんだったら、もっと続ければよかった。ノートは取ってあるけど、後悔がでかすぎて封印してある。
というか、もっとたくさん会話すればよかった。面会中とか、なんなら最後の方は治療の術なしってことで自宅療養してたから、時間はたっぷりあったのに。どうしてできなかったんだろう。
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母が亡くなった日は授業中だったんだけど先生に呼ばれて、「お母さんが危篤だから病院に行きなさい」と。
病院に着いたらいろんな機械や管を繋がれた母が「苦しい、苦しい」って言ってた気がする。親戚一同も集まっててさ。そのうちに医者が来て、もう保たないからってモルヒネ投与して。
そしたら、モルヒネによる幻覚なのか知らんが赤ちゃん返りならぬ子供返りしてたのを覚えてる。増田の祖母、つまり母の母親にジュースをねだるんだよ。冷たくておいしい、もっとちょうだい、ってさ。その目には、増田は映ってなかったと思う。自分は親で子供がいるってこと、もう分からなくなってたんじゃないかな。
お母さん本当にもう最期だから、近くで声かけてあげて、触ってあげてって周りの大人から言われたけど、できなかったよ。だって増田が知ってる母じゃなかったから。怖いと思ってしまったから。
だけど本当は声かけて、触ってあげなきゃいけなかった。それができなかった。産み育ててくれた人なのに、きちんとお別れできなくてごめんなさい。
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増田自身も子を持つ親になって、自分はどんなふうに育ててもらったかななんて思い返す機会も増えた。けど20年も経てば覚えてないことの方が多くて、それも最近よく後悔を思い出してしまう原因なのかも。
小学校までは男女隔てなく仲良く遊んでいた同級生達が中学に上がると、学ランに黒ズボンを履いた男子と、ブレザーにスカートを履いた女子に別れ、以前と全く違う人物かの様に急に振る舞い、お互いの間に透明で重厚な壁を立てた事がまず一つの原因だったと思う。
そしてまた別の理由は初めての恋。
仲の良かった女子の恋愛相談に乗っていて、彼女が好きな男子に振られると急に手の平を返して僕に好意を打ち明けてきた。その心変りの早さに僕は内心軽蔑した。
しかし、その頃物事を深く考えていなかった僕は、彼女の好意にロマンティックにも応える事にした。
放課後誰も居ない教室に二人きり、夕陽が窓から強烈に差し込む真っ赤に染まった教室の中で彼女に「付き合おう」と応えた。
顔は太陽と同じ様に真っ赤に染まっていたのに、その時の心情はただただ寂寥であった。
それは多分、自分自身でも心の内の声に気付いていたからかもしれない。
初めての彼女ができたものの、僕は具体的には一体何をすれば良いのか分からなかった。
恥ずかしさと面倒臭さで彼女と一緒にする登下校も拒否していた。
すると、どうしてそうなったのか直接的な原因は知らないが、彼女は一度告白をして断られた以前の男子といつのまにか付き合っていた。僕はその事を周りの同級生から人伝手に聞いた。
彼女と付き合う事を口言したわりに具体的な行動を示さなかったのは自分だ。
だから振られてしまっても仕方が無いのに、僕は自分でも驚くほどその事実にショックを受けていた。
気が付いたら学校に行くのが嫌になり不登校をし、家に居るのも何なので近所の空き地で身を隠して一日の大半を過ごしていた。
どうして自分は彼女に振られてショックを受けたのかをその時にじっくり考えた。
自分でも気付かない内に彼女の事をとても好きだったのだろうか。
彼女と付き合ってから変に意識し過ぎてよそよそしい関係にしかならなかった。
彼女の好きな男子の話しを聞いて軽く意見を述べたり二人で盛り上がったり。
彼女の話を聞く為に交換日記まで使って日々やり取りをするほど異様な時間を共に過ごした。
どうして僕はあんなにも心が躍っていたのだろうか。
そんな事を考えたり、空き地で飽きたら周りの人にバレない様に近所を散歩していた。
そしてある日いつも通り空き地で漫画本を読んでいる時に気付いた。
その時持っていた漫画は女友達に借りた少女漫画だったが、その中の主人公の女子と同じ様な感覚が、初彼女と共有していた感情にとても似ていた。
カッコイイ男の子を見てドキドキして、彼と話したくてでも話せなくてそんな状態にハラハラする。
漫画の登場人物に感情移入をする様に、彼女を通して僕は恋をしていたのだ。
そこまで考えて愕然とした。
僕はあの男子が好き?
もし僕が彼を好きだったら、僕は同性愛者なのかもしれない。
そういった行為が異常だという事は子供の頃からテレビや周りの人の反応で何となく認識していた。
なのに自分が異常と呼ばれる人間になるのかと思うと正直戸惑ってしまいよく分からない。
考えれば考えるほど自分は同性愛者なのでは無いかと疑問が湧いてくる。
それを確かめる術も同性愛という世界に対する知識を得る手段も何も無い。
男は女を好きになるものだ。それが当たり前とされてきた。
中学校の体育教師も「男は男らしくあれ、女は女らしくあれ」と、それがお前の遺言であれと思うほどに皆んなの前で説教していた。
周りの同級生達はアホ面を下げて遊んでいる。
その中の一人がすれ違いざまに「どうしたん?学校嫌になったん?」と声をかけて来た。
そして教室に入ると振ってきた彼女が何か言いたそうに暗い顔をして僕を見ていた。
その彼氏は僕と目を合わせない様にしているのが分かる。
僕が学校に来なくなったのは二人が原因だと彼等や周囲に意識されるのが癪で、負けず嫌いな僕は意地でも学校に行く様になった。
学校には行くし授業は真面目に受けるし周りの同級生とも普通に話していた。
でも心に虚無感を抱かない日は無かった。
同級生と下らない話の笑いに付き合えば付き合うほど、作り笑顔が上達すればするほど、心に抱えた虚しさは膨らみを増し、日に日に腹の中で闇が深まるのを感じた。
一連の出来事があった彼氏彼女とは学年が変わりクラス替えの為すぐに離れ離れになった。
彼と毎日クラスで会わなくて済む事に僕は心底救われた。彼もまた彼女に振られたようだ。
そんな彼に意外な言葉をかけられたのは冬のある日だった。
教室にあるストーブで温まっていた僕の隣に静かに彼が腰を下ろした。
その頃には挨拶程度は交わすものの会話という会話は避けていたので僕は気が気では無かった。
僕は何を言われたのか一瞬分からなくて答えに窮した。
それから彼は部活の話とか、教室で流行っているカードゲームの話を僕に振ってきた。
何となくどもらずに答えられた気がするが細かい会話の内容はハッキリとは覚えていない。
話している内に変にテンションが上がった僕達は他愛も無い話でバカみたいに盛り上がった。
彼の好きな女子の話は聞きたくないし、誰が誰を好きとか興味も無かったので僕は急に静かになった。少しの沈黙があって彼が小さな声で、でもハッキリとこう言った。
「お前が女だったらな」
…一瞬、頭が真っ白になった。
しばらくの沈黙の後、僕の頭の中に浮かんできた言葉はこうだった。
(俺は女じゃ無いし)
何故か怒りの様な感情が湧いた様な気もする。
それから僕達がどういう会話をして、その後どういう行動に移ったのかよくは覚えていない。
ストーブの熱のせいで頭がボーとしていた。
暖かくて明るい教室の雰囲気の中で僕の心だけが冷え冷えとしていた様な気がする。
そして自分の感情に蓋をして深く考え無い様にするしか術は無かった。
クラス替えをしてからは仲の良いクラスメイトに恵まれて楽しく過ごしていたし、1年生の頃の苦い思い出も自分に芽生えた小さな疑問も一先ず考え無い様に努めた。
こうやって自分を少しずつ殺していく日々が始まった。
自分を少しずつ取り戻していく日々の話はまた別の機会に。
#PRIDE月間
もう少しで息子が生まれるんだが、今後父親としてどういう教育をしようか色々悩んでいる。
俺は基本的にできるだけ結果を残してきた先人や歴史から学んで欲しいと思っている。
俺自身も親より学校や本で出会う人間からの影響が大きい。だからできるだけ外部の情報に触れて欲しい。
その為には幅広い人間と付き合うコミュ力や、いかがわしい人間を避ける拒否力も必要になってくる。
それと組織で立ち回る為の他人に対する想像力やニーズを察知して主体的に実行する行動力、それをやりたいと思える所属欲求も必要。
後はまあ最後までやり切る力、いわゆるGRITも身につけて欲しい。
そしてやり切った後にダメだとわかったら潔く諦めて別の道を探す切り替えも必要。
しかしそういうのって結局教育ではなく本人の生まれついての才能の要素が大きいらしいし、どんだけ教えたところで本人が学ぶモチベーションが無いと身につかない。
高すぎる理想を押しつけてしまえばそれこそ毒親になるのかもしれない。
子ども3人を東大に合格させた親は親自身も一緒に勉強して試験を解いたりしてたらしいし、大谷翔平は父親と毎日交換日記していた。
それくらい親も一緒に頑張らないと子供のモチベーションコントロールはできないのかもしれない。
かなり昔に買ったんだけど最近思い出して本棚から引っ張り出して眺めていた本。私がこれまで読んだ本の中で最も感銘を受けたもののうちの一つ。今見たけどアマゾンで誰もレビュー書いてないのでなんとなくここに書き残しておこうかなと思った。どうやってこの本に出会ったのかは覚えていないけど、まあ私は昔から他人の日記の類を読むのが好きだったからその流れで見つけたんだろう。内容をアマゾンから引用
「昭和36(1961)年、経済成長を始めた日本の片隅で、向学心に燃え芸術に憧れる少女が担任教師へ綴った、交換日記。」
読み始めたところからこの中学生只者ではないぞと思い、この中学生がその後どんな人生を送るんだと気になって一気に読んだ。そしてどんな人生を歩んだかを知って色々と考えさせられた。先生が最後に書いた「伸ばせば伸びるだろう才能が思う存分伸ばせる社会を作り度い。あなたの文章を読んでいて、その考えがますます強くなった。」という言葉に強く共感した。